紫香楽宮跡を歩く(ニ)

こんにちは。左大臣光永です。古い町家によく見る「べんがら格子」は外から見ても趣ぶかいですが、中から見るのも、またよいと、最近気づきました。京都には町家づくりの居酒屋や喫茶店など多いです。そういう店に入って、中から格子ごしに外の景色をながめると、楽しいです。景色が格子で区切られて、右に左に行き交う人々も、どこかドラマチックで、わくわくするものに思えます。人力車など通りかかった時は、もう最高ですね。

昨日に引き続き、滋賀県の紫香楽宮跡を歩きます。

紫香楽宮(しがらきのみや)は聖武天皇が近江の信楽(しがらき)に造営した宮(宮城)です。すぐに平城京に都が戻ったため、3年あまりの短命な宮として終わりました。そのため紫香楽宮の姿は長く謎に包まれていました。しかし近年の発掘調査により、紫香楽宮の姿があきらかになりつつあります。

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紫香楽宮跡(鍛冶屋敷地区)

前回「紫香楽宮跡を歩く(一)」からの続きです。

紫香楽宮跡(内裏野地区)を後に、県道53号線を北へ歩いてきます。

途中、信楽焼のツボやタヌキが多く、ここは信楽だと、実感します。

隼人川にさしかかる手前の黄瀬(きのせ)信号近くに紫香楽宮跡(鍛冶屋敷地区)の案内板があります。

奈良時代の建物や、銅の鋳造施設がみつかった場所です。たたらなどが出土しました。紫香楽宮と甲賀寺を結ぶ道路の中間にあります。

直径約1.7メートルの梵鐘がここで造られたことが判明しています。これは奈良時代のものでは東大寺の梵鐘につぐ大きさです。

『続日本紀』には「国中の銅を尽くして像(大仏)を鋳造し、大きな山を削って仏殿を建て、」とあります。「その実態を垣間見ることができる重要なものです」と案内板にあります。まあ遺跡は地下に埋まってて、見た感じただの原っぱですが…

紫香楽宮跡(新宮神社地区)

東名高速道路をくぐると右側に紫香楽宮跡(新宮神社地区)の案内板が立っています。

このあたりで奈良時代の建物や井戸、幅12メートルもの道路と橋脚が見つかりました。道路は『続日本紀』にある「朱雀路」とかんがえられています。

道路の北に進むと紫香楽宮に至り、南に進むと甲賀寺に至ります。つまり、北の紫香楽宮と南の甲賀寺が道路で結ばれていたわけです。ただし紫香楽宮の朱雀路は平安京や平城京の朱雀大路のようにまっすぐでなく、何度かクランク状に曲がっていました。これは地形上、やむをえなかったのでしょう。

宮町遺跡

豊かな田園風景が広がっています。

このあたりが宮町遺跡です。

昭和46年(1971)の水田の区画整理工事で、三本の柱根が発見されました。調査の結果、天平15年(743)頃に伐採された木材とわかりました。

昭和59年(1984)から発掘調査が始まり、奈良時代中期の建物・土器・7000点を超える木簡が発見されました。発掘調査を重ねる中、紫香楽宮の姿がじょじょに明らかになっていきました。


宮町遺跡 概略図

南北に長い建物が東西二棟、対になって建っていたこと。


宮町遺跡 概略図

その二棟の建物の北辺に東西に長い建物があったこと。これらは紫香楽宮の朝堂(政務を行う場所)跡と思われます。

さらにその北にもうひとつの建物(後殿)があったこと。しかし後殿の造営は途中で打ち切りとなり、五間門と塀が築かれたこと。その北の東西に大きな建物が二つあったこと、などがわかってきました。

この東西二棟の建物は、内裏跡と思われます。恭仁宮跡も紫香楽宮跡も、内裏跡とおぼしき遺構がこのように東西二つみつかっています。しかし内裏だとしたらなぜ内裏が二つあるのかは、現時点では謎です。

これらの発掘により、宮町遺跡こそ紫香楽宮だと、明らかになりました。

それまで紫香楽宮跡とされてい内裏野地区の遺構は、甲賀寺もしくは近江国国分寺とみられるようになりました。

たしかに美しい自然と清らかな空気ではあるんですが…いかんせん不便すぎます。ここに都を置くのは…税を運ぶ人々にとっては迷惑だったと思います。

宮町遺跡調査事務所・出土遺物展示室

宮町遺跡のすぐ南に宮町遺跡調査事務所と出土遺物展示室があります。出土遺物展示室は平日のみ見学可能です。

プレハブです。

大丈夫かな?不安になりましたが、大丈夫でした。

展示品は豊富で、解説も細かく親切です。紫香楽宮についてのビデオを上映しています。紫香楽宮の歴史について、楽しみながら学ぶことができます。

あさかやま木簡

「あさか山木簡」は宮町古墳の出土品の中でも特に重要なものです。平成20年(2008)5月に発見されました。といっても木簡そのものは平成9年(1997)の調査に見つかっており、表に「難波津の歌」が書かれていました。その裏側に「あさかやまの歌」の歌が書かれていたことが新たに発見されたのです。

木簡の表に「難波津の歌」、裏に「あさかやまの歌」というわけです。当時、大発見として新聞やテレビで騒がれました。

難波津に咲くやこの花冬ごもり いまは春べと咲くやこの花

安積山影さへ見ゆる山の井の 浅き心を我が思はなくに

前者が「難波津の歌」で『古今和歌集』仮名序に出てきます。意味は「難波津に咲いたなあこの花が。冬の間はこもっていた、今は春だからと咲いたなあこの花が」一部言葉は違いますが、競技百人一首の序歌としてお馴染みの歌ですね。

そして後者が「あさか山の歌」です。万葉集巻16の3807番の歌です。意味は安積山の姿さえ映って見える山の泉のような、そんな浅い心で私はあなたを思っているのではありません。もっと深い心で思っていますというものです。

この「あさかやま木簡」の発見によって、さまざまなことがわかりました。

一つは『万葉集』の成立過程です。

この「あさか山木簡」は同じ所から出土した出土品から見て、天平16年(744)末から天平17年(745)初めのものと推定されます。

『万葉集』の15巻本の編纂は天平17年(745)から数年かけて行われたとされています。なので、この木簡は『万葉集』より古いということになります。つまり木簡に歌を書いた人は『万葉集』をみて書いたのではありません。

ではどうしてこの歌を知っていたのか?それは当時、民間に流布していたからと推測されます。ここから、『万葉集』の安積山の歌は『万葉集』編纂以前から民間に流布した歌を採ったということがハッキリしたわけです。

もうひとつは『古今和歌集』の仮名序についてです。

『古今和歌集』仮名序は紀貫之が書いたと言われる序文です。そこには「『難波津の歌』と『安積山の歌』は歌の父母のようなもの、手習いする人はまずこの二首の歌から始めるのを常としている」という意味のことが書かれています。

しかし、実際に「難波津の歌」と「安積山の歌」がセットで扱われている例が無いため、紀貫之による創作という説もありました。

ところが、あさかやま木簡には、「難波津の歌」と「安積山の歌」がセットで書かれていました。少なくともこの木簡を書いた人物は「難波津の歌」と「安積山の歌」をセットで認識したことが知れます。よって、紀貫之による創作ではなく、『古今和歌集』より150年も昔から、「難波津の歌」と「安積山の歌」がセットで考えられていた、らしいと、知れるわけです。

木簡一つでさまざまな歴史上の事実が明らかになる…ワクワクしますね!

明日は「行基の生涯(ニ)」をお届けします。お楽しみに!

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第一部「飛鳥時代篇」は、蘇我馬子や聖徳太子の時代から乙巳の変・大化の改新を経て、壬申の乱まで。

第二部「奈良時代篇」は、長屋王の変・聖武天皇の大仏建立・鑑真和尚の来日・藤原仲麻呂の乱・桓武天皇の即位から長岡京遷都の直前まで。