須磨を歩く

こんにちは。左大臣光永です。お盆真っ最中ですが、いかがお過ごしですか?私はわけあって、実家の熊本にもどっております。何日か滞在する予定です。

本日は兵庫県須磨を歩きます。須磨は『源氏物語』で光源氏が流された場所であり、在原行平が流された場所であり、行平と松風・村雨姉妹のロマンスが謡曲に歌われています。また源平一の谷の合戦の舞台であり、平敦盛が熊谷次郎直実に討たれた「敦盛最期」のくだりは、名文として名高いです。

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須磨海岸

JR東海道線須磨駅下車。

目の前が須磨海岸です。

源氏物語や伊勢物語はじめ、古典に描かれる須磨はさびしい、わびしい、心が折れそうな場所と決まっています。しかし現在の須磨は明るい海水浴場。にぎわっています。

一の谷戦の碑

須磨駅前から国道2号線を西に歩いていきます。

20分ほどで、須磨浦公園に至ります。ここに一の谷戦の碑が立ちます。

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一の谷の合戦は寿永3年(1184)2月、摂津国一の谷で平宗盛を大将とする平家方と、源範頼・義経を大将とする源氏方との間で戦われた合戦です。

寿永2年(1183)7月、木曽義仲の軍勢が都に迫ると平家一門は安徳天皇と三種の神器を擁して都落ちします。翌寿永3年(1184)福原入。2月4日、平清盛の三周忌の仏事をすませると一の谷に陣取ります。

源氏方は蒲冠者範頼を大手の大将、九郎義経を搦め手の大将として、2月7日、一の谷を攻撃。後白河法皇による和平の使者を送るといって油断させ、義経が背後の山から馬で駆け下り、平家軍本陣に奇襲をしかけました。

不意をつかれた平家軍は壊滅状態となりました。この戦いで平敦盛(あつもり)、通盛(みちもり)、忠度(ただのり)、経正(つねまさ)など、なだたる平家の公達が命を落としました。

一の谷の合戦の後、平家の船団は四国屋島に拠点を移します。

逆落とし

須磨浦公園北出口から、つづら折りの階段を登っていきます。このあたりが源義経の逆落としの候補地の一つらしいです。須磨の海が見渡せます。

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えゐえゐ声をしのびにして、馬に力をつけておとす。あまりのいぶせさに、目をふさいでぞおとしける。おほかた人のしわざとは見えず。ただ鬼神(きじん)の所為(しょい)とぞ見えたりける。おとしもはてねば時をどッとつくる。三千余騎が声なれど、山びこにこたへて十万余騎とぞきこえける。

『平家物語』坂落

安徳宮(安徳帝内裏跡伝説地)

住宅街を上り詰めたところに安徳宮(あんとくぐう)があります。

ここが「安徳帝内裏跡伝説地」です。

安徳天皇は祖父は平清盛、母は建礼門院徳子、父は高倉天皇。治承4年(1180)2歳で践祚。

寿永2年(1183)7月、平家一門の都落ちの際に一門によって連れ去られ、寿永3年(1184)2月7日、一の谷の合戦では、このあたりに内裏を置いたと伝えられます。その後、源義経の「逆落とし」によって平家軍は壊滅状態に陥りました。

モルガン灯籠

安徳宮の前にある石灯籠は、「モルガン灯籠」とよばれます。

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元京都の舞妓で、モルガン財閥の御曹司にとついだモルガンお雪の奉納です。見たところ、それほどブルジョア感はありませんが…

和宮像

安徳宮の横に皇女和宮像がまつられています。

和宮は幕末の孝明天皇の妹宮。文久2年(1862)、公武合体政策の一環として、14代将軍徳川家茂に嫁ぎました。すでに有栖川宮熾仁親王という婚約者もあり、本人はまったく乗り気ではなかったのですが、婚約者とは別れさせられ、まったく望まない関東の地に移ることになりました。

しかし結果として和宮と徳川家茂は仲むつまじい夫婦となりました。家茂が死に、幕府が瓦解した後も、和宮は徳川の家名存続のため、さまざまに力を尽くしました。

戦前の教育では、わが身を犠牲にして国のため、家のために尽くす、女性の鑑とされました。

この和宮像は、兵庫県内の三つの女学校に寄贈されたもののうち、戦時中の金属供出を免れた一つと伝えられます。

敦盛塚

ふたたびふもとまで戻り、国道2号線を西に歩いていくと、10分ほどで、鉢伏山に登る須磨浦ロープウェーの駅です。さらに国道を少し進むと、敦盛塚があります。

平敦盛は平経盛の末子。寿永3年(1184)2月7日、一の谷の合戦で、源氏方の武将・熊谷次郎直実に後ろから呼び止められ、引き返して戦い、ついに首討たれました。熊谷は若い公達の命を奪ったことを悔いて、後に出家したと『平家物語』にはありますが、史実としては熊谷の出家は一の谷の合戦よりずっと後で、敦盛の死とは関係がないと見られています。

この五輪塔は敦盛を供養するために建立されたことから敦盛塚とよばれるようになりました。別の伝承では、鎌倉幕府の執権北条貞時が、弘安9年(1286)平家一門を供養するために建立したものと言われます。

平重衡とわられの遺跡

山陽電鉄本線・須磨浦公園駅から電車に乗り、須磨寺駅でおります。

駅前に「平重衡とわられの遺跡」の碑。

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平重衡は清盛の五男で、治承4年(1180)平家軍の大将として奈良を攻撃した時、過失か故意かは説が分かれますが、興福寺、東大寺の堂塔伽藍を焼き討ちにしました。この時東大寺の大仏も焼失しました。

ために重衡は、興福寺・東大寺の僧たちから「仏敵」として激しく憎まれます。寿永3年(1184)2月、一の谷の合戦で重衡は生け捕りにされ、鎌倉で源頼朝に引見された後、ふたたび西国に送られ、木津川のほとりで斬られました。

途中、須磨で 、重衡が、 松の根方に座り込んでいると、地元の人があわれに思って名物の濁り酒をすすめた。そこで重衡は、

ささほろや 浪ここもとを 打ちすぎて 須磨でのむこそ 濁酒なれ

と詠んだと伝わります。

須磨寺

須磨寺参道を進んでいきます。楽しい雰囲気です。

参道のはての龍華橋(りゅうげばし)を越えると、須磨寺の仁王門です。

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須磨寺は正式には上野山福祥寺(じょうやさんふくしょうじ)。真言宗須磨寺派の総本山。仁和2年(886)光孝天皇の勅願により聞鏡(もんきょう)上人が建立しました。

境内入ってすぐ左に、平敦盛と熊谷次郎直実の像があります。『平家物語』の有名な場面を再現しています。

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いくさやぶれにければ、熊谷次郎直実、「平家の公達たすけ舟に乗らんと、汀の方へぞおち給ふらむ。あッぱれ、よかろう大将軍にくまばや」とて、磯の方へあゆまするところに、練貫に鶴ぬうたる直垂に、萌黄匂の鎧着て、鍬形うッたる甲の緒しめ、こがねづくりの太刀をはき、切斑の矢負ひ、滋籐の弓もッて、連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍おいて乗ッたる武者一騎、沖なる舟に目をかけて、海へざッとうちいれ、五六段ばかりおよがせたるを、熊谷、「あはれ大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも敵にうしろを見せさせ給ふものかな。かへさせ給へ」と扇をあげてまねきければ、招かれてとッてかへす。

『平家物語』敦盛最期

境内には本堂・太子堂・護摩堂・十三重塔・三重塔などの伽藍が並び、

弁慶の鐘・義経腰掛松・敦盛首洗池・敦盛首塚など、源平合戦関係の伝説が多く残ります(須磨浦公園にある敦盛塚は胴を埋めて、こっちには首を埋めたと伝えられます)。

宝物館には敦盛愛用の「青葉の笛」、

敦盛と熊谷次郎直実の人形、

小石を人形にみたてて『平家物語』の名場面を再現した展示物など、見ごたえがあります。

松風村雨堂

須磨電鉄踏切の北側に「松風村雨堂」があります。謡曲「松風」の舞台です。

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在原行平は平城天皇の孫で、在原業平の兄。

謡曲のストーリーによると、在原行平は仁和2年(886)光孝天皇のお怒りを買って、須磨に三年を過ごすことになった。その配所ちかい多井畑(たいのはた)村に、もしお・こふじという美しい姉妹がいた。

二人は須磨の海岸に汐汲みに通ううちに行平と知り合い、いい仲になる。行平は二人に「松風」「村雨」と名付ける。

いよいよ三年がすぎてお別れという段になって、行平は手づから松を植えて、

立ち別れ稲羽の山の峰におふる まつとしきかば今帰りこむ

と小倉百人一首に収録された自身の歌を詠む。姉妹は、

稲羽山 峰のもみじ葉 心あらば 今ひとたびの 行幸待たなむ

と返したと。

…いろいろ話がごちゃまぜになってますが。

行平が去った後、姉妹が行平の配所跡に観世音菩薩をまつったのが松風村雨堂といわれています。

行平の衣掛けの松、

姉妹の墓と伝える二基の五輪塔があります。

綱敷天満宮

天神下バス停すぐ北に、綱敷天満宮(つなしきてんまんぐう)が鎮座します。

昌泰4年(901)、菅原道真が大宰府に流される途中、須磨に立ち寄った時、地元の人たちがあわれに思って、綱を丸く編んで座布団(円座(わろうだ))を作り、道真を座らせたという伝説から、綱敷天満宮といいます。

道真没後76年目の天元2年(979)、地元の人たちが祠を立てて道真像を祀ったのが始まりと伝えられます。

村上帝社

綱敷天満宮のそば、JRの線路のすぐ南に村上帝社(むらかみていしゃ)という小さな神社があります。謡曲『弦上(玄象)』ゆかりの地です。

村上天皇は平安時代中期、徳の高い政治を行い、世の中を安定させました。 その治世は、先々代の醍醐天皇の御代とならび、「延喜・天暦の治」と讃えられています。

伝説によると、平安時代後期、琵琶の名人として知られた太政大臣藤原師長(もろなが)が、琵琶の奥義をきわめるため中国にわたろうとして須磨まで来た。そこで村上天皇の霊があらわれ、わざわざ唐国までわたる必要はない。琵琶の奥義なら朕がさずけるからと、琵琶の奥義をさずけた。師長は、この地に琵琶を埋めて都に帰っていったということです。

またこの地はかつて前方後円墳があり、その形が琵琶に似ていることから、このような伝説と結びついたとも言われます。

今回、須磨を歩いて、鎌倉に似ていると思いました。住宅街の細い路地のむこうに海がみえること、須磨電鉄の車窓から見える海も、鎌倉由比ガ浜の景色がかさなり、なつかしい感じがしました。

告知

8/24 京都で学ぶ 歴史人物講座 行基と鑑真
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「耳から聞き」「声を出して読む」歴史講座。今回は奈良時代を代表する僧侶、行基と鑑真です。京都駅八条口徒歩10分「長福寺」にて。お誘いあわせの上、ぜひご来場くだい。

語り継ぐ 日本神話
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「語り」による「聴く」日本神話。日本の神話を、『古事記』に基づき、現代の言葉でわかりやすく語った、「語り」による「聴く」日本神話です。

神代篇・人代篇あわせて『古事記』のほぼ全編を、現代の言葉で楽しみ味わうことができます。

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