相国寺を歩く

こんにちは。左大臣光永です。10月26日に京都講演をやりますので、現在、その資料を整理しています。

今回は「最後の将軍 足利義昭」について喋ります。
http://sirdaizine.com/CD/KyotoSemi_Info2.html

以前東京で喋ったときの資料があるので、今回はわりと準備が楽です。過去の資料をしっかりストックしておくのは、大切ですね。

それと、「聴いてわかる『徒然草』」も好評発売中です。こちらものぞいてみてください。
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本日は相国寺を歩きます。相国寺は足利義満が室町幕府の総力を挙げて建立した臨済宗の寺院です。京都御苑の北、同志社大学今出川キャンパスのすぐ北にあります。広大な寺域にアカマツの林が茂り、巨大な法堂がそそり立ち、町中の別天地の感があります。

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総門まで

地下鉄烏丸線今出川駅、もしくはバス停同志社前下車。

同志社大学今出川キャンパス正門のところから北に入り、

レンガ造りの同志社大学アーモスト館を右に見ながら170メートルほど進むと、

相国寺の総門です。

(ちなみに同志社大学今出川キャンパスも、かつては相国寺の寺域でした。幕末に薩摩藩邸であった跡地を、明治になって同志社大学に提供しました。禅宗寺院の敷地内にキリスト教の大学を建てる。なんとも寛大な話です。当時は廃仏毀釈の嵐が吹き荒れており、相国寺も明治政府から弾圧を受けました。宗教の違いを越えて、信仰の自由という観点から、相国寺では同志社大学に同情・共感するところがあったのかもしれません)

放生池(ほうじょうち)・勅使門(ちょくしもん)

総門をくぐると、赤松の巨木が左右にそそり立ち、参道がまっすぐ北にのびています。

学生や観光客の多い今出川通から一転して、人がまばらになります。相国寺は観光地のように人を集めてないからです。

左手に放生池(ほうじょうち)と勅使門(ちょくしもん)。

総門がふだん使う門であるのに対し、勅使門は天皇の勅使を迎える時の門でした。放生池には時々アオサギがたたずんでいて、ほほえましいです。

放生池にかかる石橋は天界橋(てんかいきょう)といいます。橋を南にわたるとすぐに京都御所であるため、天界橋といいます。

相国寺について

相国寺は正式には万年山相国承天禅寺(まんねんざん しょうこくじょうてんぜんじ)。臨済宗相国寺派の大本山。京都御苑の北に4万坪の敷地を有します。

三代将軍足利義満が帰依していた禅僧の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)に語らい、後小松天皇の勅許を得て、永徳2年(1382)から着工しました。場所は義満の「花の御所」(室町今出川)と目と鼻の先です。

花の御所(室町第)跡の碑
花の御所(室町第)跡の碑

開山として義満は春屋妙葩を招こうとしましたが、春屋妙葩はこれを辞退しました。そこで故人である春屋妙葩の師・夢窓疎石を開山とし、春屋妙葩は形式上、第二世という形で入りました。10年目の明徳3年(1392)、完成。

その間、義満はみずからもっこに土を入れて運ぶこと三度に及んだといいます。

寺名は当時足利義満が左大臣であったことから、左大臣の中国名「相国(しょうこく)」と、後小松天皇の勅許を受けた「承天(じょうてん)」から、相国承天禅寺とされました。足利将軍家の菩提寺として、天龍寺についで京都五山の第二位に列せられました。

(京都五山…天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・満寿寺。これらの上に南禅寺を置く)

現在、鹿苑寺金閣慈照寺銀閣はじめ全国に100あまりの末寺があります。また五山の僧は漢文の素養があり、詩歌文章を作ったり水墨画にたくみな者が出ました。彼ら学識ゆたかな禅僧たちの間で詩作の会などがもよおされ、いわゆる五山文学がさかんになりました。

応永6年(1399)高さ109mの七重塔が造営されましたが、4年後の落雷で倒壊。応仁の乱で伽藍のほとんどが焼けました。その後、豊臣氏、ついで徳川氏の保護を受け、慶長10年(1605)豊臣秀頼により法堂が再建され、慶長14年(1609)徳川家康によって三門が寄進され、ほかの堂塔も再建されました。

しかし、天明8年(1788)天明の大火でまたも焼失しました。現在ある伽藍のほとんどは、法堂・浴室・塔頭九院をのぞいて、天明の大火後、再建されたものです。

山門跡・仏殿跡

かつて相国寺は南から山門・仏殿・法堂・方丈が直線上にならぶ禅宗式伽藍配置でした(京都妙心寺や鎌倉建長寺と同じ)。

しかし仏殿は天文20年(1551)の戦火で、山門は天明8年(1788)の天明の大火で焼けました。法堂前の松林に、山門と、仏殿の跡が残っています。

相国寺山門跡

相国寺仏殿跡

法堂(はっとう)

法堂の前まで来ました。

松林のむこうにそびえる姿が荘厳です。その大きさに圧倒されます。

法堂とは禅宗寺院で仏法を説くお堂で、寺の中心となる建物です。相国寺には仏殿が無いので、法堂が仏殿の役割も兼ねています。

入母屋造・本瓦葺・正面7間・側面6間。無畏堂(むいどう)(本来畏れる必要なく説法を聞くお堂)とも称されます。

明徳元年(1390)完成。当時天下第一の伽藍といわれましたが、応仁の乱(1467)の戦火で焼けたのをはじめ過去4回焼失。現在の法堂は慶長10年(1605)豊臣秀頼による再建です。

焼失した仏殿の役割も兼ねる、相国寺でもっとも重要な建物であり我が国の現存する最古の法堂建築です。法堂西側に張り出した唐破風のついた玄関にも注目です。

須弥壇にはご本尊の運慶作・釈迦如来坐像、左右に阿難(あなん)尊者、迦葉(かしょう)尊者像を配します。

(禅宗寺院では仏殿に本尊が安置される、相国寺は仏殿が燃えてしまってないため、法堂が仏殿の役割を兼ねる。なので本尊も法堂に安置されている)

天井は一面に板をはった鏡天井になっており、狩野光信(かのうみつのぶ)作と伝えられる蟠龍図(ばんりゅうず・はんりょうず)が描かれています。下で手を打つと龍の鳴き声のように反響することから「鳴き龍」とよばれます。(ジャリッとしたかんじの反響音がします)

須弥壇裏手の足利義満像も、見逃さないでください。肖像画でおなじみの、見るからに足利義満な顔をしてます。

庫裏(くり)

法堂東に庫裏。庫裏とは寺の台所や寺務所です。

相国寺の庫裏は「香積院(こうじゃくいん)」と呼ばれます。何度か火災にあい、現在の庫裏は文化4年(1807)の再建です。白い壁面と、ゆったりとカーブを描く破風、屋根の上に突き出した煙出(けむりだし)。一度みたら忘れられない印象を残します。

方丈

法堂北に方丈。文化4年(1807)の再建。単層・入母屋造・桟瓦葺。方丈とは僧の日常のすまいのことです。本来、一丈四方の僧侶の居室をいいますが、相国寺の方丈は東西25メートル南北15メートル6間168畳の「大方丈」です。

南側が公式の空間である表方丈、北側がプライベートな空間である裏方丈。それぞれ三部屋、計六部屋からなり、表方丈庭園、裏方丈庭園とよばれる庭園が付属します。

表方丈庭園は一面、白砂をしつめたシンプルな造りです。

日光を反射して、明るく輝いて感じます。

裏方丈庭園は手前に谷川をあらわす枯山水、奥に築山を配し、変化に飛んだ地形が見どころです。

町中にこんな別天地があったのかと、びっくりします!

開山塔(開山堂)

法堂の東に開山塔。開山・夢窓疎石の像を安置した建物です。丸山応挙による襖絵と枯山水庭園も見どころです。現在の建物は文化4年(1807)桃園天皇皇后恭礼門院の黒御殿を拝領して移築したものです。

禅宗では子弟のつながりを重んじるので、開山塔は特に重要な建物とされます。

鐘楼

天保14年(1843)再建の鐘楼。「洪音楼」とも呼ばれます。

宗旦稲荷(そうたんいなり)

鐘楼の横に、宗旦稲荷。

江戸時代はじめ、相国寺境内に白狐がすんでいました。狐は茶道に造詣がふかく、茶人の千宗旦(せんのそうたん)に化けては、雲水にまじって修行をしたり、寺に上がりこんで囲碁を打ちました。また近所の茶人の家に上がりこんで茶を飲み菓子を食い散らかしたともいいます。

千宗旦は千利休の孫です。ある時、本物の千宗旦が、相国寺塔頭の慈照院で開かれた茶会に遅れて行ってみると、自分に化けた「宗旦狐」が茶を立てている。「ほう…」その見事な茶の立てっぷりに、宗旦は関心したと伝えられます。

最後は油揚げをくわえて逃げていくところを井戸に落ちて死んだとも、漁師に撃たれたともいわれます。イタズラもしたが風流を愛し愛嬌のある狐であったと、雲水たちが憐れんでここに祀ったと伝えられます。

囲碁を打ってる狐の姿を想像すると、楽しくなりました。

承天閣(じょうてんかく)美術館

多くの寺宝が収蔵・展示されている美術館です。

仏画・水墨画・屏風、伊藤若冲の襖絵などが見られます。展示物は本山相国寺のものばかりでなく、鹿苑寺金閣・慈照寺銀閣はじめ全国の末寺のものにまで及びます。

後水尾(ごみずのお)天皇 歯髪塚(しはつづか)

境内西側の道に宝塔が立ち、その横に、相国寺再興に尽力した、後水尾天皇の出家した歳の髪の毛と歯をおさめた塚です。

塔頭 林光院(りんこういん)

塔頭の林光院は足利義満の第二子、足利義嗣(よしつぐ)の菩提を弔うため、もと紀貫之(きの つらゆき)の邸内に建立されました。

『大鏡』によると、村上天皇の御代、ある年の春近き日、清涼殿の御前の梅が枯れてしまいました。天皇はたいそうお嘆きになりました。もうすぐ鶯も鳴くというのに、これでは春の訪れをきけないと。

天皇は、清涼殿の御前にあらたに植えるべき名木を探させました。家来のものが西の京をさまよい歩いていると、ある館の軒端に、見事な枝ぶりの梅がうわっている。そこで女主人にわけを話し譲ってもらいます。

いよいよ清涼殿に梅の木が届きます。たしかにこれは見事な枝ぶりと天皇お喜びになる。見ると、枝に紙がくくりつけてある。開くと歌がありました。

勅なればいともかしこし鶯の
宿はと問はばいかが答へん

天皇の勅命であるので、この梅の木を献上するのを断るのは畏れ多くてできない。しかし鶯が、私が今年宿るべき宿はどこにあるときいてきたら、なんと答えようか。

天皇は歌のやさしさに感心されます。さぞかし名のある女房であろうと、そこで件の女の素性をたずねさせた所、これこそ紀貫之の娘、紀内侍(きの ないし)でありました。道理でみやびなはずだと、天皇は梅をもとの屋敷にもどさせたという話です(『大鏡』より)。

それが、相国寺塔頭・林光院にある鶯宿梅(おうしゅくばい)です。境内は梅の季節のみ公開されています。

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京都で学ぶ歴史人物講座~足利義昭 10/26
http://sirdaizine.com/CD/KyotoSemi_Info2.html

将軍の座を追われながらも中国毛利領に亡命し、広島鞆の浦で独自に活動をつづけた、最後の将軍足利義昭。その数機な生涯について語ります。