ちはやぶる神代もきかず竜田川の周辺を歩く

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今日は。左大臣光永です。

今出川通りの京都考古資料館ですみません京都新聞の者ですがと話しかけてきて、そこで展示物を見てるところを写真撮らせてもらってもいいですか記事に使いますのでというので、どうぞどうぞと写真を撮られて、さらに資料館の方から「ご協力ありがとうございました」と、クリアケースまでもらいました。トクした気分です♪

本日は「ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなひに水くくるとは」百人一首の在原業平の歌に詠まれた竜田川の周辺を歩きます。

※現在の竜田川は後から名前だけ取ったもので、本来の竜田川はやや西側の大和川流域にありました。

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三室山(県立竜田公園)

JR関西本線(大和路線)王寺駅下車。


法隆寺方面行きのバスに乗り、バス停「三室山下」で降ります。東に10分ほど歩くと、現在の竜田川にぶつかります。竜田川のほとりにある小高い丘が、現在の三室山です。


三室山の登り口に百人一首の在原業平と能因法師の歌が掲げてあります。


ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川
からくれなゐに 水くくるとは

在原業平朝臣

神代の昔にも聞いたことはありません。こんなふうに竜田川の水面に紅葉が真っ赤に映って、まるでくくり染めにしたように見えるなんて。

嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は
竜田の川の 錦なりけり

能因法師

山風が吹き散らした三室山の紅葉葉は、まさに竜田川の錦と言うにふさわしい。




だいぶもう紅葉が落ちています。ざくざく紅葉葉を踏みながら登っていきます。5分程登ると、もう山頂です。

能因法師の供養塔

あずま屋の脇に、能因法師の供養塔があります。


能因法師(988-?)。平安時代中期の歌人。俗名橘永愷(たちばなのながやす)。父は肥後守橘元愷(たちばなもとやす)か?中古三十六歌仙の一人。26歳で動機不明の出家。摂津国古曾部(大阪府高槻市)に住んだため古曾部入道とも呼ばれました。

出家後は陸奥・伊予・美作など東北から四国まで放浪し、歌を詠む一方、関白藤原頼通(ふじわらのよりみち)の殊遇を受けてその邸宅に出入りしていました。

三室山の眼下を流れるのが現在の竜田川です。


もとは平群川(へぐりがわ)と言われていました。それを地元の誘致で、歌で名高い「竜田川」の名前だけ移してきたようです。


だから本来の竜田川はこの川ではありません。本来の竜田川は、もっと南を流れる大和川沿いの、亀の瀬のあたり。そして本来の「三室山」も、現在の三室山よりもっと西にあります。


次に「本来の」三室山・竜田川を訪ねていきましょう。

龍田大社

JR王寺駅に戻り、一駅西にある三郷(さんごう)で降ります。駅前の県道を東へ歩くとすぐの所に龍田大社への登り口があります。うねうねした山道を登っていきます。

龍田大社は風の神として古くから信仰されてきました。紅葉の名所としても知られます。



今から2000年ほど前の10代崇神天皇の時代、疫病が流行したのを鎮めるために創建された神社です。祀られているのは天御柱神(アメノミハシラノカミ)と国御柱神(クニノミハシラノカミ)。

境内には万葉歌人 高橋虫麻呂(たかはしの むしまろ)の歌碑があります。


高橋虫麻呂の主君・藤原宇合(うまかい。不比等の三男)は、難波宮の工事の総責任者(知造難波宮事)を務めていました。この長歌は高橋虫麻呂が主君藤原宇合の手伝いで難波に一泊して、ふたたび大和に戻ってきた時の歌です。

鳥山を い行き廻れる 川副(ぞ)いの 丘辺(おかへ)の道ゆ 昨日こそ わが超え来しか 一夜(ひとよ)のみ 寝たりしからに 峯(を)の上(うへ)の 桜の花は 滝(たぎ)の瀬ゆ 激(たぎ)りて流る 君が見む その日までには 山下(やまおろし)の 風な吹きそと うち越えて 名に負へる杜(もり)に 風祭(かざまつり)せな

巻9・1751・高橋虫麻呂

鳥山を巡って流れる川沿いの丘辺の道を通って、昨日私は超えてきたのだ。たった一晩寝ただけなのに峯の上の桜の花は激流をもまれて流されていく。わが主君が桜の花を見る、その日までは山おろしの風よ、吹いてくれるなと、竜田山を超えて、風の神の名を持つ龍田大社の杜で、風祭をしたいものだ。

ふたたび麓に下って、今度は駅の西に向かいます。すぐ道路の右手に上り坂が現れ、はるかに信貴山(しぎさん)が見渡せます。


坂下に高橋虫麻呂の歌碑が立ってます。


我(あ)が行(ゆき)は 七日(なぬか)は過ぎじ 龍田彦
ゆめこの花を 風にな散らし

巻9・1748・高橋虫麻呂

私たちの旅は七日は越えないでしょう。風の神である龍田彦よ、
どうかこの花を風に散らさないでください。

さっきの龍田大社境内で詠んだ長歌とテーマは同じですね。

高橋虫麻呂の主君・藤原宇合(うまかい。不比等の三男)は、難波宮の工事の総責任者(知造難波宮事)を務めていました。そのため何度も大和と難波の間を行き来します。

その何度目の往来の時か、何年の話か具体的なことはわからないですが、主君につきそって大和から難波に、立田越えを越えていった時の歌です。

今回の旅は七日は過ぎないだろう。すぐ帰ってくるから、風の神である龍田彦よ、けして桜の花をそれまで風に散らしてくれるな。つまり主君が次に大和に戻ってくる時、まだ桜の花を咲かせていておけれというわけです。

三室山

それでは「本来の」三室山に向かいましょう。住宅街の外れに登り口があるのですが、とてもわかりにくいです。地元の方に道を聞きながら進みました。どんどん道が上り坂になります。

坂道の突き当りに池があり、池の右側から回り込むように、三室山の登山道が始まります。



このあたりの道が旧竜田道(たったみち。竜田越え)です。


竜田道は奈良と大阪の河内を結び、竜田山を超えていく道です。飛鳥時代には法隆寺と四天王寺との往来に使われ、奈良時代に入ると平城京と難波宮を結ぶ重要なルートとなりました。

現在、竜田山という山はありませんが、信貴山(しぎさん)以南、大和川以北の山々の総称と思われます。総称としての「竜田山」の中に、これから登る三室山もおそらく入っていたんでしょう。

京都の華やかな紅葉もいいですが、こういう深山に人知れず紅葉している感じも、いいもんですね。



伊勢物語「筒井筒」

『伊勢物語』「筒井筒」にある歌がよく知られています。

風吹けば沖つ白波竜田山
夜半にや君が一人超ゆらむ

「筒出筒」のストーリーは、幼馴染の男女が念願かなって夫婦になる。しかし夫婦生活続けるうちに男は河内に浮気相手を作る。しかし元の女は男を疑うそぶりもない。だから男は逆に疑います。こいつ、他に男でもいるんじゃないかと。

そこで、河内へ行ってくるといって物陰に潜んで妻を見張った所、妻が詠んだのがこの歌です。

風吹けば沖つ白波竜田山 夜半にや君が一人超ゆらむ…風が吹けば沖の白波が立つ竜田山。その竜田山を夜中、あなたは一人で越えてゆくのでしょうか。

男の道中を気遣っている歌です。どうか龍田大社の神よ、夫の道中をお守りくださいと。

ああ!そんなにもお前は俺を気遣ってくれていたのか!なのに俺は他所に女なんか作って、最低だった。男は心を入れ替えて、浮気をやめたという伊勢物語23段「筒井筒」です。

大伴家持の歌

道中、大伴家持の歌碑があります。


独り龍田山の桜花を惜しむ歌一首

龍田山 見つつ越え来し 桜花
散りか過ぎなむ
我が帰るとに

巻20・4395・大伴家持

龍田山を見ながら超えてきた。桜花は散ってしまうのではないか。
私が帰る時には。

大伴家持が防人を仕切るために難波に滞在していたとのきの歌です。桜花は帰りには散ってるかもしれないと心配している歌です。

展望台

展望台に出ました。


ぜんぜん人がいないので声出し放題です。家持の歌や『伊勢物語』の歌を思いっきりがなってきました。


竜田川周辺には『万葉集』の歌碑が多く、百人一首のちはやぶるの歌を出発点として散策を始めても、いつしか万葉集の世界に足を踏み入れていくことになります。秋の紅葉、春の桜も見事です。ぜひ歩いてみてほしいコースです。

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