天智天皇陵と山科疎水沿いを歩く

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こんにちは。左大臣光永です。5月も末となりましたが、いかがお過ごしでしょうか?

本日は、京都山科の天智天皇陵と山科疎水沿いを歩きます。

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天智天皇陵

地下鉄東西線もしくは東海道本線御陵(みささぎ)駅下車。

山科方面(東)に徒歩7分。天智天皇陵への入り口です。

入り口脇に石造りの日時計のモニュメントがあります。

天智天皇が日本ではじめて時計を作ったことにちなみます。

森の中を6-7分ほど歩いていくと、

天智天皇陵につきました。

山科陵(やましなのみささぎ)・または御廟野(ごびょうの)古墳と呼ばれる八角墳です。

第38代天智(てんち・てんじ)天皇(626-672)。中大兄皇子。父は第34代舒明天皇。母は第35代皇極天皇。中臣鎌足と組んで645年、蘇我入鹿を倒し(乙巳の変)、叔父の孝徳天皇の下、難波宮にて大化の改新を推進するも、653年、孝徳天皇と対立し、孝徳天皇皇后で妹の間人皇女(はしひとのひめみこ)をつれて難波から飛鳥に戻ります。

655年、孝徳天皇が崩御すると母である皇極が重祚して斉明天皇となり、中大兄は即位しないまま政治にかかわりました。

663年白村江の戦いの敗北にともない、667年、都を飛鳥から大津に遷し、翌668年38代天智天皇として即位。

近江令という法律の制定(真偽のほどは不明)、庚午年籍(こうごねんじゃく)という戸籍を制定しました。

即位3年目の672年、崩御。天智天皇崩御後の後継者問題から、天智の弟の大海人皇子と息子の大友皇子の間で戦われたのが、672年壬申の乱です。

小倉百人一首の第一首が天智天皇の歌です。

秋の田の仮庵の庵の苫をあらみ わが衣手は露に濡れつつ

秋の田の仮造の小屋の苫葺きの屋根が隙間だらけなので、私の衣の袖は露に濡れっぱなしだ。

これも実際に天智天皇が作ったのではく、当時民間で詠まれていた歌が天智天皇に付託されたものと見られています。

天智天皇の陵が山科にあるゆえんは、『扶桑略記』『政治要略』に示してあります。

天智天皇10年(671)年、12月3日(旧暦)、天智天皇は亡くなった。同月5日、大友皇子(弘文天皇)が即位した。一説に、天智天皇は馬に乗って山科の林に入っていき、ついに帰ってこなかった。天智天皇のはいていた沓だけが見つかったので、その場所に陵を建てた、と。

もちろんこれも伝説的な話で、そのまま信じるわけにはいきません。

天智天皇の記録はほとんどが『日本書紀』によりますが、ただでさえ作り話の多い『日本書紀』の中でも、天智天皇伝は特に作り話が多いとされています。

では歴史上実在した天智天皇はどんな人物であったのか?諸説入り乱れ、わからない点があまりに多いです。

今後、歴史学・考古学の両方から光が当てられ、天智天皇の実像が明らかになっていくことを願います。

天智天皇陵の脇から、山科疎水への道がのびています。

住宅街の中の道を上に上に登っていくと、

出ました。山科疎水です。青もみじが素晴らしいです!

疎水は、明治2年の東京遷都後、日に日に衰退する京都を愁い、流通・経済の活性化を考えて始まった事業です。第三代京都知事・北垣国道のもと、青年技師・田辺朔郎を総括責任者として、東山にトンネルを掘り、琵琶湖の水を山科・蹴上を経て京都まで導き入れました。全長約23.3キロメートル。明治23年(1890年)開通。時に田辺朔郎28歳でした。

田辺朔郎像
田辺朔郎像

ここ山科疎水は、山科毘沙門堂につづく安朱橋(あんしゅばし)あたりから疎水第2トンネル東側入口に到る約1.5キロの道のりが散歩道として整備されています。


安朱橋あたり

眼下に山科の町並みが見渡せるのも、気分いいです。

本圀寺

さらに遊歩道を進んでいくと、

朱塗りの橋が見えてきました。

日蓮宗大本山本國寺(だいほんざんほんこくじ)。日蓮聖人が鎌倉に開いた法華堂がはじまりと伝わります。

鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏が京都に足利幕府を開くと、尊氏は日蓮宗の根本道場である本國寺を京都に移してほしいと朝廷に願い出ます。時の光厳天皇は、これを許可し、貞和元年(1345年)本國寺は鎌倉から京都に移ってきました。

もとは洛中の堀川六条に置かれ(今の西本願寺の北)、江戸時代に入ると朝鮮通信使の宿泊所としても使われました。

しかし天明8(1788)の天明の大火で焼失し、再興され、昭和45年(1970年)山科の地に移されました。

豪快な日蓮像が、ひときわ目を引きます。

本圀寺を後に、ふたたび山科疎水沿いの道を進んでいきます。

青もみじが水面に映り込んで、えもいわれぬ美しさです。

第二トンネルまできました。

第二トンネルの脇の山道をのぼり、住宅街を抜けると、

すぐに第二トンネルの出口です。

さらに200メートルほど進むと、

日本で最初のコンクリート橋があり、

そのすぐそばが第三トンネルの入り口です。この第三トンネルを抜けると、蹴上に到ります。

明治時代、山科から第三トンネルを通って蹴上についた船は蹴上インクラインによって南禅寺船泊まで運ばれ、

蹴上インクライン
蹴上インクライン

復元された蹴上インクライン
復元された蹴上インクライン

そのまま着水して、岡崎疎水を通って、鴨川に到りました。

現在、定期的に観光船が行き来しています。船が通った後は波がものすごく、迫力あります。

■オンライン版~百人一首 全首・全歌人 解説
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■京都講演~菅原道真 6/22
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京都にゆかりの歴史上の人物を一人ずつとりあげて語っていきます。
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