哲学の道を歩く

こんにちは。左大臣光永です。週末の夜、
楽しくお過ごしでしょうか?

本日は、京都・哲学の道を歩きます。
以前お話した「法然の生涯」
http://history.kaisetsuvoice.com/Hounen00.html
にも深く関係するエリアです。あわせて聴いていただくと、
いっそう味わいが増すと思います。

▼音声が再生されます▼

哲学の道とは?

哲学の道は南は熊野若王子神社前の若王子橋から北は銀閣寺橋まで、琵琶湖疏水の分線に沿って約2キロにわたって走る小道です。京都大学の哲学者西田幾多郎先生が思索にふけりながら歩いたことから、また学生たちと議論を戦わせながら歩いたことから哲学の道と呼ばれます。

哲学の道
哲学の道

桜の名所としても知られ、日本画家橋本関雪の夫人が寄贈した関雪桜が春には花のトンネルを作ります。初夏には東山の緑と夜飛び交うゲンジボタル、秋には紅葉の錦が水面にうつりこみ、散策する者の目をゆたかに楽しませてくれます。日本の道百選にも選ばれています。

早朝でも、夜でも歩くことができるので、京都に来たけどまだ早すぎて(あるいは遅すぎて)、どこの観光地も開いてない、さてどうしようという時にもおすすめです。もちろん無料です。

白沙村荘橋本関雪記念館

バス亭銀閣寺前で降ります。バス邸のすぐ右に見えるのが、白沙村荘(はくさそんそう)橋本関雪(はしもとかんせつ)記念館です。大正~昭和初期に活躍した日本画家橋本関雪のアトリエ兼住居「白沙村荘」を公開しています。

バス亭銀閣寺前
バス亭銀閣寺前

白沙村荘橋本関雪記念館
白沙村荘橋本関雪記念館

橋本関雪(1883-1948)。神戸に生まれ、東京画壇に属した後、京都に移り、大正期の京都画壇の中心となって活躍しました。

後には日本画家として大成する橋本関雪ですが、京都に出てきた当初は貧乏で、ロクに食べられませんでした。その時代、橋本氏を支えてくれたのは周囲の人達の温かい援助でした。

大正11年(1922年)日本画家として大成した橋本関雪氏は京都市に恩を返そうと、妻よねの提案で、360本の桜の苗木を京都市に寄贈しました。これが「関雪桜」のはじまりです。今日も「哲学の道」を訪れる人の目を楽しませてくれています。

哲学の道 入り口

今出川通りを少し東に歩くと銀閣寺橋です。このまま今出川通り沿いに歩き続けると銀閣寺です。今回はここから右に折れ、哲学の道を歩きます。まず目に入るのが岩に達筆で刻まれた「哲学の道」の文字。期待が高まります。

哲学の道入口
哲学の道入口

さらさらと流れる疎水の分流に沿って、歩いていきます。京都の川はほとんど北から南に向けて流れていますが、ここの琵琶湖疏水の分流は南から北に向けて流れているのがポイントです。


法然院

途中、疎水の東側にいくつかの寺社があるので寄り道しつつ進みます。

法然院は浄土宗系単立寺院。鎌倉時代、法然上人が弟子の住蓮・安楽とともに阿弥陀仏を昼夜六回拝む「六時礼賛(ろくじらいさん)」を行った庵です。

その後衰退しますが、延宝8年(1680年)知恩院の第38世萬無心阿(ばんぶしんあ)上人が弟子の忍澂(にんちょう)とともに念仏道場として中興しました。

まず法然院に向かう道すがら、すでに苔むした石垣や、ひんやりした林で雰囲気が高まります。



江戸時代中期の『都名所図会(みやこめいしょずえ)』に、東山鹿ケ谷一帯の様子が記されています。

この地は松風蕭然としてつねに鉦(かね)の音たえず。六時礼賛の声は幽谷に谺(こだま)し、寂寥(せきりょう)として峰の月ほがらかなり。廬山の白蓮社ともたとへられて、清浄無塵の仏界なり

江戸中期でさえこの静けさですから、さらに600年をさかのぼる法然の時代には、鹿谷の自然はさらに鬱蒼とした深いものだったことでしょう。見えてきました。法然院の入り口です。

法然院 入口
法然院 入口

法然院
法然院

法然院 山門
法然院 山門

茅葺数奇屋造りの山門の屋根はオニギリを思わせます。明治20年に焼失し建て替えられましたが、それも昭和初期に倒壊し、ふたたび原型通りに復元されたものです。法然上人のお人柄をそのまま伝えるかのような愛嬌があります。

山門をくぐると左右に不思議な物体が見えます。何ですかこれは。一対の盛り砂が、白い巨大なチョコレートのように、そこにあります。

法然院 白沙壇
法然院 白沙壇

これを「白沙壇(びゃくさだん)」いい、水をあらわすということです。両側の「白沙壇」の間を通ることによって、心と体を清めるのです。季節によっては「白沙壇」の上に紅葉などの絵が描かれているということで、遊び心がありますね。

境内はうっそうと緑ゆたかに苔むしており、静謐の空気があります。名水として知られる「善気水(ぜんきすい)」が湧き出し、墓地には作家の谷崎潤一郎や経済学者の河上肇(かわかみはじめ)など著名人の墓があります。

安楽寺

法然院を出て、住宅街の中を進んでいくと、次に見えるのが安楽寺(あんらくじ)です。正式には住蓮山安楽寺。別名「松虫鈴虫寺」。悲しい歴史の伝わる寺です。

安楽寺
安楽寺

安楽寺
安楽寺

鎌倉時代初期、法然上人の弟子、住蓮上人と安楽上人がこの地に「鹿谷草庵(ししがたにそうあん)」を築き、人々に念仏の教えを説きました。

住蓮と安楽はとても美男子で、声がよかったのです。そのため多くの女性ファンが押し寄せました。まあ住蓮さま、うっとりしちゃうわ。あら私は安楽さま派よと、特に女性のファンが次々と感化され、仏の弟子になっていきました。

その中に、当時の最高権力者・後鳥羽上皇の寵愛していた17歳の松虫姫、19歳の鈴虫姫の姉妹の姿がありました。二人は今出川左大臣の娘で、容姿端麗で学問にもすぐれていたことから、後鳥羽上皇のあつい寵愛を受けていました。しかし、御所での欺瞞に満ちた生活に、松虫・鈴虫姉妹は疑問を感じていました。

「安楽さまの説かれる御仏の教えのなんと素晴らしいことでしょう。
うっとりしちゃう。それに比べて御所の暮らしなんて、嘘ばっかり」
「お姉さま、もういっそ、二人して出家しちゃいましょうよ」
「そうね。それが一番ね」

建永元年(1206年)12月、後鳥羽上皇が熊野詣で都を留守にしているスキに、松虫姫と鈴虫姫はひそかに京都小御所を抜け出します。「どうか私たちを、御仏の弟子にしてくださいまし」「何をおっしゃいますか。あなた方は上皇様のご寵愛あつきお方ではないですか」「いいえ、そんな俗世のしがらみなど、どうでもいいのです。すぐ髪を下ろさせてくださいまし」

とうとう松虫姫と鈴虫姫は髪を下ろし、出家を遂げました。

「なんということだ!わしの寵愛する松虫と鈴虫を、たぶらかしおって!!断じて許さぬ!!」

後鳥羽上皇は激怒します。住蓮と安楽は罪に問われ、住蓮は近江八幡で安楽は六条河原で斬首されました。何も殺さなくてもって気もしますが、やはり最愛の女官を坊主ごときに奪われたという男の嫉妬があったのでしょう。

さらに後鳥羽上皇は監督不足であるとして、法然を土佐に、親鸞を越後に島流しにしました。いわゆる建永の法難です。

松虫姫と鈴虫姫は瀬戸内海の生口島(いくちじま 現・尾道市瀬戸田町)の光明坊で念仏三昧の余生を送り、松虫姫は35歳で鈴虫姫は45歳で往生したと伝えられます。

住蓮・安楽亡き後「鹿谷草庵」は荒廃しますが、建永の法難から4年後の建暦元年(1211年)法然上人が罪許されて帰京し、二人の菩提を弔うために寺院を建て「住蓮山安楽寺」と名付けました。

現在の安楽寺は延宝8年(1680年)に再建されたものです。境内には住蓮・安楽の墓、松虫・鈴虫の供養塔があります。境内は春と秋のみ一般公開公開されています。

安楽寺
安楽寺

安楽寺
安楽寺

霊鑑寺(れいかんじ)

安楽寺を後に、住宅街を進んでいくと、左手に見えるのが霊鑑寺です。臨済宗南禅寺派の門跡尼寺(もんぜきあまでら)で、はじめは南の鹿谷の渓流沿いにあったので「谷御所」「鹿谷比丘尼御所」と呼ばれました。

霊鑑寺
霊鑑寺

霊鑑寺
霊鑑寺

承応3年(1654年)後水尾上皇が皇女・浄法真院宮宗澄(じょうほうしんのみや・しゅうちょう)を開基として創設。以後、代々の皇女殿下が住持をつとめました。

貞享4年(1687年)後西(ごさい)天皇の御殿を賜って現在地に移築されました。

後水尾上皇が椿を愛好されたことから「椿の寺」と呼ばれ境内には後水尾天皇がご愛好された散椿はじめ、多くの種類の椿があります。シーズンには一般公開されてています。池泉鑑賞式庭園も有名です。

ふたたび哲学の道

さて、霊鑑寺前の坂を下り、ふたたび哲学の道に立ち返ります。小雨が降ってきて疎水分流の流れもしっとりと違う表情になってきました。


哲学の道
哲学の道

哲学の道
哲学の道

南をさしてしばらく歩いていくと、猫が多いのに気づきます。哲学の道だけあって、猫も哲学をしているような賢そうな表情、かと思ったらそうでもなく、グテーーンとだらしなく、マイペースなので、安心しました。





大豊神社

ふたたび哲学の道から離れ、山道を少し登ると、大豊神社の入り口です。大豊神社はごく小さい神社ですが、狛犬ならぬコマネズミがあることで近年人気が高まっています。




仁和3年(887年)宇多天皇の病気平癒のために尚侍(ないしのかみ)藤原淑子(ふじわらのしゅくし)が勅願を奉じて少彦名命(すくなびこなのみこと)を東山三十六峰の一つ、椿ケ峰(つばきがみね)に祀って創建しました。後には応神天皇と菅原道真公が合祀されます。


建武の内乱・応仁の乱で焼失するも、本殿・末社・拝殿・絵馬堂が再建され、法然院・南禅寺一帯の産土神として信仰を集めています。

椿の神社として有名なのですが、梅雨の時期でしたので、参道にはアジサイが見事に咲いていました。背後の椿ケ峰から流れているという清水がちろちろと流れており、ゆったり落ち着いた雰囲気があります。





本殿の左右にはいくつかの末社があるのですが、右手が大国社へ続く鳥居であり、この奥に、問題のネズミくんがいます。

オオクニヌシノミコトがスサノオノミコトからの試練として野で火を放たれた時、ネズミがオオクニヌシノミコトを穴の中に招き、火をやりすごして助かったという『古事記』の話に基づき、昭和44年(1969年)に作られたものです。

右のネズミは雄で、抱えているのは書物で、学問成就にご利益があるとされます。


左のネズミは牝で、抱えているのは玉?もしくはお神酒?子宝をはぐくんでいるなどの説があります。無病息災のご利益があるとされます。


どちらも、なかなかの可愛さで、なでくりまわしたくなります。

熊野若王子神社

さて、いくつかの寺や神社に寄り道しながら、時に猫に癒されたりしながら哲学の道を歩いてきましたが、いよいよ終着点・若王子橋。そして橋をわたったすぐの所にあるのが、熊野若王子神社です。


若王子橋
若王子橋

永暦元年(1160年)後白河法皇が紀州熊野権現を勧請して建立した若王子山の鎮守社で、熊野神社・新熊野神社と並び京都三熊野の一つに数えられます。

熊野若王子神社
熊野若王子神社

「若王子」という社名はアマテラスオオミカミの別名である「若一王子」にちなみます。

以後、室町幕府および武家の信仰を集めました。また花見の名所としても知られ寛政6年(1465年)3月、足利義政により花見の宴が行われました。その後応仁の乱により荒廃しますが、豊臣秀吉により社殿と境内が再建されました。

ご神木の椰は、その昔熊野詣でや伊勢詣での際、ミソギの木として用いられました。「あらゆる苦難をなぎ倒す」ということらしいです。

熊野若王子神社 ご神木の椰
熊野若王子神社 ご神木の椰

サッカー日本代表の、ヤタガラスが椰木の葉をくわえているマークは、ここ熊野若王子神社の椰を図案化したものです。

社殿は若王子山を背に行儀よく鎮座している感がありました。屋根が雨に濡れて白く光っている様子も、味わいがあります。



歌碑がありました。


名に高き滝の白糸
さればこそ
花のにしきをおりいだしけれ

千種有効

その名も評判高い白糸の滝。なるほど、白糸というだけあって、糸を繰って、このすばらしい花の錦を織り出すなだな…。イキなこと言いますね。千種有効(ちぐさありこと)は江戸時代後期の公卿・歌人です。

新島襄の墓へ

裏手の若王子山の上には、同志社大学創立者・新島襄先生とその妻八重の墓があります。ものすごい山奥で、登ると確実に大冒険になります。次回「新島襄の墓を訪ねる」に続きます。



「法然の生涯」無料配信中

というわけで、「法然の生涯」を無料配信中です。
http://history.kaisetsuvoice.com/Hounen00.html

浄土宗の祖・法然上人の生涯を18回に分けて、楽しくわかりやすく語りました。平安末から鎌倉初期の歴史的背景に深く関係させて語っていますので、浄土宗や法然だけでなく、広く歴史好きの方におすすめです。すべて無料でお聴きになれます。ぜひ聴きにいらしてください。
http://history.kaisetsuvoice.com/Hounen00.html

本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。