鞆の浦を歩く

こんにちは。左大臣光永です。

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また、京都講演の受付を開始しております。

「最後の将軍 足利義昭」
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10/26、京都駅八条口徒歩10分「長福寺」で開催します。お誘いあわせの上、ご参加ください。

本日のメルマガは広島県の鞆の浦を歩きます。

鞆の浦は中世から栄えた港町です。瀬戸内海のほぼ中央に位置し、このあたりで潮の流れが変わるため、古来、潮待ち・風待ちの港として栄えました。網の目のように入り組んだ路地に古い町家や寺院が軒をつらね、昔ながらの港町のたたずまいを残します。瀬戸内海ながめも見事です。

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京都講演 「足利義昭」 10/26
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古くから人と物資の行き来がさかんであったため、さまざまな歴史的事件の舞台となり伝承が伝わっています。

大伴旅人が歌に詠み、足利尊氏が再起の足がかりとし、織田信長に追放された足利義昭が亡命政権を作り、平賀源内が、シーボルトが訪れ、朝鮮通信使がその絶景をほめたたえ、坂本龍馬の「いろは丸」事件の交渉が行われました。

鞆の浦へ

JR山陽本線福山駅から「鞆鉄(ともてつ)バス」に乗って30分。

バス停鞆の浦、もしくはバス停鞆港(ともこう)下車。今回は鞆港で降りました。すぐ目の前が鞆の港です。

とりあえず有名な常夜灯めざして歩いていきます。

保命酒

鞆の町は風情ある町家が軒をつらねます。あちこちに保命酒のお店があります。

保命酒(ほうめいしゅ)は江戸時代初期に鞆の浦に移り住んだ中村吉兵衛によって製造された薬用酒です。もち米を主原料に、米(うるち米)・焼酎・漢方薬を使っています。保命酒は今も鞆の名物として親しまれています。

鞆七卿落遺跡(太田家住宅)

幕末まで保命酒を製造・販売していた中村家の屋敷を、明治に入って廻船業を営む太田家が継承したものです。

母屋を囲んで、なまこ壁の土蔵が立ち並びます。

文久3年(1863年)8月18日、公武合体派のクーデターにより三条実美以下七人の公卿が都から追放され長州に下りました。いわゆる「七卿落ち」です。

彼ら七卿が長州に下る途中、鞆の浦の中村家(現太田家)で休憩しました。この際、保命酒の味に感動した一行が歌を詠んだという逸話もあります。

世にならす 鞆の港の竹の葉を
かくてなむるも めづらしの世や
三条実美

世に有名な鞆の港の酒をこうして飲んでいるのも、不思議な運命のめぐりあわせだなあ。「竹」は宮中の言葉で「ささ=酒」のこと。

常夜灯

港に来ました。青々した海が広がっています。

常夜灯。安政6年(1859)に建造された灯台です。

鞆の浦一番の撮影スポットです。映画『流星ワゴン』のロケ地となりました。

いろは丸展示館

坂本龍馬の「いろは丸事件」についての展示館です。

江戸時代の蔵をそのまま利用し、いろは丸の潜水調査のようすを再現したジオラマや、ビデオ、引き揚げられたいろは丸の遺物などを公開しています。

いろは丸事件

慶応3年(1867)4月23日、霧の深い深夜。鞆の浦沖(岡山県六島(むしま)付近)にて、紀州藩の大型蒸気船明光丸と、坂本龍馬率いる海援隊の蒸気船いろは丸が衝突しました。明光丸はいろは丸を曳航し鞆津(とものつ=現鞆の浦)へ向かいましたが、約1時間後、いろは丸は沈没したので、やむをえずロープを切りました。

坂本龍馬はこの事故の賠償交渉のため、鞆を訪れ、桝屋清右衛門宅に宿泊。紀州藩側は「圓福寺」に宿泊。両方から近い「魚屋萬蔵(うおやまんぞう)宅」と「福善寺 対潮楼」で4月23日から4日間、交渉が行われました。しかし話はまとまらず、交渉の場は長崎に移ります。結局、紀州藩が8万3000両の賠償金を支払うことで決着つきました(後、7万両に減額)。

しかし龍馬自身はこの金を受け取らないまま、慶応3年(1867)11月15日、京都近江屋で中岡慎太郎とともに刺客に襲われ、命を落としました。

鞆城跡

次は鞆の町の中央通を通って、鞆城跡をめざします。…このあたりが鞆の中央通りです。夜になればイッパイやれる店もあり、わくわくします。

階段をのぼって振り返ると…鞆の町並みと瀬戸内海が一望できます。

高台上には「潮待ちの館」として親しまれる鞆の浦歴史民俗資料館があります。

資料館そばに大伴旅人の歌碑。

鞆の浦の磯のむろの木見むごとに
相見し妹は 忘れえめやも

(万葉集巻3・447)

意味
鞆の浦の磯に生い茂るむろの木を見るごとに
それをいっしょに見た妻のことが忘れられなく思う。

「むろの木」はヒノキ科の一種でイブキビャクシンと見られています。大伴旅人が大宰府に赴任する途中、妻とともに鞆の浦を訪れ、むろの木を見たのです。その後、旅人は大宰府の長官としての任務につきますが、赴任早々、最愛の妻・大伴郎女が亡くなります。

天平2年(730)大宰府での任を終え、奈良の都へ戻る途中、旅人はふたたび鞆津を訪れました。かつて妻と見たむろの木はそのままに茂っていました。しかし一緒にそれを見た妻はもういない。その思いを詠んだ歌です。

展望台からの眺めが見事です!

このあたりが鞆城(鞆要害)の跡地であり、織田信長に京都を逐われた足利義昭も滞在したと言われます。

ただし義昭がどこに御所を置いたか?正確な位置はわかっていません。

旧魚屋萬蔵宅

次は鞆東部を歩きます。

旧魚屋萬蔵宅は坂本龍馬率いる海援隊と、紀州藩の間で「いろは丸事件」の交渉が行われた場所です。

坂本龍馬は桝屋清右衛門宅におり、紀州藩は圓福寺におり、魚屋萬蔵宅はその中間にあるので、交渉場所として選ばれたようです。現在は古い建物を活かし「御舟宿いろは」として営業しています。

龍馬の隠れ家 桝屋清右衛門宅

廻船問屋の「桝屋」は坂本龍馬が「いろは丸事件」の時、四日間滞在した場所です。

滞在中、龍馬は「才谷梅太郎」という変名を名乗っていました。龍馬は慶応2年(1866)の寺田屋事件で幕府の役人を殺したため、おたずね者の身でした。

平成元年(1989)、地元有志の調査で隠し部屋が見つかり、平成23年(2011)より一般公開されています。

私は行ったのは暑い日で、特にこの部屋はむし暑かったですが、龍馬が滞在したのは旧暦の4月。過ごしやすかったことでしょう。

対潮楼(福禅寺)

次は対潮楼で有名な福禅寺を目指します。入り組んだ細い坂道を登っていきます。

福禅寺(ふくぜんじ)は950年頃、村上天皇の勅願により空也上人が建立した観音堂が後に福禅寺と名をあらためました。

境内の対潮楼(たいちょうろう)は、江戸時代に朝鮮通信使をもてなすために作られた迎賓館です。

座敷から瀬戸内海に浮かぶ弁天島や仙酔島(せんすいじま)が一望できます。

窓枠で風景を切り取ると、まるで一枚の絵画のようです!

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正徳元年(1711)の朝鮮通信使が鞆の浦を訪れた際、趙泰億(ヂョテオク)という外交官が、「日東第一形勝」と絶賛しました。

寛延元年(1748)の朝鮮通信使では洪啓禧(ホンゲヒ)という外交官が客殿を「対潮楼」と命名しました。

むこうの小高い山の上に見えるのが、圓福寺です。「いろは丸事件」の時、紀州藩が宿泊しました。次はあそこを目指します。

対潮楼の石垣の下には、大伴旅人の歌碑が立ちます。

わぎもこが見し
鞆の浦のむろの木は
常世にあれど 見し人ぞなき

(万葉集巻3・446)

意味
私の妻が見た鞆の浦のむろの木はいつまでもあり続けるだろうが、それを見た妻はもうこの世にいない。

圓福寺

対潮楼(福禅寺)を後に、海の近くの高台に登ると、圓福寺があります。「いろは丸事件」のとき、紀州藩が宿所とした寺です。

繰り返しになりますが、「いろは丸事件」は慶応3年(1867)4月23日、鞆の浦沖(岡山県六島(むしま)付近)にて、紀州藩の大型蒸気船明光丸と、坂本龍馬率いる海援隊の蒸気船いろは丸が衝突。明光丸はいろは丸を曳航し鞆津(とものつ=現鞆の浦)へ向かうも、途中でいろは丸は沈没しました。

坂本龍馬はこの事故の賠償交渉のため、鞆を訪れ、桝屋清右衛門宅に宿泊。紀州藩側は「圓福寺」に宿泊。両方から近い「魚屋萬蔵(うおやまんぞう)宅」と「福善寺 対潮楼」で4月23日から4日間、交渉が行われました。しかし話はまとまらず、交渉の場は長崎に移ります。結局、紀州藩が8万3000両の賠償金を支払うことで決着つきました(後、7万両に減額)。

寺の前に猫がたくさんいました。

道の真ん中で、堂々と寝てます。どうやったらここまでリラックスできるのかというリラックスっぷりです。はじめ死んでるのかと思いましたが、生きてました。ふんづけないよう、遠慮しながら通りました。

医王寺

今度は鞆の町の西側に向かいます。

坂道を上っていきます。

上り詰めたところに医王寺があります。弘法大師空海の開基と伝わる古刹です。

文政9年(1826)シーボルトがツツジや松の観察のために訪れた記録があります。境内には大伴旅人の歌碑。

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磯の上に根這う
むろの木見し人を
いづらと問はば語り
告げむか

(万葉集巻3・448)

大意
磯の上に根を這わせるむろの木を見たあの人が、どこに行ってしまったのかと尋ねたら、木は答えてくれるだろうか。

繰り返しになりますが、大伴旅人が大宰府の長官として赴任していく途中、鞆の浦に立ち寄って妻といっしょにむろの木(イブキビャクシン)を見たのです。

その後、大宰府に着任するも、着任早々妻は亡くなりました。数年後ふたたび平城京に戻る時、鞆の浦を訪れた旅人は、亡き妻を偲んで三首の歌をつくりました。鞆には三首とも、歌碑が立っています。

583段の石段を登ると太子堂があり、

鞆の浦の景色が一望できます。絶景です。

平賀源内生祠

医王寺参道の中腹には、平賀源内生祠(ひらがげんない せいし)が立ちます。

生祠(せいし)とは、生きている間にその人物を神として祀った祠です。

宝暦3年(1753)、平賀源内は長崎留学を終え、故郷四国高松藩に戻る途中、鞆を訪れました。その時、源内は、地元の鍛冶屋が竈を焼くのに白い粘土を使っているのを見ました。

この粘土はとてもいいものだ。竈なんて焼くのはもったいない。陶器を焼きなさい。そうすれば伊万里や瀬戸に匹敵する焼き物ができる。大金持ちになれるぞとアドバイスしました。

「ただし忘れるな。大地の神、火の神、そして私、平賀源内。これらを三宝荒神として祀れ」

そう言われた溝川氏は陶器は焼かなかったが、壁土として焼いて、大いに儲けたため、言われた通り、ここに平賀源内を祀りました。

寺町通り

医王寺から下り、今度は鞆市街地の西のはずれの道を北上していきます。

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静観寺(せいかんじ)

伝教大師最澄創建の、鞆でもっとも古い寺です。

かつては七堂伽藍を有する広大な寺院でしたが、南北朝の動乱で焼け、今はごく小さいですが、鞆の歴史を知る上でぜひ訪れたい場所です。

山中鹿介首塚

静観寺のそばに山中鹿介首塚。

山中鹿之介幸盛は出雲の尼子家の家臣。永禄9年(1566)尼子氏が毛利氏に滅ぼされると、鹿之介は織田信長に接近し、羽柴秀吉配下となって毛利を撃とうとします。「月よ、我に七難八苦を与えたまえ」と祈った話は有名ですね。しかし毛利方吉川元春にとらえられ、毛利輝元のもとに護送される途中、備中阿井の渡(岡山県高梁(たかはし)市落合町阿部)で、突如背後から斬りかかられ、命を落としました。

首は鞆に運ばれ、足利義昭、毛利輝元によって実検された後、三ヶ月間さらされました。

ここ広島県福山市鞆には首塚が、岡山県高梁(たかはし)市の阿井の渡には胴塚があります。

憂きことの尚この上に積もれかし
限りある身の力ためさん

ささやき橋

静観寺近くに見過ごしてしまいそうな小さな橋があります。「ささやき橋」を記念して建てられたモニュメントです。

古墳時代、百済からの使節は北九州から大和へ向かう途中、必ず鞆の浦を訪れました。ここにワタリなる青年がおり、使節を接待する役人をやっていました。また江の浦という女性がいました。江の浦は歌や音楽で使節をねぎらう官妓でした。ワタリと江の浦は恋に落ちました。二人はいつも橋の上で合引きしました。しかしついに役人に見つけられ、けしからんというこで、外国使節への見せしめとして海に沈められたと伝えられます。いつしか人々は二人が逢引した橋を「ささやき橋」と呼ぶようになったとか…

沼名前(ぬなくま)神社

鞆市街地西のはずれに沼名前(ぬなくま)神社があります。「鞆の祇園さん」として親しまれています。

スサノオノミコトと、海の神である大綿津見神を祀る渡守(わたす)明神を合祀します。

境内にある能舞台は福山藩主・水野勝成が伏見城にあったものを拝領したと伝えられます。

日本唯一の組み立て式の能舞台であり、国の重要文化財に指定されています。スサノオノミコトが鞆津を訪れた時、村の人々がきゅうりの和え物を出してふるまったという伝承から、沼名前神社ではキュウリを神紋としています。

※「前」と書いて「くま」と読むことについて。本来の地名は「沼名隈」だが、「隈」は奥まった端っこという意味で縁起が悪い。そこで正反対の「前」を当てたという。

小松寺

沼名前神社に近い小松寺(こまつじ)は足利尊氏が本陣を置いた場所です。1336年、足利尊氏はいったん京を占領するも、北畠顕家・新田義貞・楠木正成らの反撃にあい、西国に落ち延びました。

途中、鞆に立ち寄った尊氏は光厳上皇のもとに使者を送り、院宣を下してほしいと乞いました。

今、大覚寺統の後醍醐天皇のまわりに新田義貞らひしめいて天皇をたぶらかしている。ならばこちらは持明院統の光厳上皇の院宣を得て、新田義貞らを討つのだというわけです。

院宣は届きました。足利尊氏は院宣の権威をもとに九州にくだって多くの味方を集め、ふたたび京に攻め上って楠木正成らを討伐。京を取り戻し、足利幕府を開いたのであります。

安国寺

鞆の町の北端に安国寺があります。鞆で二番目に古い古刹です(一番は静観寺)。

「安国寺」といえば、関ヶ原で西軍について処刑された毛利の外交僧「安国寺恵瓊(あんこくじえけい)」をまっさきに思い浮かべると思いますが…安国寺恵瓊は「安芸国安国寺」の出身であるため、そう呼びます。ここは「備後国安国寺」です。

そもそも「安国寺」とは足利尊氏が後醍醐天皇の御霊をなぐさめ世の中を平和にするため、諸国に建てた寺院です。

ここ備後国安国寺は鎌倉時代に建立された金宝寺(きんぽうじ)を元に、暦応2年(1339)足利尊氏が愚谷和尚(ぐこくおしょう)を開山に「安国寺」と改称させました。

戦国時代に衰退しますが、天正7年(1579)安芸国安国寺の出身である安国寺恵瓊が再興。釈迦堂を中心に海岸までのびる広大な寺域を持つに到りましたが、江戸時代にふたたび衰退。

大正9年(1920年)の火事で焼失後は廃墟のようになりましたが、釈迦堂は焼失をまぬがれ、その後の歴代住職の努力で安国寺は復興しました。釈迦堂内部にはご本尊の木造阿弥陀如来および両脇侍立像(りょうわきじりゅうぞう)が静かにたたずみます。

本日は広島県福山市の鞆の浦を歩きました。鞆の浦は網の目のように入り組んだ路地に古い町家や寺院が軒をつらね、昔ながらの港町のたたずまいを残します。瀬戸内海ながめも見事です。

大伴旅人が歌に詠み、足利尊氏が再起の足がかりとし、織田信長に追放された足利義昭が亡命政権を作り、平賀源内が、シーボルトが訪れ、朝鮮通信使がその絶景をほめたたえ、坂本龍馬の「いろは丸」事件の交渉が行われました。

景色が美しく、歴史が豊かな町です。

告知

聴いて・わかる。『徒然草』」DVD版・DL版
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『徒然草』全243段を、すべて原文と、現代語訳で朗読し、必要に応じて補足説明を加えた音声とテキストです。全14.6時間にわたりますが、それぞれの話は数分から十数分程度で、気軽に聴けます。

また原文に加えて現代語訳と解説がありますので、より内容がわかりやすくなっています。

京都で学ぶ歴史人物講座~足利義昭 10/26
http://sirdaizine.com/CD/KyotoSemi_Info2.html

将軍の座を追われながらも中国毛利領に亡命し、広島鞆の浦で独自に活動をつづけた、最後の将軍足利義昭。その数機な生涯について語ります。