宇治を歩く(一) 平等院

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こんにちは。左大臣光永です。

こんにちは。左大臣光永です。京都の市バスに、時々小学生の習字が貼り並べてあるんですが、「青空」とか「希望」とかいった字の横に、でかでかと「○○」とあったのが、うーん…さすが京都だなと思いました。

鎌倉でも小学生の書いたすごい字を見たことがあります。「青空」とか「希望」とかいった字の横に、でかでかと「○○」とあって、うーん…ほんとに小学生かよ!と思いました。

さて本日は、「宇治を歩く(一)」です。JR宇治駅から平等院まで歩きます。

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JR奈良線宇治駅下車。南口に出ます。

JR奈良線は宇治茶をイメージしてか抹茶カラーで美味しそうです。


宇治駅名物・お茶壺ポストにも注目です。




駅前の道を渡り、府道15号線に入ります。ここから平等院方面に歩いていきます。



宇治代官所跡

道すがら、京都銀行宇治支店の前に宇治代官所跡があります。


天正10年(1582)本能寺の変で織田信長が討たれた時、徳川家康は堺見物の最中でした。茶屋四郎次郎の知らせで信長討たれるを知った徳川家康は、わずかなお供を連れて堺を脱出。山城国・宇治田原、近江、伊賀、伊勢を超えて海を渡り、本国三河の岡崎城に戻りました。これを「伊賀越の難」といいます。

この時、宇治田原から近江の信楽まで案内したのが宇治茶で有名な上林家の上林久茂(かんばやし ひさもち)です。上林久茂はこの時の功績により、後に宇治の代官に取り立てられました。また上林一族は、その後も宇治茶の担い手として大いに栄えていきます。

さらにしばらく歩くと右に「宇治・上林記念館」が見えてきます。


門構えは「長屋門」と呼ばれ、宇治茶師の家に特有のものです。元禄11年(1698)の火事で焼けた後再建されたもので、今日まで300年余りを経ています。当時の宇治橋周辺には十数件のお茶師の家が軒をつらねていましたが、現在面影を残すのは、この長屋門だけです。


宇治茶の上林一族は、もともとは丹波上林郷(京都府綾部市)に住む土豪でした。

永禄年間に初代上林加賀守久重が宇治に移住し、茶業に携わったことから上林家と宇治茶の関わりが始まります。そして久重の四人の息子たち、久茂(ひさもち)・味卜(みぼく)・春松(しゅんしょう)・竹庵(ちくあん)が、それぞれ家を起こしました。

上林家
上林家

長兄の峯順(ほうじゅん)家と末弟の竹庵家は宇治の代官に取り立てられるなど、宇治茶の上林家はいよいよ栄えます。三代徳川家光の時には将軍御用のお茶の調達をにないました。宇治から江戸まで茶を運ぶ豪華な行列は「お茶壺道中」の名でよく知られています。

明治維新後は宇治茶を担う家々は相次いで廃業・転職しましたが、上林春松家だけが残り、今に到るまで宇治茶の伝統を伝えています。

橋姫神社

宇治・上林記念館を後に、宇治橋西詰の鳥居まで来ました。


鳥居をくぐり、細い道「あがた通り」を歩いていきます。


車ビャンビャン飛ばしてくるので、怖いです。しばらく行くと左に橋姫神社。



橋姫神社は宇治川の守り神として信仰されてきた神社で、瀬織津比咩《せおりつひめ》を祀ります。

さむしろに衣かたしき今宵もや
我を待つらむ宇治の橋姫

古今・恋歌4・689

莚の上に自分の衣だけを敷いて、今宵も私を待っているのだろうなあ。宇治の橋姫は。

「宇治の橋姫」こと瀬織津比咩は嫉妬の神・縁切りの神としても信仰されています。

嵯峨天皇の御世、嫉妬深い公卿の娘が鬼神の形相で宇治川に37日間浸り、ついに真の鬼になったと伝説されます。

さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫…この歌は「宇治の橋姫」の伝説をふまえ、家で待っている妻を宇治の橋姫に見立てた歌のようです。

境内には橋姫神社と並び、同じく水の神である住吉神社が祀られています。

また橋姫神社は『源氏物語』宇治十帖の第一帖「橋姫」ゆかりの古跡としても知られます。

「橋姫ちゃんグッズ」…缶バッヂか売ってました。


どんな恐ろしい伝説もキャラクターグッズにしてしまう。日本人のたくましさが、ここに見て取れます。

さらにあがた通りを進んでいきます。老舗の畳屋さんや御茶屋さん、町屋造りの家が立ち並び、雰囲気のある街並みです。見えてきました。縣(あがた)神社です。


県(あがた)とは、大和王権の地方組織です。縣神社は、当時宇治が属した栗隈県《くりくまあがた》の守護神として創建されたようです。


永承7年(1052)関白藤原頼通が平等院を建立するにあたり、平等院の鎮守の社としました。祀られている木花開耶姫命《このはなさくやひめのみこと》は良縁・安産の神として信仰されていることから、縁結びの神社としても信仰されています。

縁切りの橋姫神社と縁結びの縣神社と、対になってます。6月5日夜から翌6日未明にかけて行われる縣祭りは、暗夜の奇祭と呼ばれ多くの人でにぎわいます。

平等院

縣神社から平等院参道に来ました。いつ来ても賑わってます。



楽しい雰囲気です。



楽しくて、何度歩いても顔がニヤけてしまいます。見えてきました。平等院の入り口です。



平等院は永承7年(1052)関白藤原頼通が、父道長の別荘を寺院に改め平等院と名付けたのが始まりです。翌天喜元年(1053)、阿弥陀堂(鳳凰堂)が落慶し、平安時代の名仏師・定朝によって丈六の阿弥陀如来坐像が安置されました。

平等院が建てられた永承7年(1052)という年は末法初年といわれ、世に末法思想が流行していました。釈迦が死んでずいぶん長い時間が経ったので、正しい教えが衰え、世が乱れるという考えです。

そこで平等院はこの世に極楽浄土をあらわそうという意図で建てられました。「極楽いぶかしくば宇治の御寺をうやまへ」と巷でうたわれました。

扇之芝

門をくぐると松の緑が目に鮮やかです。

境内すぐ左手にあるのが源頼政(1104-1180)自刃の場所と伝えられる、扇之芝(おおぎのしば)です。頼政が自刃した時、地面にしいた扇をかたどったとも言われています。



治承4年(1180)5月、後白河法皇第三皇子以仁王に加担して打倒平家の旗揚げをした源頼政は、宇治橋のあたりで平家軍に追いつかれ、平等院にて自害したと伝えられます。享年77。

三位入道は、渡辺長七唱(わたなべのちょうじつ・となう)を召して、「わが頸(くび)うて」と宣(のたま)ひければ、主(しゅう)のいけくびうたん事のかなしさに、涙をはらはらとながいて、「仕ッつとも覚え候はず。御自害候はば、其後こそ給はり候はめ」と申しければ、「まことにも」とて西にむかひ高声(こうしょう)に十念となへ、最後の詞(ことば)ぞあはれなる。

埋もれ木の花咲くこともなかりしに
みのなる果てぞ悲しかりける

これを最後の詞にて、太刀のさきを腹につきたて、うつぶさまにつらぬかッてぞうせられける。

『平家物語』「宮御最期」

藤棚・観音堂

扇の芝からちょっと進むと、藤棚と、観音堂。このあたりで頼政の嫡子・伊豆守仲綱が討ち死にしたと『平家物語』に書かれています。



鳳凰堂・阿字池

中央の阿字池にうかぶ鳳凰堂こと阿弥陀堂です。中に入るのは別料金がかかります。



天喜元年(1503)藤原頼通による建立。中堂・左右の翼廊・背後の尾廊から成る荘厳な建物です。西方極楽浄土の、阿弥陀如来の宮殿をイメージしていると言われます。



正面から見た姿が伝説の鳥・鳳凰が翼を広げた姿に似ていることから、また屋根の両端に一対の鳳凰像をのせていることから、江戸時代以降、鳳凰堂と呼ばれるようになりました。

堂内は…ひんやりと風が吹いていて冷ややかでした。平安時代の名仏師・定朝作の丈六の阿弥陀如来坐像。これは定朝作ということが確定している日本で唯一の仏像です。

東に面した格子の上部に丸窓が空けてあります。これによって、阿字池を隔てて池のむこうから阿弥陀如来坐像の御尊顔を拝むことができるようになっています。

阿弥陀如来坐像の周りの長押の白壁には、52体の雲中供養菩薩像がかかっています。雲に乗り、輪光を背負い、あるいは楽器を奏で、あるいは合掌し、舞い、印を結び…ご本尊の阿弥陀如来坐像を供養し、極楽の楽しさを表しています。

うち26体は本物で26体はレプリカです。残る26体の本物は、鳳翔館に展示されています。また大和絵風の「九品来迎図」が描かれています。阿弥陀如来の来迎に九段階の違いがあるという内容です。

梵鐘

鳳凰堂を出て、阿字池の周りの道に沿って進んでいきます。


石段登った所に平等院の梵鐘があります。


日本三銘鐘の一つに数えられます。鐘の表面に刻まれた彫刻の美しさで有名です。昭和47年に復元された二代目です。

鳳翔館

平等院のさまざまな宝物を展示した博物館です。


梵鐘、鳳凰像一対、そして26体の雲中供養菩薩像は最大の見どころです。雲に乗り、輪光を背負い、あるいは楽器を奏で、あるいは合掌し、舞い、印を結び…変化に富んでいます。いつまでも見ていていたくなります。

またCGで再現した鳳凰堂創建当時の色彩を見ることができます。当初はカラフルで派手派手だったんですね。

浄土院

鳳凰堂の裏手には平等院の塔頭の浄土院があります。


境内の養林庵書院は、桃山城から移築したものと伝えられ、伝狩野山楽筆による障壁画や、藤の透彫(すかしぼり)があります。

不動堂・源三位入道頼政の墓

浄土院隣の不動堂の境内には、源三位入道頼政の墓があります。




源頼政は摂津源氏の流れをくみ、摂津渡辺を本拠地としました。保元の乱では後白河天皇方につき、続く平治の乱でははじめ源義朝につくも、途中から平清盛に乗り換えました。

平治の乱の後、源氏は中央政界を追われますが、頼政は唯一中央政界に残り、平清盛の深い信任もあって出世を重ねます。治承2年(1178)従三位に到り、源三位頼政、出家して源三位入道頼政と呼ばれました。

治承4年(1180)5月、後白河法皇第三皇子以仁王をかついで打倒平家の旗揚げをしますが、途中、宇治川のたもとで平知盛軍に追いつかれ、平等院にて自害しました。享年77。

長年世話になった平清盛を裏切ってまで、どうして頼政は挙兵したのか?諸説あってよくわかりません。おそらく最初は平清盛このお方ならば信頼できると思っていた。ところが、清盛はだんだんおかしなことをやり出した。

後白河法皇を幽閉し、やりたい放題やるようになっていった。清盛さま、あなた様に恩義は感じておりますが、最近のなさりようは酷い。これは、いけませんと…そんな感じで頼政の気持がじょじょに変化していったかなぁと思います。

次回「宇治を歩く(ニ)」に続きます。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

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