樋口一葉「たけくらべ」の舞台・新吉原を歩く

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こんにちは。左大臣光永です。日曜日の夜しっとりとお過ごしでしょうか?

明日11月23日は一葉忌…樋口一葉が亡くなった日です。
本郷の法真寺や竜泉の樋口一葉記念館では
記念イベントが行われます。というわけで

本日は、前回に引き続き、
樋口一葉「たけくらべ」の舞台・新吉原を歩きます。

前回の「樋口一葉「たけくらべ」の舞台・竜泉を歩く」も、あわせてお聴きください。
https://sirdaizine.com/travel/Ryusen1.html

東京メトロ日比谷線三ノ輪駅で下り、明治通りを
隅田川方面に向けて歩くこと10分。

見えてきました。吉原大門(よしわらおおもん)の見返り柳です。

見返り柳

ガソリンスタンド前の歩道の傍らに「見返り柳」が立っています。



吉原でさんざん遊んだ客が、ああ名残惜しいなあ。今度はいつ来られるか。さらば吉原。さらば、また来るぜいと見返り、見返りしつつ名残を惜しんだ。これぞ見返り柳。

きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな

見返れば意見か柳顔を打ち

などの川柳に詠まれています。現在のは六代目です。涼しげな葉ぶりがいい感じです。


さて見返り柳の所から右の道に入り、ラーメン屋と交番の間の道を右に入り、ちょっと進むと、左手に小さな階段があり、そのたもとにあるのが「お歯黒溝(どぶ)」の遺構です。




石堤の一部が残っています。まったく説明が無いのでふつうに歩いているとぜったい気づきませんが。ここが!吉原の、お歯黒溝跡です。お歯黒溝は吉原の周囲を取り巻いていた堀で、渡る時は跳ね橋を渡りました。その水が真っ黒に濁っていたことから、お歯黒溝と言われたそうです(ただしこれには諸説あります)

「たけくらべ」の冒頭に、「お歯黒溝」の名は印象的に登場します。

廻れば大門(おおもん)の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火(ともしび)うつる三階の騒ぎも手に取るごとく、明けくれなしの車の行来(ゆきき)にはかり知られぬ全盛をうらないて…

吉原神社

このあたりは柳並木がいかにも吉原って空気を出しています。風俗店が多いのもいかにもです。客引きがズラッと並んでます。


鷲神社目指して国際通り方面に歩いていくと、右手に吉原神社があります。


入口には御神木の逢初桜がうわってます。逢初とは恋い焦がれている人に初めて会うことで、いかにも艶っぽい感じです。狛犬もイケメンです。これから馴染みの女と会うとでもいうような感じですね。


続いて左手に見えてくるのが、吉原弁財天です。境内には新吉原弁天池の跡がわずかに残ります。


境内の「花吉原名残碑(はなのよしわらなごりのひ)」により吉原の歴史を知ることができます。


吉原は江戸における唯一の幕府公認の遊郭で、元和3年(1617)年に葺屋町(ふきやちょう)東隣(現中央区人形町付近)において始まりました。

葦(よし)の群生する湿地帯を埋め立てたため葦原としましたが、後に字を縁起のいいものにあらためて、吉原としました。

明暦3年(1657年)の大火により日本橋の吉原が焼失すると、幕府の命令で吉原を浅草千束村(現台東区千束)に移すとととなりました。これが新吉原です。対して移転前の日本橋の吉原は元吉原といいます。

以後、昭和33年売春防止法により廃止されるまで新吉原は続きました。

もともとこの地は湿地帯で池が多かったのですが、新吉原建設にあたって多くは埋め立てられました。しかし一部は残り、新吉原弁天池と呼ばれ親しまれていました。

大正12年(1923年)関東大震災の時、多くの人々がこの池に難を逃れようと飛び込み、490人が溺死するという事件が起きました。弁天祠付近の築山にある観音像は、この時の死者を供養するため、大正15年に作られたものです。


(以上、境内の「新吉原花園池(弁天池)跡」解説版、および「花吉原名残碑」より抜粋)

風にひるがえる衣、悲しげな表情。なんというかとてもドラマチックな感じの観音像です。

観音像のそばにある弁天堂には、芸大生によるアートな弁天さまが描かれていました。


鷲神社

次に国際通りに立ち返り、樋口一葉の「たけくらべ」の舞台となった鷲神社を訪ねます。境内は11月の酉の市に向けて、工事中でした。



鷲神社は江戸時代には鷲大名神社(わしだいみょうじんじゃ)と号し、天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祭り、商売繁盛・開運にご利益があるとして古くから信仰を集めています。

その発祥は、景行天皇の御世、ヤマトタケルノミコトが東征の際、この地に立より戦勝祈願をしました。そして見事敵を平らげ、戻ってくる時に、御加護を感謝して、武器である熊手をこの神社の前の松の木に掛けました。

それが十一月の酉の日だったので、この日を例祭日としたのが「酉の市」の始まりです。その後、天日鷲命(あめのひわしのみこと)にヤマトタケルノミコトを合わせ祀りました。

浅草の酉の市として大いに栄え、縁起物と熊手も人気をはくしました。特に吉原遊郭の繁盛に伴い「吉原のおとりさま」と言われました。

「たけくらべ」ではクライマックスの場面に描かれています。

この年三の酉までありて中一日はつぶれしかど前後の上天気に大鳥神社の賑ひすさまじくここをかこつけに検査場の門より乱れ入る若人達の勢ひとては、天柱(てんちゅう)くだけ、地維(ちい)ちいかくるかと思はるゝ笑ひ声のどよめき、中之町(なかのちょう)の通りは俄かに方角の替りしやうに思はれて、角町(すみちょう)京町(きょうまち)処々のはね橋より、さっさ押せ押せと猪牙(ちょき)がかった言葉に人波を分くる群もあり、河岸の小店の百囀(ももさえ)ずりより、優にうづ高き大籬(おおまがき)の楼上まで、絃歌(げんか)の声のさまざまに沸き来るような面白さは大方の人おもい出でて忘れぬ物に思(おぼ)すも有るべし。

今度は茶屋店通りに戻って昭和通りと交差するまで進み、さらに金杉通りに交差するまで、まっすぐ進みます。

見えてきました。三島神社です。


弘安4年(1281)年、蒙古襲来の際、四国の豪族河野通有(こうのみちあり)が伊予の大山祇(おおやまづみ)神社に戦勝祈願して出陣。見事勝利できたので、感謝して大山祇神社を武蔵国豊島郡に勧請したのがはじまりです。


境内左手に柳、右手に楠がそそり立ち、迎えてくれます。

三嶋神社(みしまさま)の角をまがりてよりこれぞと見ゆる大厦(いえ)もなく、かたぶく軒端のきばの十軒長屋二十軒長や……

『たけくらべ』冒頭にその名が登場します。

小野照崎神社

三島神社を出て金杉通りを鶯谷駅方面に向かって歩いていくと、左手が小野照崎(おのてるさき)神社の入り口です。平安時代初期の歌人・小野篁をまつった神社です。


小野篁をまつった神社といえば京都の六道珍皇寺が有名ですが、東京にもあるんです。それがここ、小野照崎神社です。

入口のちょうちんの感じが、六道珍皇寺に似た感じで、おお、篁がいる。ここに篁がと期待をかきたてくれます。

東京の小野照崎神社
東京の小野照崎神社

京都の六道珍皇寺
京都の六道珍皇寺

わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと
人には告げよあまの釣り船

百人一首の小野篁の歌をつぶやきながら、境内を散策します。

縁起によると、上野(こうずけ)国司の任を終えた小野篁が、都へ帰る途中、上野照崎(忍丘。上野公園のあたり)にさしかかって、ああ…まこと素晴らしい景色よ。そう言って絶賛しました。

仁寿2年(852年)篁が亡くなった時、そういえば篁さんは生前上野の地をいとおしんでおられたなあと、篁の御魂をこの地にまつりました。



江戸時代。上野照崎に寛永寺を建てることとなり、社はこの地に移転となりました。

現在の社殿は慶応二年(1866)の建設で、関東大震災にも東京大空襲にも堪えました。篁の神通力によって守られたのでしょうか。年期が入ったものです。

『たけくらべ』には、

打つや皷(つづみ)のしらべ、三味(さみ)の音色に事かゝぬ場處(ばしょ)も、祭りは別物、酉(とり)の市を除けては一年一度の賑ひぞかし、三嶋さま小野照(おのてる)さま、お隣社(となり)づから負けまじの競ひ心をかしく、

…と書かれています。

境内には庚申塚、富士塚、また猫がじゃれあっているなど、見どころが多いです。

本日は、樋口一葉『たけくらべ』に沿って、舞台となった新吉原界隈を中心に歩きました。

左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。ありがとうございました。

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