武田信玄誕生の地 要害山に登る

こんにちは。左大臣光永です。

先日、山科疎水(やましなそすい)に行ってきました。明治時代に大津から京都に通した疎水の一部が、水路沿いに遊歩道が整えられているのです。青もみじがしたたるように濃く薄く、見事に色づいていました。あまりの美しさに空気の清浄さに、涙が出ました。桜や秋の紅葉はどんなにきれいでも涙は出ませんが、青もみじは泣けてきます。

本日は武田信玄誕生の地 要害山(ようがいさん)に登ります。

永正17年(1520)、甲斐武田氏18代・武田信虎は甲府躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)の背後の山に要害城(ようがいじょう)を築きました。日常のすまいとしての躑躅ヶ崎館に対して、要害城は戦時に立てこもる詰め城でした。

翌大永元年(1521)、信虎の正妻・大井夫人は今川氏との戦にともない要害山に避難し、ほどなくこの地で男子を生みます。後の武田信玄です。

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武田信虎像

JR甲府駅北口下車。駅前広場に武田信虎像。2018年12月に立てられた新しい像です。

武田信虎(1494-1574)甲斐国の守護をつとめる武田氏18代。17代武田信縄(のぶつな)の嫡男。19代武田信玄の父。永正4年(1507)父信縄の死にともなって14歳で家督をつぎ、国内の反対勢力、小山田氏・大井氏を討伐し、天文初年(1532)までに甲斐国を統一。

その間、永正16年(1519)には、川田館(笛吹市石和町(いさわちょう))から甲府・躑躅ヶ崎館へ拠点を移し、また館の南に城下町を整え寺社を配置し、「甲府」を開きました。

天文10年(1541)娘婿である駿河の今川義元を訪ねていったところ、嫡子晴信(信玄)により帰路をたたれ、駿河に引き返して隠居。ほどなく出家して無人斎道有と名乗りました。

永禄6年(1563)まで今川氏に保護されるも、その後上洛し足利将軍に仕えました。天正2年(1574)息子信廉(のぶかど)が在城していた信濃国高遠(たかとお)城(長野県伊奈市高遠町)に身を寄せ、没しました。享年81。

武田神社(武田氏館跡)

JR甲府駅北口から武田神社行きバスに乗り、約16分。終点「武田神社」でおります。目の前が武田神社です。

武田神社は信玄の父・信虎が永正16年(1519)に築いた「躑躅ヶ崎館」の跡地に建立された神社です。

躑躅ケ崎館の南側には城下町が開け大いに賑わいました。武田勝頼が新府城を築城するまで、3代60年以上にわたり躑躅ヶ崎館は甲斐武田氏の居城となりました。

武田信玄は躑躅ヶ崎館ができた二年後の大永元年(1521)、躑躅ケ崎館背後の要害山で生まれています。

天正10年(1582)3月、武田勝頼は織田信長・徳川家康連合軍においつめられ、天目山に自害。ここに甲斐武田氏は滅亡します。その後、徳川家康は天正18年(1590)家臣平岩親吉(ひらいわ ちかよし)に命じて躑躅ヶ崎館を改修させます。しかし、あらたに甲府城が建つに及んで、慶長5年(1600)前後に躑躅ヶ崎館は廃城になりました。

大正天皇即位に際し、武田信玄に従三位の位が贈られたことに伴い、大正8年(1919年)に武田信玄をまつって躑躅ケ崎館跡に建立されたのが武田神社です。

境内には武田氏ゆかりの品々を展示した宝物殿があり、堀や土塁などの遺構も残っています。

信玄の命日である4月12日には、例祭が華やかに行われています。

積翠寺

バス停武田神社から積翠寺行きのバスに乗り、終点「積翠寺」下車。徒歩10分。積翠寺につきました。

武田信玄誕生の地と伝わるお寺です。行基上人創建、鎌倉時代に夢窓国師の弟子・竺峰禅師(じくほうぜんじ)が中興したと伝わります。

かなり高台にある寺で、見晴らしがいいです。

入り口に左右一対の灯籠と如意輪観音像が迎えてくれます。

石段をのぼって正面が本堂、

右が庫裏・書院。左奥に「不動堂」があり、三体の像が安置されます。

中央が武田信玄像、

左が毘沙門天像、右が武田不動尊像です。

記録によると、信虎の正妻大井夫人は懐妊していましたが、大永元年(1521)9月16、駿河の今川氏の甲府侵攻(飯田河原の合戦)にともない、要害山へ避難してきました。

11月3日、男子が生まれます。これが後の武田信玄です。その後、武田信虎が二度にわたって今川勢を撃退したので、生まれたばかりの御曹司は要害城を下り、躑躅ヶ崎館に入りました。

本堂裏手には美しい庭園があり、信玄公産湯の井戸があります。

産湯天神

また積翠寺近くに産湯天神(うぶゆてんじん)があります。

武田信玄(勝千代)が産湯をつかったという場所に建てられた積翠寺鎮守の社です。中央に産土の天神、左に不動明王、右に車折(くるまさき)明神を祀ります。

車折明神とは平安時代の漢学者・儒学者の清原頼業(きよはらのよりなり)のことで、京都嵯峨の車折神社に祀られています。

要害山

積翠寺を後に県道31号線を登っていくと右手に積翠寺温泉があり、近くに要害山の登山口があります。

永正17年(1520)武田氏館(躑躅ヶ崎館)築城の翌年、武田信虎はここ要害山の尾根の上に要害城を築きました(信玄が生まれる一年前)。要害城は躑躅ヶ崎館の北東2.5キロに位置し、館の背後にそびえています。

当時、武田氏は駿河の今川氏とたびたび戦を繰り返していました。そのため平時の居住区である躑躅ヶ崎館だけでなく、緊急時にたてこもる要塞が必要だったのです。そのための要害城でした。

大永元年(1521)駒井昌頼が城主に命じられます。この年、今川方の福島氏が侵攻してきます。信虎の妻・大井夫人は懐妊中だったため、9月16日、要害城へ避難します。そして。11月3日、要害城にて男子が生まれました。後の武田信玄です。

ごちゃごちゃしてきたので時系列でまとめます。

永正16年(1519)躑躅ヶ崎館築城
永正17年(1520)要害城築城
大永元年(1521)9月16日 大井夫人、要害城に避難
大永元年(1521)11月3日 武田信玄生まれる

という流れです。

標高780メートル。つづら折りの山道をひたすら登ります。

保存状態が極めてよく、竪堀跡、土塁、門跡、曲輪などが看板でしめされ、戦国時代の山城の形をよく観察できます。

要害山中腹には「不動曲輪」とよばれる曲輪があり、巨大な「武田不動尊」像が立ちます。江戸時代初期の設置と伝えられ右手に軍配、左手に「羂索(けんさく)」を持ち、いかにも威風堂々とした姿です。

羂索は糸をよりあわせて網状にしたもので、不動明王や千手観音が持ちます。これを投げて、民を救うのです。

要害山山頂には「武田信玄誕生之地碑」が立ちます。

山頂まで約50分。いい運動になりました。木々の梢の合間から見える景色も素晴らしいです。

本日は武田信玄誕生の地・要害山を歩きました。

次回は「武田勝頼滅びの道」を歩きます。お楽しみに!

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