芝 増上寺を歩く

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こんにちは。左大臣光永です。週の半ば、いかがお過ごしでしょうか?

私は久しぶりに近所のお寺で大声出して発声練習してきました。久しぶり、じゃいけないんですけどね。ここの所さぼりがちになっていました。寒いし。まあ、メルマガ定期的に出していたので、実践をもって発声練習にはなっていたとて…やはり毎日の訓練は欠かせないな。習慣づけないとなと思いました。喉がジャリジャリしてて、しばらく練習が足りてなかったのを実感しました。

さて先日発売しました「現代語訳つき朗読 『土佐日記』」CD-ROM。ご好評をいただいています。
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男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり。有名な書き出しで始まる土佐日記。土佐から京都に帰ってくる55日間の旅のことをつづった日記文学の名作。原文と現代語訳による朗読と解説を加えたCD-ROMです。特典の「暗記のコツと効用」は1月31日お申し込みまでの早期お申し込み特典です。お申し込みはお早めにどうぞ。

さて本日は「芝 増上寺を歩く」です。

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東京芝・増上寺は浄土宗七大本山の一つで、東国における浄土宗の要として発展してきたお寺です。

芝大門

JR山手線浜松町駅もしくは都営大江戸線大門駅で降りて、大通りを東京タワー目指して進んでいきます。すぐに見えてくるのが芝大門(しばだいもん)です。


もとはここが増上寺の表門でした。ただしこれは国道整備のため昭和12年(1937年)に原型より大きく、コンクリート製に作り直されたものです。

芝大門は関東大震災の時、倒壊の危険があったので両国の回向院に移築されましたが、昭和20年の空襲で燃えてしまいました。

傍らの公衆トイレも大門風になっているのは、注目したいところです。


芝大門をくぐりまっすぐ数100メートル進むと、見えてくるのが三解脱山門(さんげだつもん)。通称三門(さんもん)です。


東日本最大規模の門で、増上寺の「表門」がさきほどの大門だった頃の、中門に当たります。

三解脱とは、三つの煩悩「貪り・怒り・愚かさ」から解脱するという意味です。この門をくぐるとそれら煩悩がすーと消えていくということですね。

楼の上には釈迦三尊像・十六羅漢像・歴代上人像が安置されているということですが、残念ながら入ることはできません。くぐります。

境内概観

境内に足を踏み入れると、広大な敷地を隔て正面に大殿(だいでん。本殿)。大殿右にそびえて見える東京タワー。


その雄大な景色に、米国第18代大統領グラント将軍手植えの「グラント松」の梢が前景としておおいかぶさります。

増上寺は浄土宗七大本山の一つで、正式には三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)。明徳4年(1393年)浄土宗第八代・酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人により江戸貝塚(千代田区平河町)の地に創建されました。その後、現在の位置に移され、徳川家の菩提寺とされ、大いに栄えました。

昭和20年(1945年)の空襲で伽藍の多くが失われますが、昭和49年(1974年)大殿(だいでん。本堂)が再建され、以後次々と堂宇が再建されていきました。

平成23年(2011年)法然上人御忌(ぎょき)八百年を迎え、いくつかの新しいお堂が建立され、いよいよ勢いを見せています。

鐘楼堂

まず境内右手を見ると、寛永10年(1633年)建立の鐘楼堂(しょうろうどう)が建っています。


そこに収められた梵鐘はあまりに大きいため、七度にわたる鋳造を経て完成したと伝えられ、江戸三大名鐘の一つに数えらます。ただし現在のものは戦後に再建されたものです。

今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か

江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘

西国の果てまで響く芝の鐘

江戸時代の川柳に、このように謳われています。

では、大殿めざして境内を進んでいきます。石段の左右には法然上人の歌碑が立っています。


池の水人の心に似たりけりにごりすむことさだめなければ

池の水は人の心に似ている。濁ったり、澄んだり、定まることがない。

ちなみに京都の知恩寺(※知恩院ではなく)には、少し言葉を変えて、このようにあります。

わが心池水にこそ似たりけれにごりすむことさだめなければ

そしてもう一首。


月かげのいたらぬ里はなけれどもながむる人の心にぞすむ

月の光はあらゆる里にまんべんなく降り注ぐが、それをじっと見つめる人の心にこそ光は留まる。そんなふうに、阿弥陀仏の救いはあらゆる人に差し伸べられているが、心を澄まして念仏する人にこそ、その救いは訪れる。

勢至丸の像

大殿に向かって左手には、勢至丸像があります。


勢至丸後の法然上人は、美作国の押領使漆間時国の長男として生まれますが、父漆間時国は荘園管理人・明石定明の襲撃を受け、死んでしまいます。

おのれ父のカタキ。復讐を思う勢至丸。ならぬ!父は言うのでした。敵を憎むな、復讐をするな。憎しみは憎しみを生むだけだ。それよりも仏門に入り、父の菩提を弔ってくれと。これにより勢至丸は仏門に入り、比叡山に上ることとなります。

ここ増上寺の勢至丸像は、やや下ぶくれで顔が丸くダンゴ鼻です。肖像画などに描かれた法然の、例のふっくらした姿から逆算したイメージでしょうか。

大殿(だいでん)です。


昭和49年(1974年)空襲で焼けた以前の本堂が再建されたものです。金色の鴟尾(しび)が東京タワーを背景にキラリと映えます。中は常時公開中で、椅子にすわって心静かに過ごすことができます。

正面には金箔を押した阿弥陀如来坐像。右には法然を導いた唐の善導大師像。左には法然像があります。この法然像は、顔のパーツが真ん中によって、なかなか特徴的な御顔です。

千躰子育地蔵

次に大殿向かって右手の安国殿(あんこくでん)を通り過ぎ、


徳川家の墓所に向かいます。


その道すがら、ズラッとお地蔵さんが並んでいます。千躰子育地蔵です。どのお地蔵さんも穏やかな、澄んだ表情をなさっています。



お地蔵さん一体につき一本の風車が立ててあり、風に吹かれるといっせいにカラカラカラカラと軽やかな音を立てるのが、よい風情です。

お地蔵さんたちの合間を縫って進んでいくと、出ました。徳川家の墓所に通じる鋳抜門(いぬきもん)です。



左右の扉に五つずつ葵の御紋を配し、両脇には「昇り竜」と「下り竜」が鋳抜かれています。


以前訪れた上野東照宮の説明版によると、立派な人物は頭を下げることから、下を向いているほうが昇り竜。上を向いているほうが下り竜らしいです。

入場料500円を入り、通用門をくぐります。中は踊場状のエリアを取り巻くように、徳川家の墓が並んでいます。



2代将軍秀忠など6人の将軍、正室、側室の墓です。東京タワーと徳川家の墓所が一つの絵に入っているのは面白い光景です。

その他

境内には猫がノンビリくつろいでいて、微笑ましかったです。寺ということで人に可愛がられるのか、そのへんの野良猫と違ってとても人なつこく、じゃれついてきました。


その他、十四代徳川家茂正室・皇女和宮ゆかりの茶室「貞恭庵(ていきょうあん)」や、


町火消で有名な「め組」の殉職者の供養のために建てられた「め組供養碑」など、


境内は見どころが多いです。

増上寺の近くには徳川家康公をまつった芝東照宮があります。

芝東照宮は以前は増上寺安国殿として増上寺の一部でしたが、明治の神仏分離により東照宮となりました。

横幅の広い鳥居をくぐると、いい感じで猫が出迎えてくれました。思いっきり腹をさらして、マイペースです





境内左手には徳川家光手植えの銀杏の木があります。風格のある幹です。こう手をかざして、霊力的なもの?を受け取っている方が多かったです。


本尊は家康公自ら作られた等身大の寿像(じゅぞう)です。寿像とは本人が生きているう
ちに作る像のことです。ここで思い出しました。口ずさまなくてはなりません。家康公の遺訓です。


東照宮遺訓

人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し
いそぐべからず
不自由を常とおもへば不足なし
こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし
堪忍は無事長久の基
いかりは敵とおもへ
勝事ばかり知てまくる事をしらざれば
害其身にいたる
おのれを責て人をせむるな
及ばざるは過ぎたるよりまされり

二度、三度、ぶつぶつ唱えながら芝東照宮を後にしました。春になったら日光東照宮にも行ってきます。。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

次の旅「湯島聖堂を歩く

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