聴いて・わかる。日本の歴史~幕末の動乱
幕末はわかりにくい。
複雑だ。
そう思ってませんか?
私は思ってます。
だって実際、幕末はわかりにくく、複雑ですから。
幕末の歴史を紐解くには、政治・経済・軍事・外交・宗教…さまざまな角度から勉強する必要があります。一筋縄ではいきません。
「そんなの、ややこしい」
「パパッと幕末の歴史を説明してくれ」
↑こういう声に答えて、幕末の歴史は主に2つの方法で説明されてきました。
正義の薩長が、悪の江戸幕府を倒した
ひとつは「正義の薩長が、悪の江戸幕府を倒した」というものです。
西郷隆盛や桂小五郎、坂本龍馬という英雄たちが、日本の夜明けのために頑張って、明治維新という輝かしい偉業を成し遂げたという、おなじみのストーリーです。
教科書も、基本的には今もこの流れで書かれています。ドラマや小説なども、最近までほとんどが薩長バンザイ、明治維新バンザイでした。とくに司馬遼太郎氏の小説は単純でわかりやすい英雄物語の中に薩長バンザイ、明治維新バンザイを落とし込んであります。
だから今日なお、歴史に興味のない大半の日本人にとって、幕末とは「正義の薩長が悪の江戸幕府を倒した」とイメージされています。
しかし本当に薩長は正義のヒーローでしょうか?
もちろん、そんなわけありません。
西郷隆盛は幕府側から戦を起こさせるため、江戸の町で放火・強盗を繰り返させました。それで幕府側が挑発に乗って江戸の薩摩藩邸を砲撃した時、「わが事なれり」とほくそ笑んだんです。
長州は口には尊皇と唱えながら天皇のまします御所を襲撃しました。日本の歴史の中で御所を襲撃したのはほかに木曽義仲が後白河法皇の御所を襲撃した例があるくらいです。それでいて長州は政権を握るために都合のいい「玉」として天皇を担ぎ上げました。
薩長は泣きついてきた会津をけして許さず、弁解もきかず、徹底的にいじめ抜きました。放火・強盗・強姦を繰り返し、ついにさい果ての斗南藩3万石(実質7000石)に押し込めました。
斗南藩に押し込められた会津藩士は困窮し、飢えと寒さでたくさん死にました。薩長の卑劣な行為・残虐行為を挙げればキリがありません。
正義の江戸幕府が、悪の薩長によって倒された
わあそうだったんですか!
明治維新はスゴい、西郷さんは偉いって教えられてきたのに。
ウソだったんですね!
歴史は捻じ曲げられていたんだ!
そこで次に出てくるのが、
「正義の江戸幕府が、悪の薩長によって倒された」
という、最近多くなってきた説明です。
官軍だ、ご維新だと威張るけれど、薩長ははロクでもないテロリストだ。尊皇だ、攘夷だと叫んでいたのも、すべて政権を握るための方便だ。何でもよかったんだ。とくに会津はひどい被害を受けたと。
正直、「正義の薩長が、悪の江戸幕府を倒した」説よりは、「正義の江戸幕府が、悪の薩長によって倒された」説のほうが、いくらか事実に近いと私は思います。白虎隊や、二本松少年隊の悲劇を思うと、幕府方…というか会津に肩入れしたくもなります。
しかし幕末の薩長が、すべて政権を奪うためだけに動いていたという説には、ぜったいに同意できません。というか事実に反しています。
長州人は下関の、壇ノ浦海峡で、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの船と戦ったんですよ。見るからにゴッつい、とてもかなわないと一目でわかる、欧米の戦艦と。ドンパチやりあったんですよ。
そりゃあ愚かな行為だったかもしれない。時代の流れに逆らっていたかもしれない。そもそも自分たちのやったテロ行為に対すて食らった報復ですので、あまり同情の余地もありません。
しかし、その度胸はどこから来たんでしょうか。「政権うばうための方便」なんかでは、とてもできないですよ。長州人にとっての攘夷は、政権うばうための単なるスローガンだったなんて、一度も死ぬ思いしたことが無い人間のタワゴトです。
高杉晋作は50人でクーデターを起こしたんですよ(80人説、100人説も)。時の政府を相手どってですから、敵はたぶん数千人はいたでしょう。ムチャクチャです。そこには命が惜しいとか、失敗したらどうしようとか、そんな計算は一切ない。はじめから命捨ててかかってます。
政権を奪うための方便なんかで、そんな行動ができますか?できませんよ。そこには、故郷長州を守ろうというひたぶるな気持ち、藩主毛利父子の汚名を雪ごうというひたぶるな気持ちが流れていたんじゃないでしょうか。
現在のこの、おそろしく豊かな日本で、王侯貴族のようなぜいたくな暮らしを満喫している我々が、じゃあお前、命捨てて戦えってこいと言われて、できますかね?
私にはできません。命が惜しいし自分のささやかな生活が恋しいので。
現代人の尺度で、薩長の行動はすべてが計算だったとか、政権うばうための方便にすぎなかったとか、そんなテキトーなことは、言わないほうがいいと思います。
人はわかりやすいものに飛びつく
「正義の薩長が悪の江戸幕府を倒した」とか、逆に「薩長の行いはすべて政権を奪うための方便だった」という説明は単純で、わかりやすいため、誰もが飛びつきます。
人は複雑でわかりにくいものが嫌いです。
脳を使うのが嫌いです。
わかりやすく、「噛み砕いた」説明に飛びつきます。
池上彰氏の番組が大人気なのも、そのあらわれです。
まったく頭を使わないスマホのゲームが大人気なのも、そのあらわれです。
大多数の人は考えたくないんです。
複雑なことは、考えたくないんです。
噛み砕いて、パパッと説明してほしいんです。
「正義の薩長が悪の江戸幕府を倒した」とか、「薩長の行いはすべて政権を奪うための方便だった」というわかりやすい説明に飛びつきます。
しかし実際の歴史は、複雑です。
西郷隆盛も桂小五郎も高杉晋作も、正義の味方でもなければ、悪の大魔王でもありませんでした。喜怒哀楽があり、欠点があり、複雑な思考を持ち、しかもその思考は時と状況にしたがって変化していきました。
結局のところ「正義の某が悪の某を倒した」というストーリーは「間違っている」ため、どこかで説明にムリが出ます。
私は「複雑なものは複雑なものとして、一つ一つ丁寧に語っていくほか無い」と思っています。
「複雑なものは複雑なものとして、一つ一つ丁寧に語っていくほか無い」と思っています。
それで、今回この「幕末の動乱」という解説音声を作りました。
で、じゅうぶんに幕末を紐解いて語れたかというと、まったくそうは思いません。幕末を語るのに11万文字8時間程度ではぜんぜん足りませんでした。これはあくまで入り口だと思っています。
特に長州の動きは複雑で、もっともっと掘り下げて、語らねばならぬと実感しました。
吉田松陰も、高杉晋作も、あらためて掘り下げて語っていく予定です。下関も、萩も、また歩いてきます。ご期待ください。
本製品は
嘉永6年(1853)のペリー来航から、慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いまで語った解説音声とテキストです。楽しみながら幕末史の流れを学ぶことができます。
なくなり次第、販売終了します。お申し込みはお早めにどうぞ。
内容一覧
01 黒船来航1
嘉永6年(1853)6月、浦賀沖にペリー艦隊が来航。開国を迫り、応じない場合は武力行使も辞さない構えをしめす。突然の黒船来航に、幕府も、庶民も大騒ぎする。しかしペリーが来航することを幕府は前もって知っていた。(約8分)
02 黒船来航2
ペリーは久里浜にてアメリカ大統領フィルモアの国書を手渡す。約20分間の式典の間、アメリカ側と日本側で交わされた会話はたった一言だった。ペリーは「来年また来る」と行って去る。日本は国の守りを固める。(約6分)
03 日米和親条約
嘉永7年(1854)3月3日、12か条からなる日米和親条約が締結された。三代家光以来の鎖国体制はここに破られ、日本は開国した。ついでロシア・イギリス・オランダとも和親条約が結ばれ、日本は否応なしに国際社会の中に放り込まれる。(約9分)
04 ハリス来日
安政3年(1856)アメリカ合衆国総領事タウンゼント・ハリスが来日し、武力行使をちらつかせつつ、通商条約の締結を求める。老中堀田正睦は修好条約の締結は避けられないと判断。しかし国政に関わることだから天皇の勅許を得ようということになる。(約11分)
05 日米修好通商条約 締結前夜
朝廷との交渉は難航した。孝明天皇は大の外国嫌い。公卿のほんども攘夷論者であった。外国との条約などとんでもない。神国日本に外国人を入れるなど、とんでもないと考えていた。同じ時期、幕府はもうひとつの問題を抱えていた。13代将軍家定の跡継ぎ問題である。(約9分)
06 井伊直弼の大老就任と、日米修好通商条約
安政5年(1858)彦根藩主・井伊直弼が大老に就任。アメリカとの通商条約に朝廷の勅許なしに調印し、一橋派をしりぞけて紀州徳川家の徳川慶福(家茂)を将軍跡継ぎに立てる。一橋派を中心に井伊直弼に対する反感が高まっていく。(約12分)
07 安政の大獄
大老井伊直弼は反対派への大規模な粛清を行う。安政の大獄である。安政5年(1858)から翌安政6年(1859)にかけて、全国で死罪・遠流・押し込めなど有罪判決者が70人あまり、謹慎・蟄居などをふくむと、のべ100人あまりが処罰された。(約15分)
08 万延元年遣米使節
安政7年(1860)正月、日本人77名からなる遣米使節がアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り、日米修好通商条約の批准書を交換するため、アメリカに向かう。またこれに先駆け、勝麟太郎を艦長格とする護衛艦咸臨丸がアメリカに向かっていた。(約12分)
09 桜田門外の変
安政7年(1860年)3月3日、大老井伊直弼が江戸城桜田門外にて反対派の水戸浪士に襲撃され、絶命する。大名行列が襲撃されるのは徳川幕府260年の歴史の中ではじめてのこと。いよいよ幕府の力の衰えたのを実感させる事件であった。(約12分)
10 和宮(かずのみや)、徳川家茂に嫁す
文久元年(1861)10月、孝明天皇の妹宮・和宮(かずのみや)の行列が京都を出発し、中山道を一路、江戸に向かった。公武合体政策の一環として、14代将軍家茂に嫁ぐためであった。しかし本人はまったく気乗りしない結婚だった。(約14分)
11 坂下門外の変
文久2年(1862)正月、老中安藤信正が江戸城坂下門外で水戸浪士を中心とした尊王攘夷志士六人に襲撃される。一命はとりとめたものの、二ヶ月後、安藤信正は罷免される。幕府がテロの恐怖に屈した結果であった。(約7分)
12 寺田屋騒動
薩摩藩急進派は幕府要人の暗殺をもくろみ、伏見寺田屋に潜伏していた。島津久光は彼らを思いとどまらせようと使者を送るが、交渉は決裂。薩摩人同士で斬り合う悲惨な事態となる。(約11分)
13 生麦事件
文久2年(1862)8月、薩摩の島津久光一行が横浜近くの生麦村で、すれ違ったイギリス人四人に斬りかかる。一人は即死。二人は重症を負った。
イギリスはこの事件の賠償金と薩摩への処分を幕府に求める。幕府は賠償金は支払ったが、薩摩への処分は決めかねていた。
イギリスは幕府と交渉してもらちがあかぬと判断。文久3年(1863)6月、キューパー提督率いるイギリス艦隊七隻が、薩摩に向かう。(約9分)
14 壬生浪士組 結成
文久3年(1863)2月、京都の壬生村に、浪士230人あまりが到着した。彼らは近く上洛予定の将軍徳川家茂の身辺警護という名目で江戸で集められた浪士組だった。
しかし発起人の清河八郎には別の意図があった。将軍警護は名目で、浪士組を尊皇攘夷のために使おうというのである。
近藤勇・芹沢鴨ら13名は清川の意図を知って、袂を分かつ。会津後松平容保(まつだいら かたもり)の預かりとなって京都の治安維持に当たる。後の新選組である。(約18分)
15 徳川家茂の上洛
文久3年(1863)3月、14代将軍徳川家茂が上洛し、孝明天皇に拝謁した。朝廷と幕府が手をむすぶ「公武合体」政策の一環であった。しかし朝廷の本心は、幕府に対して攘夷実行の期日を迫ることにあった。(約12分)
16 長州藩、攘夷を実行
文久3年(1863)5月、長州藩が馬関(下関)海峡で、アメリカ・イギリス・オランダの船を相次いで砲撃。彼らにとって念願の「攘夷」の実行だったが、すぐに手痛い反撃を喰らう。(約11分)
17 薩英戦争
文久3年(1863)6月。イギリス艦隊が鹿児島湾に移動。台風の吹き荒れる中、砲撃戦が始まる。薩摩側は善戦するが、被害も甚大であった。鹿児島の町は炎に包まれる。薩摩は力まかせの攘夷などムリと、身をもって悟る。(約11分)
18 高杉晋作、奇兵隊を結成
文久3年(1863)、長州藩では高杉晋作のもと、欧米列強への対抗手段として、身分をとわない有志による武装組織「奇兵隊」が結成される。(約11分)
19 八月十八日の政変
文久3年(1863)8月18日、公武合体派のクーデターにより三条実美はじめ尊王攘夷派の公卿たちが京都を追放される。以後、尊王攘夷派はなりをひそめ、ひそかに巻き返しをはかるようになる。(約9分)
20 池田屋事件
元治元年(1864)6月5日、新選組は長州人が御所に火をかけ、孝明天皇の御身を奪い去ろうとしているとの情報をキャッチした。すぐさま捜索を開始する。近藤勇は三条小橋西入るの「池田屋」に目星をつけ、永倉新八、沖田総司、藤堂平助を引き連れて、中に踏み込む。「今宵、旅宿あらためである」(約10分)
21 禁門の変1
元治元年(1864年)6月、福原越後率いる長州軍第一陣が京都に出発する。孝明天皇は長州追討の勅許を下す。長州軍は嵯峨・山崎・伏見の三方から京都に迫る。迎え撃つ幕府方は、会津・薩摩を中心に守りを固める。7月19日未明、伏見稲荷のあたりから砲撃の音が響く。(約8分)
22 禁門の変2
長州軍は大挙して御所に押し寄せる。御門から、あるいは土塀を乗り越えて、御所の中に入りこみ、鉄砲・大砲を撃つ。ここに長州は完全に朝敵となる。(約10分)
23 四国連合艦隊 下関砲撃事件
何度やられても攘夷をあきらめない長州藩に対し、元治元年(1864)8月5日、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ四カ国の艦隊が下関を砲撃。2日間にわたる戦闘で、長州藩の砲台はすべて沈黙させられる。長州藩は力まかせの攘夷はムリと、悟る。(約13分)
24 第一次長州征伐
禁門の変で御所に発砲した長州藩は朝敵となった。孝明天皇は幕府に長州征伐の勅命を下し、徳川慶勝(よしかつ)を総督とする征長軍が組織される。しかし西郷隆盛の交渉により、戦は避けられる。(約11分)
25 高杉晋作の挙兵
「これよりは長州男児の腕前をお目にかけましょう」元治元年(1864)12月、高杉晋作が長府城下の功山寺で決起。保守派を討伐し、政権を握る。以後、長州は挙国一致で幕府に対する徹底抗戦路線をつき進んでいく。(約13分)
26 長州「四境戦争」前夜
慶応元年(1865)幕府は二度目の長州征伐をもくろみ将軍家茂みずから出馬。この動きに対し、長州では保守派(俗論派)を処刑し藩論を「討幕」路線に統一。土佐の坂本龍馬を通して武器や軍艦を購入し、臨戦態勢を整えていく。(約11分)
27 薩長同盟
慶応2年(1866)正月、薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎の間で六箇条からなる条文が交わされた。坂本龍馬が桂に求められて裏書きをした。薩長同盟の成立である。(約7分)
28 寺田屋事件
慶応2年(1866)正月23日の夜、坂本龍馬が伏見の定宿・寺田屋で、伏見奉行所の捕り手に襲撃された。恋人おりょうの機転で、龍馬は辛くも逃げ切る。(約8分)
29 第二次長州征伐(四境戦争)
幕府の命令に従わない長州藩に対し、慶応2年(1866)6月、ついに幕府は兵を動かし、四箇所で戦いが始まる。しかし数に10倍する幕府軍は、近代兵器で武装し士気も高い長州藩に、各地で破れ、大敗北を喫する。(約11分)
30 徳川慶喜、将軍就任
慶応2年(1866)12月、徳川慶喜が15代将軍に就任する。慶喜は将軍就任早々、フランス式の軍制をとり入れ、幕政改革に乗り出す。(約14分)
31 大政奉還
慶応3年(1867)10月14日、徳川慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出。翌15日、朝廷はこれに勅許を下し、260年あまりにわたる江戸幕府の歴史に幕がおろされた。(約12分)
32 近江屋事件 坂本龍馬の最期
慶応3年(1867)11月15日、京都河原町の近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃され、命を落とした。大政奉還から、わずか1ヶ月後の出来事だった。(約12分)
33 ええじゃないかと幕末の新興宗教
幕末の動乱が激しくなるにつれて、庶民の間にある運動が起こる。「ええじゃないか」と言って踊りながら金持ちの家に乱入し、勝手に飲み食いし、金目のものをふところに入れ、踊りながら去っていく。一種の集団ヒステリーか、薩長の陰謀か、説が分かれる。
また混乱した世相のゆえか、幕末には、天理教・金光教など、今日なお続く新興宗教が生まれている。(約4分)
34 王政復古のクーデター
慶応3年(1867)12月9日、薩摩はじめ五藩が中心となって、王政復古のクーデターが起こされ、新政府が誕生した。ついで開かれた新政府初の「小御所会議」では、前将軍徳川慶喜と徳川家に対する処分が決まる。(約22分)
35 江戸薩摩藩邸焼き討ち事件
西郷隆盛は大政奉還によって戦争をおこす口実を失った。そこで今度は幕府を挑発する手に出る。
江戸に人を送り、市中で強盗や放火を繰り返させる。西郷の狙いは「幕府の側から戦争を起こさせること」であった。
無頼漢たちはついに市中取り締まりを担当する庄内藩邸に発砲。庄内藩兵たちは激怒して、薩摩藩邸を砲撃する。知らせを受けて西郷は「わが事なれり」とほくそ笑んだ。(約14分)
36 鳥羽・伏見の戦い1
慶応4年(1868)正月1日、徳川慶喜は「討薩の表」をあらわし新政府に対して事実上の宣戦布告をする。正月3日午前、鳥羽街道沿いの小枝橋付近で、新政府軍と旧幕府軍がはじめて衝突。ここに鳥羽・伏見の戦いが始まった。(約13分)
37 鳥羽・伏見の戦い2
新政府軍が「錦の御旗」を持ち出したことで、旧幕府軍は大いに士気をくじかれる。淀城を放棄し、八幡・橋本を経て大坂城まで撤退する。撤退か?徹底抗戦か?議論が揺れる中、慶喜は「自ら出馬する」と全軍を鼓舞する。その夜だった。慶喜がひそかに大坂城を抜け出したのは…(約12分)
総時間:約7.8時間
左大臣光永
左大臣光永。左大臣プロジェクト運営委員会代表。楽しく躍動感ある語りで好評をはくす。
学習院大学文学部ドイツ文学科中退。20代は漫画家を目指すも挫折。30代はじめに諦めて就職活動するも、一社目でアホらしくなってやめる。
若い頃から深夜の墓場や神社で『おくのほそ道』『平家物語』などを暗唱するのを日課としていたため「これを職業にする」と決める。
2010年よりメールマガジン「左大臣の古典・歴史の名場面」を発行。工事現場でバイトしながらメールマガジンを書き続ける。2012年までに事業化。
2017年、平安京の文化と歴史を語るため、京都に移住。現在、京都と静岡で定期的に講演中。
よくある質問
●スマートフォンで聴けますか?
聴けます。ただし、インターネットに接続する必要があります。パケット使用料が別途かかりますので、ご注意ください。インターネットに接続したくない場合、音声ファイルのみをダウンロードして聴くことも可能です。ただし文章は表示されません。また、音声ファイルをスマートフォンで聴くには、iTunesで音声データをパソコンからスマートフォンに転送する必要があります。iTunesはapple社が無料配布している音楽管理ソフトです。iTunesはアップルの公式サイトでダウンロードできます。
●CDプレイヤーで聴けますか?
聴けません。DVD版の再生にはDVDドライブつきのパソコンが、オンライン版の再生にはスマートフォンもしくはパソコンが必要です。
●時間はどれくらいですか?
約7.8時間です。
●テキストはついていますか?
PDF形式のテキストファイルが付属しています。
●本はついていますか?
本はついていません。
●支払い方法は?
銀行振込、クレジット決済、コンビニ決済をご用意しています。あるいはメルマガに直接返信してください。件名はそのままで、お名前とご住所を書いて直接返信してください。折り返し、お支払方法をお送りします。
●何日くらいで手元に届きますか?
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追伸
今回、幕末を通して語って、感じたのは、「幕末の志士」といわれる方々の、すさまじい生き様には、
「敬意」
の一言のほか、無いということです。
それは、佐幕とか倒幕とか、薩長か会津かというイデオロギーの違い、立場の違いに関係なく、自分の命を投げ捨てて、命を捨ててかかってる。
自分の命を捨てて、何かの目的につっ走る。それはすさまじいエネルギーだなと。
明治維新がいいものだったのか?悪いものだったのかは、いろいろと議論がありますし、思想上、イデオロギー的なことはいろいろあれど、
死を賭して何かに立ち向かい、そして多くは悲惨な死を遂げた、それはすさまじいことだなと。
ひたすら敬意しか無いです。
現在の、庶民に至るまで王侯貴族のような暮らしを満喫している日本からすると、想像もつかない世界だなと。
腹切るわけですよね。
切っ先を、腹に突き立てて、ぐーーっと横に引くわけでしょう。
そんなん想像しただけで私、動悸がばくばくします。
現代人の立場から、幕末のあの人物が、どうだ、こうだ、やり方がまずかった、もうちょっとこうやれたとか、言うことではないと思います。ひたすら敬意を感じるほかは無いです。
そういった評価というのは、学問的には必要なことなんでしょうけども、心情としては、敬意を抱くほか、何一つ無いと思いました。
それは佐幕であれ倒幕であれ、薩長であれ会津であれ、立場の違いイデオロギーの違いに関係なく、命がけで何かをやった人たちへの敬意です。
そしてこういう、すさまじい生き方をした、命がけの方々の行いが積み重なって、今の日本があるのだと、あらためて考えさせられました。
歴史は語り伝えていかなければなあと思いました。
本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。