苦しい時代を、いかに生きるべきか?~『方丈記』全文朗読 無料配布

こんにちは。左大臣光永です。

北野天満宮に参拝してきました。10月1日からずいき祭りが始まるので、大きくポスターが貼り出してありました。今年は水不足で祭りに使う「ずいき」の成長が遅れているそうで、心配です。

修学旅行生もちらほら見られました。三光門の前で、バスガイドさんに集合写真を撮ってもらってて、ほほえましかったです。もう夕方でしたので、中門の銅葺き屋根の上に、松の梢が大きく長く影を落としていて、いい感じでした。

さて本日は、鴨長明『方丈記』の全文朗読を、無料配布いたします。リンク先から三日間限定で、無料でダウンロードしていただけます(2023/9/8 19:00まで)。

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ゆく河の流れは絶ずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。

リズムのよい文章

『方丈記』は災害文学だとか、無常の文学だとか言われますが、そういうテーマ性を抜きにしても、単純に文章が気持ちよく、見事なリズムがあります。

作者鴨長明は音楽の名手でもありました。中原有安という当時一流の先生について琵琶を学びました。そういう音楽的な感性が、文章の上にも生きています。

声に出してとても気持ちがいい文章です。

私は鴨川の土手を歩くときは、必ず声を出して『方丈記』冒頭をとなえます。

糺の森のやや南から鴨川の土手を歩いていき、迫りくる糺の森を見ながら、方丈記の文句をぶつぶつ唱えるのが、気分高まります!

人はいかに生きるべきか?

ただし、方丈記はただ言葉が美しくてリズムがいいだけの作品ではありません。それだけでは800年間も読み継がれてはいないでしょう。今日に通じる、普遍的なテーマをもっています。

世にしたがへば身くるし。したがはねば狂せるに似たり。

いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。

方丈記の主題は、このぶぶんに要約されています。

どうにもうまくいかない、この苦しい現世において、人はどこに居場所を定め、どこに心の拠り所を置くべきだろうと。

これは、仏教の主題そのものです。現世を辛く苦しいものととらえ、いかにして苦しみの輪から解脱するか、というのが仏教のテーマですから。

実際、『方丈記』の構成は『法華経』のそれにとてもよく似ています。

平安京を襲ったすさまじい大火事の描写も、人は家の中で安穏と暮らしているが、そのすぐ外には炎がせまっている、一刻もぐずぐずしてはいれないのだという、『法華経』にいう「火宅の人」のたとえに通じるものがあります。

いや、仏教ばかりに限りません。すべて宗教や思想というものは、

「人はいかに生きるべきか」

を真剣に追及するものです。その意味で、『方丈記』は単に平安時代末期という特殊な一時代を扱った文学作品ではなく、時代を超えて通用する、宗教書、哲学書の域に達していると思います。

「人はいかに生きるべきか」

その問に対して、鴨長明がひとつこころみたことが、俗世間を逃れて山奥で一人住まいすることでした。

京都郊外、日野山の奥に、方丈(3メートル四方)の庵を結び、琵琶をかきならしたり子供と遊んだりという自由きままな隠遁生活の中、『方丈記』は書かれました。

春は藤波を見る。紫雲のごとくして西方ににほふ。夏は郭公を聞く。語らふごとに死出の山路を契る。秋はひぐらしの声耳に満てり。うつせみの世をかなしむほど聞ゆ。冬は雪をあはれぶ。積り消ゆるさま、罪障にたとへつべし。

しかし、俗世間への未練を捨ててサッパリしたかというと全くそうではなく、仏道修行そっちのけで和歌や音楽に没頭したり、たまに都に出ると自分のみすぼらしい服装を恥じたり…。

悟ったようで悟りきれない。

聖人君子を気取りつつも、けして聖人君子にはなれない。物事に執着するなと言いつつも、自分自身の生涯にも、暮らしにも執着しまくっている、未練タラタラの自分を見出すのです。

どこまで行っても中途半端な男の姿。

長明のこの中途半端さは実に人間くさく、800年たった現在でも多くの人の共感を得ています。

いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。

先行き不透明なこの時代だからこそ、『方丈記』を読み直し、800年前の未曾有の大混乱の時代を、作者鴨長明がどう考え、どう生きたか。しばし耳を傾けてみるのは、いかがでしょうか?

『方丈記』の全文朗読は、リンク先から無料でダウンロードしていただけます。

無料配布は終了しました。たくさんのダウンロード、ありがとうございました。