江戸城跡を歩く(一) 北の丸公園
本日から三日間に渡り、江戸城跡を歩きます。
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一言で江戸城跡といってもきわて広大です。大きく5つのエリアに分かれています。
本丸・ニの丸・三の丸の一部は現在「皇居東御苑」となり、
西の丸下は現在「皇居外苑」となり、
御三卿の田安・一橋・清水家の屋敷のあった北の丸は現在「北の丸公園」になっています。
江戸城跡(皇居)
西の丸の跡地は現在、皇居西の丸となり、
吹上跡地は現在、吹上御苑となっています。この吹上御苑内に現在の御所があり、天皇皇后両陛下がお住まいになっています。
皇居西の丸と吹上御苑を見学するには事前申し込みが必要です。
これら五つのエリアのうち本日は、北の丸跡である「北の丸公園」を歩きます。
北の丸公園
竹橋~紀伊国坂
営団地下鉄東西線・竹橋(たけばし)下車。毎日新聞社のビルに万国旗が掲げてあって、華やかでした(トランプ大統領来日のためと思います)。
すでに城郭らしい石垣が見えていて、ワクワクします。
現在の「竹橋」を渡り、
国立近代美術館・国立公文書館を右に見ながら、紀伊国坂(きのくにざか)を西へ進んでいくと、
右に見えてきました。北の丸公園へ続く「北の丸出口」が。
こちらは出口で、本来は九段下側の田安門(たやすもん)が入口になります。今回は出口から入口に逆に進んでみます。
北の丸出口~吉田茂像
イチョウ並木が見事!→と思ったら、これはサクラの黄葉でした。
公園中央の道を進んで行きます。右にまず科学技術館が見え、
遊歩道が整えられた広場があり、広場に吉田茂像が立っています。
このあたりから武道館にかけて、御三卿の一つ・清水家の屋敷が建っていました。
御三卿とは
八代将軍徳川吉宗の子や孫の代から別れた3つの家…田安家・一橋家・清水家を御三卿(ごさんきょう)といいます。吉宗の2男宗武(むねたけ)が田安家を、四男宗尹(むねただ)が一橋家を、吉宗の長男で九代将軍となった家重の2男重好(しげよし)が清水家をそれぞれ起こしました。
御三卿
これら田安家・一橋家・清水家は御三家に継ぐ格式とされ、10万石のまかない料を与えられ、江戸城のそれぞれの名を冠した門内に屋敷を与えられました。11代将軍家斉、15代将軍慶喜は一橋家から出ました。
田安門・清水門はここ北の丸公園にありますが、一橋門は北の丸公園東・首都高の下に石垣跡が残るのみです。
清水門
吉田茂像の先の階段を下っていくと、やがて清水門に出ます。
内側の櫓門、外側の高麗門。L字型に二枚の門が配置された、江戸時代の枡形門の形が観察できます。
櫓門の上のほうは昭和に入ってから修復されたものです。
だけど門はそのままの状態で残っているというてことです。こうやって見ると江戸城はすっかり無くなったと思っていたけども、割と面影は残ってるもんですね。嬉しくなってきます。よくこれ空襲で焼けなかったなと感心します。
ここを、御三卿の家臣たちが忙しく出入りしていたかと思うと、わくわくしてきます。
石段にも見事な風格が漂っています。
日本武道館
ふたたび公園中央の道に立ち返り北にめがけて進んでいくと、右手に見えてきたのが日本武道館です。
昭和39年(1964)東京オリンピックに際して柔道場として建てられました。
法隆寺夢殿を模して建てられました。
法隆寺夢殿
15000人を収容できます。数々の競技やコンサートの会場になっていることは周知の通りです。この日は剣舞の大会をやっていました。
この日本武道館から中央公園にかけての一帯が、御三卿の一つ、田安家の屋敷跡です。田安家は徳川吉宗の2男、田安宗武から始まる家系です。田安宗武は賀茂真淵に国学を学び、和歌もよくする人物でした。
御三卿
田安門
日本武道館からさらに少し北に進むと、江戸城の最北端・田安門に出ます。
田安門から出て堀を渡ると、靖国神社の大鳥居の前です。今回は元来た道を引き返します。
近衛歩兵第一聯隊跡・近衛歩兵第二聯隊記念碑
途中、日本武道館前駐車場の脇の細い遊歩道に入ります。
道すがら近衛歩兵第一聯隊跡・近衛歩兵第二聯隊記念碑が立っています。
近衛歩兵第一聯隊・第二聯隊は明治7年(1874)日本陸軍最初の最初の歩兵聯隊として創設され、大東亜戦争の終結まで、皇居守護・帝都防衛に当たりました。
大正天皇・昭和天皇も皇太子時代に10年間軍務につかれました。
全国近歩一会(ぜんこくきんぼいちかい)による近衛連隊の思い出をつづった文章が碑として立てられています。
田安門、渡櫓(わたりやぐら)門をくぐり、弾薬庫の名残を留むる大銀杏を仰ぎつつ、ここ聯隊跡記念碑前に佇めば、雄叫びの聲、軍靴の響き耳底を打ち、往年の光栄の日々眼前に彷彿たり。
此所は、北トンネルの出口(營庭(えいてい))に当たる所、そぞろ怡和園(いわえん)の樹間を縫いて千鳥ヶ淵湖畔を逍遥し、赤煉瓦も懐かしき師団司令部に到れば、その傍らに、皇居の守護神
北白川宮能仁(よしひさ)親王殿下の御銅像の儼然(げんぜん)として屹立するを見る。時計台は何処(いずこ)、アーク灯は奈辺(なへん)にありしや。思い出は津々として尽くるところを知らず。
年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからずとは雖も、選ばれて近衛兵となり、輦下(れんか)に奉仕せる吾等、たとい魂魄となりても永久に皇居を守護し奉らん。
北の丸公園 全国近歩一会による碑文より
中央公園
遊歩道を抜けるとパッと空間が開けて、中央公園に出ます。
紅葉した木々が池に映り込み、見事な景色をなしていました。子供連れが遊び戯れ、平和な日曜日のひとときでした。
千鳥ヶ淵
しばらく山道を歩くと、
千鳥ヶ淵を見下ろす石垣の上に出ます。
千鳥ヶ淵は日比谷入江に流れ込んでいた川を、半蔵門と田安門の土塁でせき止めた濠です。南の半蔵門の土塁で句切られ、北の田安門の土塁の水の落とし口から水を牛ヶ淵に流して水位の調整をはかりました。
桜の名所として有名です。爆風スランプの歌でも有名ですね。地下鉄東西線の九段下駅では、あのメロディーが発着音になってます。
北白川宮能久親王銅像
それでは中央公園裏山を下り、代官町出口から北の丸公園を出ます。出口の所にたたずむのが、さきほどの聯隊の話に出てきた、北白川宮能仁(よしひさ)親王殿下の御銅像です。
北白川宮能仁(よしひさ)親王。幕末・明治にかけて活躍した皇族。陸軍軍人。弘化4年(1847)伏見宮邦家(ふしみのみや くにいえ)親王の第九皇子としてご誕生。
輪王寺宮公現法親王(りんのうじのみや こうげんほっしんのう)として日光輪王寺の門跡を務め、また上野寛永寺の門跡を務めました。門跡とは皇族出身の住職のことです。
慶応4年(1868)上野戦争の時は彰義隊が旗印として担ぎ出し、「東武天皇」「東武皇帝」として即位させる動きもあったと言われています。
その後、明治3年に還俗して伏見宮に御復帰され、プロシヤ留学を経て軍務につき、陸軍少将、陸軍中将となり、近衛師団長に任じられます。明治28年(1895)台湾出征中に疫病にかかり薨去遊ばされました。
さっそうとした馬上の姿が、ありし日の面影を雄弁に語っています。もしこのお方が彰義隊に担ぎ出されていたら、京都の朝廷と東京・日光の朝廷に分かれて争う、南北朝時代の再現になっていたかもしれません。
東京国立近代美術館工芸館
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