甲府に武田信玄の史跡を訪ねる(一)

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こんにちは。左大臣光永です。
梅の香に気分躍るこの時期、いかがお過ごしでしょうか?
私は先日、甲府に武田信玄の取材に行ってきました。
武田神社や信玄の墓、
父信虎の墓、甲斐善光寺などをまわってきましたので、
本日は音声に加え写真つきでレポートします。

▼音声が再生されます▼

甲府駅

まず甲府駅南口で降りると、巨大な武田信玄像が
迎えてくれます。予想以上に大きかったです。
迫力です。

甲府駅南口
甲府駅南口

甲府駅南口 武田信玄像
甲府駅南口 武田信玄像

甲府駅南口 武田信玄像
甲府駅南口 武田信玄像

甲府駅南口 武田信玄像
甲府駅南口 武田信玄像

深夜2時にホテルを抜け出して夜の信玄像も
観察したのですが、なかなか夜も迫力がありました。

頭にかぶっているのは諏訪法性の兜です。
信玄は諏訪大社を信仰し、戦いの前は必ず戦勝祈願をしました。
諏訪大社に祭られているのはタケミナカタノカミです。

『古事記』によるとタケミナカタノカミは
高天原から遣わされたタケミカヅチノカミとの勝負に敗れ
諏訪湖のあたりに追い込められたとなっています。

敗れたとはいえ、天つ神たるタケミカヅチに勇猛果敢に
勝負を挑んだということで、タケミナカタノカミは
諏訪の地で戦神として信仰を集めることとなります。

信玄もその武勇にあやかろうと、
諏訪大社を信仰したんでしょう。

ついで北口にまわります。

甲府駅北口
甲府駅北口

広々としています。見晴がいいです。
天気がよく気分がよかったです。

ここで諏訪神社行きのバスを待つのですが、
1時間に1本というノンビリぶりです。

約50分、暗記をやりながら、じっくり待ちました。
私は旅先には必ず暗記用の原稿を持っていき、
待ち時間やホテルで暗記をするのを旅の楽しみとしています。

すると、普段と違う、印象深い景色の中にいますから、
暗記しているものの内容と、その場所の景色が入り混じり、
よりキョウレツな記憶となって脳に刻まれるのです。

だから、旅先で暗記をするのは、とてもおすすめです。

甲府駅北口から北にまっすぐ武田通が走ります。

武田通
武田通

甲府 バス
甲府 バス

武田通りはゆるやかな勾配で武田神社までつながっています。
この武田神社が、武田信玄の館「躑躅ヶ崎館」の跡に
建てられた神社です。

バス
躑躅ヶ崎館

武田神社
武田神社

躑躅ヶ崎館は信玄の父・信虎が1519年(永正16年)築きました。

躑躅ケ崎館の南側には城下町が開け、
勝頼の代まで使われました。

長方形のエリアに、館としての機能がすべて
おさまっています。

武田信玄が産まれたのは躑躅ヶ崎館ができた二年後の
1521年(大永元年)のこと。
躑躅ケ崎館背後の要害山で生まれました。

大正天皇即位に際し、武田信玄に従三位の位が
贈られたことに伴い、大正8年(1919年)に
武田信玄をまつって躑躅ケ崎館跡に建立されたのが
武田神社です。

朱塗りの太鼓橋をわたって、石段の登って
鳥居をぐぐると、すーーっと正面に、社殿が見渡せます。

武田神社
武田神社

武田神社
武田神社

社殿に向かって左手には能舞台があり、
練習をしている方がありました。

武田神社 能舞台
武田神社 能舞台

ここで夜中、かがり火をたいて能をやるのは
雰囲気ありそうですね。

境内は工事中で、あちこちにシートがかぶせてありましたが、
人が多く活気がありました。

神社のエリアよりも、ちょっと横道にそれた、
何でもない茂みや、堀のあたりに
躑躅ケ崎館時代の面影がただよっている気がしました。

武田神社
武田神社

武田神社
武田神社

梅翁曲輪跡

武田信玄のもとには俗に「武田二十四将」といわれるように、
豊かな人材が集いました。

現在、躑躅ヶ崎館跡の武田神社の南一帯は
住宅街になっていますが、このエリアにかつて、
武田信玄の家臣たちの館が立ち並んでいました。

どこに、誰の館があったかはほぼ判明しているようで、
あちこちに案内板が立っています。

武田神社周辺 案内板
武田神社周辺 案内板

武田神社周辺 案内板
武田神社周辺 案内板

こういう配慮は、嬉しいですね。

「おお…ここが板垣駿河守信方の館か」

などと感慨にふけりながら
歩いていると、見えてくるのが、

梅翁曲輪(ばいおうくるわ)跡です。

梅翁曲輪跡
梅翁曲輪跡

躑躅ヶ崎館とちょっと離れた南側にあるのですが、
武田家滅亡後に増築された「梅翁曲輪」の跡地で、
現在、堀と土塁が残っており、まわりを歩くことができます。

まあ、単なる汚いドブなんですが…
そういった所以をふまえて歩くと、それなりに味わいがあるような。

ついで少し武田通りを甲府方面に下り、左に道を折れ、
武田信玄の墓まで歩きます。

武田信玄の墓へ
武田信玄の墓へ

道すがら、歩道の真ん中に街路樹が
堂々と妨害しているのが力強かったです。

これ、まったく人間を通すつもりないだろっていう…

武田信玄の墓へ
武田信玄の墓へ

歩いていると、甲府「盆地」ということを
しみじみ実感しました。

どちらを見ても、山。山。山。

しかも、西のほうに見える山にはまだ雪が残っているのに、
南のほうに見える山は黒々として雪が溶けているのが
面白かったです。

景色は変わっても、この山の姿だけは
信玄の時代とそう変わらない。

武田信虎、信玄父子もこの山を見ていたかなあと
考えるとテンションが上がります。

で、歩いているとやたら顔に何かぶつかるんですよ。
何だと思ったら白いちっこいのがわあーーっと
前から吹き付けてくるんです。
手で受け止めたら、雪でした。

空はすごく晴れ渡っているのに、山のほうから
雪が吹きおろしてくるんですね。あれ、何か現象名が
ついているんでしょうか。はじめての経験で新鮮でした。

少し奥まった所に武田信玄の墓がありました。
「法性院大僧正機山信玄之墓」の文字。住宅街の真ん中に、ごく目立たない感じで
立っています。日本酒「七賢」がお供えしてありました。

武田信玄の墓
武田信玄の墓

武田信玄の墓
武田信玄の墓

甲府はどこへ行っても、いたる所に見るのですが、
武田の紋である四つ割菱(よつわりびし)が、いい感じです。

ベンチなども、四つ割菱の形を模しています。

四つ割菱
四つ割菱

見ていて、気合が入ります。

しっかりと手を合わせてきました。
住宅街でなかったらここで大声で「川中島」を
うなりたいところですが、その気持ちをグッと
こらえました。

甲府城のこと

「人は城、人は石垣、人は堀」

というように、信玄は人材の登用に熱心であり、
城や石垣よりも人こそを第一と考えていました。
そのため、生涯城を築きませんでした。

よく誤解されますが、甲府城は
武田信玄が築いたものではないです。
武田家滅亡後に甲斐は織田信長の領地となり、
本能寺の変以後は徳川家康の領地となりました。

その後、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると
秀吉の命により甥の羽柴秀勝によって甲府城の築城が始められ、
浅野長政・幸長父子によって完成したのが甲府城です。

現在、甲府駅の駅前から復元された
甲府城(舞鶴城公園)が見えます。

舞鶴城公園
舞鶴城公園

舞鶴城公園
舞鶴城公園

「武田信玄は人は石垣人は堀といって、
生涯城を作らなかったというけれど、あれはウソなんですね。
こんな立派な城を築いていたんじゃないですか」

そう誤解する方もあるそうですが、それは誤解です。

甲府城は武田信玄が築いたのではなく、
武田家滅亡後に築かれたものです。

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