北条政子の演説 『吾妻鏡』と『承久記』比較

こんにちは。左大臣光永です。

次回から7回にわたって「一休宗純の生涯」をお届けます。アニメ「一休さん」を、子供の頃、ご覧になった方も多いと思います。あの作品は子供の頃の、トンチ坊主としての一休にスポットを当てていました。しかし一休はトンチだけではありません。

ひたすらに禅の道を追求する、求道者としての一休。肉・魚を喰らい、酒を飲み、女郎屋に通う、破戒僧としての一休。歌人・詩人としての一休。一休にはさまざまな顔があり、切り口があり、興味がつきません。

「一休宗純の生涯」全7回にわたってお届けします。お楽しみに!

本日は、「北条政子の演説」について語ります。

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承久3年(1221)5月、後鳥羽上皇は鎌倉幕府の壊滅をめざし、京都南方・城南宮において、執権北条義時追討の院宣を下しました。このことはすぐに鎌倉方に伝えられました。

北条義時、北条政子以下、幕府首脳部は軍議を開き、軍団編成を整え、上皇軍と戦う基本方針が決まりました。

しかし配下の御家人たちは動揺していました。えっ、上皇さまと戦うのか!俺たち、朝敵になっちまうのかと。そこで、北条政子が皆を前に、お前たちききなさい。これが私の最後の言葉ですと、切々と説いたことにより、皆の心はふるい立ち、一つとなったという、

有名な北条政子の大演説。『吾妻鏡』と『承久記』でかなり内容が違っています。両方読みます。

二品(にほん)、家人等(けにんら)を簾下(れんか)に招き、秋田城介景盛(あきたのじょうすけかげもり)を以て示し含めて曰く、皆心を一にして奉(たてまつ)るべし。是(こ)れ最期の詞(ことば)なり。故右大将軍(こうだいしょうぐん)朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩 既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝(ほうしゃ)の志浅からんや。而(しか)るに今逆臣の讒(ざん)に依りて、非義の綸旨(りんじ)を下さる。名を惜しむの族(やから)は、早く秀康(ひでやす)・胤義(たねよし)等を討ち取り、三代将軍の遺跡(ゆいせき)を全うすべし。但(ただ)し院中(いんちゅう)に参らんと欲する者は、只今申し切る可(べ)し者(てえ)り。群参(ぐんさん)の士(し)悉(ことごと)く命に応じ、且(か)つは涙に溺(おぼ)れ申す返報 委(つまびら)かならず。只命を軽んじて恩に酬いんことを思ふ

『吾妻鏡』承久三年(1221)五月十八日辛丑

現代語訳
従二位の北条政子は、家人たちを簾の下に招き、安達景盛に示し含めて言うことに、「皆心を一つにしてお聞きなさい。これが私の最後の言葉である。

故右大将軍(源頼朝公)が朝敵(平家)を征伐し、関東(鎌倉幕府)を草創してから、官位といい、俸禄といい、その恩はすでに山よりも高く海よりらも深いのだ。

恩に報いようという志が浅くはありませんか。

しかるに今回、逆臣の讒言によって、道義に反した綸旨(天子の命令)が下された。名を惜しむ者は、早く藤原秀康・三浦胤義(上皇方の首謀者)らを討ち取り、三代将軍の眠る、この鎌倉の地を守りなさい。

ただし院方に参ろうとする者は、ただ今申し出るとよい」

たくさん集まっていた武士たちは、ことごとく命に応じ、かつ涙に溺れ、申し上げる返事もはっきりと言葉にならない。ただ命を軽んじて恩に報いんことを思うのだった。

■二品 従二位の政子のこと。 ■秋田城介景盛 安達景盛。 ■故右大将軍 頼朝。

以下は、『承久記』の書き下し文です。『吾妻鏡』とはだいぶ言葉が違います。

二位殿 仰せられけるは、「殿原(とのばら)、聞きたまへ。尼、加様(かよう)に若(わかき)より物思ふ者候(そーら)はじ。一番には姫御前(ひめごぜん)に後(おく)れまいらせ、二番には大将殿に後れ奉り、其後(そののち)、又打ちつづき左衛門督殿(さえもんのかみどの)に後れ申(もーし)、又程無く右大臣殿に後れ奉る。四度(しど)の思(おもい)は已(すで)に過ぎたり。今度、権太夫(ごんのだいぶ)打たれなば、五(いつ)の思(おもい)に成ぬべし。女人五障(にょにんごしょう)とは、是(これ)を申すべきやらん。殿原(とのばら)は、都に召上げられて、内裏大番(だいりおおばん)をつとめ、降(ふる)にも照(てる)にも大庭に鋪皮布(しきがわしき)、三年(みとせ)が間、住所(すむところ)を思遣(おもいやり)、妻子を恋(こいし)と思ひて有しをば、我子の大臣殿(おとどどの)こそ、一々、次第に申止(もーしとどめ)てましましし。去(さら)ば、殿原は京方に付(つき)、鎌倉を責給ふ(せめたもー)、大将殿、大臣殿(おとどどの)二所の御墓所を馬の蹄(ひづめ)にけさせ玉ふ者ならば、御恩(ごおん)蒙(こーぶり)てまします殿原、弓矢の冥加とはましましなんや。かく申(もーす)尼などが深山(みやま)に遁世して、流さん涙をば、不便(ひぶん)と思食(おぼしめ)すまじきか。殿原。尼は若(わかく)より物をきぶく申(もーす)者にて候(そうろう)ぞ。京方に付て鎌倉を責(せめ)ん共、鎌倉方に付て京方を責んとも、有のままに仰せられよ、殿原」とこそ、宣玉ひけれ。

『承久記』より

現代語訳
従二位の北条政子が仰せられることに、「お前たち、聞きなさい。私は、これほど、若いころから物思いの絶えない者はございません。

一番には姫御前(=長女大姫)に死に遅れ、二番には大将殿(=夫源頼朝)に死に遅れ、その後、また続いて左衛門督殿(=長男・二代将軍頼家)に死に遅れ、またほどなく右大臣殿(=次男・三代将軍実朝)に死に遅れました。

四度も辛い思に、私はもういっぱいです。

今度、権大納言(北条義時)が打たれれば、五度の辛い思いをすることになる。「女人五障」ということが『法華経』にあるが、これを言うのであろう。

お前たちは、都に召し上げられて、内裏大番(宮中の警護役)をつとめ、雨が降っても日が照っても、清涼殿の前庭にしき皮をしいて、三年の間、故郷を思いやり、妻子を恋しく思っていたのを、

我が子である大臣殿(三代将軍実朝)が、ひとつひとつ、じょじょに、おつとめが免除されるようにしてくださった。

であれば、お前たちが京方について鎌倉をお攻めになることは、大将殿(頼朝)、大臣殿(実朝)二人の御墓所を馬の蹄に蹴らせなさるものであるので、

御恩を受けていらっしゃるお前たち、武士の道において神仏の加護がありましょうか(あるわけがない)。

かく申す私などが深山に隠棲して、流す涙を、不憫とはお思いにならぬのか。

お前たち、私は若い頃から物の言い方がきつい者でありますぞ。京方について鎌倉を攻めるのも、鎌倉方について京方を攻めるのも、思うままに仰せられよ、お前たち」とおっしゃった。

■姫御前 大姫。頼朝・政子の長女。 ■大将殿 頼朝。 ■左衛門督殿 二代将軍頼家。頼朝・政子の長男。 ■右大臣殿 三代将軍源実朝。頼朝・政子の次男。 ■女人五障 『法華経』堤婆達多品による。女人は梵天王・帝釈・魔王・転輪聖王・仏身になれないこと。■大庭 清涼殿の前庭。 ■きぶく きつい調子で。

………

というわけで、『吾妻鏡』と『承久記』から、北条政子の演説ぶぶんを、読みました。だいぶ内容が違いますね。

『吾妻鏡』は鎌倉幕府の公式な記録書であり、『承久記』は軍記物・お話ですので、やはり『吾妻鏡』のほうが、実際の北条政子の演説に近いものを伝えていると思われます。

『承久記』は、作者が北条政子に共感して、政子の内面をより深く掘り下げている感じです。そのぶん『承久記』のほうがドラマチックで、具体的なんですが、実際の演説は、『吾妻鏡』のほうが近かったろうと、思われます。

しかしどちらも、とても気合が入る内容で、たしかにこういうふうに言われたら、鎌倉武士はふるい立って、「やるぞ!」となったろうなと思います。

『吾妻鏡』における北条政子の演説、『承久記』における北条政子の演説、

あなたはどちららがお好きでしょうか?

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