歴史とは何か?

こんにちは。左大臣光永です。

11月22日、京都では時代祭が行われる日です。しかし今年は新型コロナのため行列は中止です。平安神宮で祭礼だけ行われるそうです。

この時期は京都駅の大階段に、巴御前だの楠木正成だのイルミネーションが灯って楽しいんですが、それもないようで…

祭のない京都はとても静かです。

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本日は、「歴史とは何か?」ということをお話しします。

歴史とは、何でしょうか?

考えたことがございますでしょうか?

え?歴史は歴史じゃないの?

織田信長とか西郷隆盛が出てくる話だよね。

という方もあるかと思いますが…

よく歴史の流れを大河にたとえますよね。

大河ドラマなんていうくらいですから。

どうも私たちの抱くイメージとして、

古代から中世、近世、現在へと、ゆったりと流れて行く時の流れがあって、

その、時の流れの中に、歴史上の人物も、出来事も、庶民の暮らしも、さまざまな喜怒哀楽も、

組み込まれている…

と、そのようにイメージしがちなんですが、

実際には、そんな古代から現在未来へゆったり流れる【時の流れ】なんてものは、

存在しません。

人間がイメージの中で、作っているだけです。

歴史とは記録された(書かれた)もの

歴史とは、

「誰かが、ある時点で、

記録した(書いた)ものが、

歴史として積み重なっていく」わけです。

そらそうですよ。

織田信長がどんなに活躍したからといって、

家臣の太田牛一が『信長公記』という書物をあらわさなかったら、

信長の活動はあまり残っていなかったでしょう。

徳川幕府がどんなにすぐれた社会システムを持っていたからといって、

『徳川実紀』という公式記録が残っていなければ、あまり伝わっていないでしょう。

E.H.カーの『歴史とは何か?』という、ズバリの題名の本があります。この分野で必読の古典です。

その中におもしろいことが書いてあります。

いわゆる「ルビコン河を渡る」ということについて。

カエサルが、ルビコン川を渡って、ガリアからイタリアに入った。ルビコン川を渡って、イタリアに入ることは死罪にあたることだったけれども、カエサルはあえて、それをやった。「賽は投げられた」といって。そして宿敵ポンペイウスを打ち破って、ローマを掌握した。

ここから、二度と引き返せない大勝負に出ることを「ルビコン河を渡る(cross the Rubicon)」といいます。

けれども、

カエサルがルビコン河を渡る前も、後も、何千、何万という無数の人々が、ルビコン河を渡ってるんですよ。

カエサルがルビコン河を渡ったことが特別なことであるとして歴史家が記述したために、「ルビコン河を渡る」ということが、言われるようになったのだと。

なるほどなと、私思ったんですよ。

天正3年(1575)5月21日、織田信長が長篠設楽が原(ながしの したらがはら)の合戦で、武田勝頼軍を破った。

どの教科書にも載っています。日本史ではかならず出てくる話です。

しかしですね…

三河国長篠設楽が原というところで、信長軍が鉄砲をパンパン撃った。

その日、東北地方ではなにがあってたのか?

九州ではどうだったか?

フランスでは、スペインでは…と考えると、

日本の三河国の片田舎で、パンパン鉄砲を撃ったなんてのは、

きわめて限られた、ローカル中にもローカルな出来事にすぎないわけですね。

しかし、歴史家がそれを記述して書き残したことによって、

歴史となって、残っていったわけです。

このように歴史とは、「大河の流れ」のように自然に伝わっていくものではなく、

ある時点で、誰かが記録した(書いた)ことによって、残っていくということです。

中立公平な歴史書は、ない

もう一つ、

「中立公平な歴史書は、ない」

ということを言いたいです。

歴史書は中立でないと、よく言われますね。

『日本書紀』は藤原不比等の手が入っており、藤原氏にとって都合がいいように書かれている、

『吾妻鑑』は北条氏に都合がいいように、『徳川実紀』は徳川氏にとって都合がいいように書いてあると。

(実際に読むとそうとばかりは思えない記述も多いですが…)

司馬遼太郎氏の歴史小説は…あくまでも「小説」であって、歴史書ではありません。

小説だから厳密である必要はないし、嘘をまぜてもいいんです。むしろ史実をベースにいかに嘘をまぜるかが、小説の面白いところです。それを前提とした上で言いますが、

司馬遼太郎氏の歴史小説は、きわめて偏った価値観に沿って書かれています。

それは、

「明治の日本はすべてが素晴らしく、日露戦争以後、すべてがダメになった」

という価値観です。なので司馬遼太郎氏は幕末から明治にかけての志士たちの活躍を華々しく描く一方、日露戦争より先の日本について何も書きませんでした。絶望していたからです。

(本人が生前、インタビューに答えてそのような内容をおっしゃっています)

しかしそんな、ある時代がぜんぶよくて、次の時代がぜんぶ悪いなんて、実際の歴史がそんな単純であるわけがありません。どの時代もほどほどにいいところもあれば、ほどほどにダメなところもあったでしょう。

明治がすべてよく、日露戦争以後はぜんぶダメなんていうのは司馬遼太郎氏の頭の中にのみあった、単なる空想です。

司馬遼太郎氏の例は極端としても、書いた人によって、必ず偏りは出てくるものです。

朝日新聞は左に吹っ切れており、産経新聞は右寄りというようなもんです。

必ず、偏ってます。

「偏ってるのはイヤだなあ」

「中立な立場から、公平に書かれた歴史はないのか?」

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ないです!

文章は、書く人の置かれた立場によって、かならず偏りが出てきます。

それは別に歴史家が、「しめしめ、後世の人を騙してやろう。こっちのいいように宣伝してやろう」と、悪だくみをしていることではありません(中にはそういう場合もあるでしょうが)。

タキトゥスの『年代記』は、ローマ帝国二代皇帝ティベリウスから、五代皇帝ネロまでの歴史をつづった歴史書です。

冒頭にこう書いています。

ティベリウスやガイウス・カリグラ、そしてクラウデイウスやネロの歴史は、これらの元首の生存中は、恐怖心から曲筆され、彼らの死後は、記憶に生々しい憎悪から、編纂された。

そこで私としては…(中略)…ティベリウスの支配とそれ以後の歴史を、怨恨も党派心もなく、述べてみたい。私にはそういった感情を抱く動機は、全くないのだから。

タキトゥス『年代記』国原吉之助訳

このように、歴史を記述するほどの筆者は、捏造や偏りなど、とんでもない。なるべく公平な立場で書くべきだという正義の心で書いていることがほとんどだと思います。

司馬遷にしろ、ヘロドトスにせよ、『日本書紀』を書いた舎人親王のグループにせよ。

朝日新聞のように、

従軍慰安婦の強制連行だの、南京大虐殺30万人だの、はじめから悪意をもって、嘘とデタラメをまき散らす、朝日新聞みたいなのは、めずらしい例だと思います(めずらしい例だと信じたいです)。

それでも、偏りは、必ず、出てきます。

人間は完全に公平な視点というのはありえません.

社会のどこかの階層に身を置いて、その立場から物を書くわけですから。

そもそも文字にあらわしている段階で、「なにを書いてなにを書かないか」という選択をし、一つの言葉を選択しているわけですよ。

さきほどの長篠の合戦でいうと、

武田方の視点で書かれた『甲陽軍鑑』と、

織田方の視点で書かれた『信長公記』と、

ぜんぜん違うことが書いてあります。

これ、どっちが正しいんだ?

本当に同じ事件を書いてあるのかと、

ビックリします。

近代以降なら資料や証言が多く残っていますから比較検討もできるでしょう。しかし、

時代が古くなるほど、資料も限られてきます。真実は闇の中、ということになります。

大切なのは、

歴史とは書かれたものである。である以上、必ず偏りがある。

公平中立な歴史書などというものは、無い。

そういう前提で、読むべきだ、ということです。

疑いをもって、読むべきなんです。

天武天皇の出生年が『日本書紀』には書かれていません。

だから天武天皇は天智天皇の弟ではなくて、実は兄ではなかったのか?もっと言うと本当に血はつながっていたのか?

ということが昔からよく言われます。

たしかに『日本書紀』には、なぜか天武天皇の出生年が書いてないんですよね。

あやしいと言えばあやしいんですが、

それを検証する資料が、『日本書紀』くらいしか無いし、

どんなにエラい大学の先生でも、知識のある学者でも、

最終的には「私はこう思います」しか言えないんですよ。

今後よほどの大発見があって、真実を書いた木簡が発見されたりすれば別ですが。

真実は永遠に闇の中でしょう。

大切なのは、うのみにしないということです。

『日本書紀』に書かれてあるから天武は天智の弟なんだ。

歴史書に書いてあるから、事実なんだ、教科書に書いてあるから事実なんだ、ということではなく、

「本当にそうなのかな?」

歴史とは書かれたものであり、かならずそこに偏りがある、という前提で、

疑い続け、考え続けることだと思います。

(個人的には天武は通説通り、天智の弟だと思ってます)

「なぜ?」を問い続けること

太古の歴史書であるヘロドトス『歴史』の冒頭に、こうあります。

本書はハリカルナッソス出身のヘロドトスが、…(中略)…ギリシア人や異邦人(バルバロイ)の果した偉大な驚嘆すべき事績の数々ーとりわけて両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情ーも、やがて世の人に知られなくなるのを恐れて、自ら研究調査したところを書き述べたものである。

ヘロドトス『歴史』松平千秋訳

古代ギリシアと、アケメネス朝ペルシアとの間におこった戦争(ぺルシア戦争)が、なぜおこったのか?それを明らかにすることが本書の目的であると言ってるんです。

「なぜ?」ということを明らかにするために、これから細かい検証を積み重ねていくというのです。

「なぜ?」

本を読むにも、現地を訪ねるにも、「なぜ?」という意識を持っていると、面白くなり、発見が多くなります。

日本の歴史にもまだじゅうぶんに解明されていない「なぜ?」がいくつもあります。

なぜ、明智光秀は織田信長に背いたのか?

なぜ、紫式部は『源氏物語』を書いたのか?

なぜ、坂本龍馬は殺されたのか?

なぜ、日本は無謀とわかっているアメリカとの戦争に踏み切ったのか?

しかもこれらは一言で「こうだから」と答えられるような問題ではなく、複数の原因が複雑にからみあっています。

日米開戦についていえば、

・泥沼化した日中戦争をアメリカと戦うことで打開しようとした。
・アメリカから石油の輸入を禁じられて早期開戦するしかなくなった
・ヨーロッパにおけるドイツの快進撃を見て「これならいける」と思った
・当初は短期決戦で講和に持ち込むことを考えており、4年も戦うなど想定外だった
・情報分析が甘く、アメリカの国力を低く見積もっていた

など。

「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」

そう問いかけながら本を読んだり、現地を訪ねると、面白いし、得るものが多く、あらたな発見があるはずです。

本日は「歴史とは何か?」ということについて、

・記録された(書かれた)ものが、歴史として残っていく
・公平中立な歴史書は、ない
・「なぜ?」を問い続けること

という三点を語りました。いかがだったでしょうか。

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