岐阜城と周辺を歩く

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本日は岐阜城と周辺を歩きます。

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岐阜駅から岐阜公園へ

JR岐阜駅下車。

キンキラキンの織田信長像が出迎えてくれます。

マントを羽織り、左手に甲、右手に種子島(鉄砲)を持ち、キッと前を見据えた姿が、りりしいです。

岐阜城に行くにはJR岐阜駅もしくは名鉄岐阜駅からバスに乗り、岐阜公園歴史博物館前(ぎふこうえんれきしはくぶつかんまえ)で下車するのが早いです。

しかし今回は、岐阜の駅前の風情を味いつつ、歩きます。

2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』に向けて、斎藤道三や明智光秀の名がひるがえっています。

金華山ふもとの伊奈波神社。岐阜町(ぎふまち)の産土神(うぶすながみ)として美濃国三宮(みののくに さんのみや)と称され、古くから信仰を集めました。

もとは現在の岐阜公園あたりにあったのを斎藤道三が稲葉山城築城に際し、現在地に移したといわれます。

11代垂仁天皇の皇子・五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)はじめ四柱の神を祀ります。

斎藤道三・織田信長・徳川家康といった代々の為政者より崇拝されました。

石段の上から岐阜の街並みが一望でき、気分いいです。

正法寺

伊奈波神社参道から徒歩約10分。岐阜大仏で有名な黄檗(おうばく)宗正法寺(しょうぼうじ)があります。

京都の萬福寺(まんぷくじ)の末寺です。天和3年(1683)創建。

大仏殿は中華風と和風がまじりあった江戸時代後期の建物です。

その中に鎮座する岐阜大仏は天明7年(1787)の災害の被災者を供養するため、浄財をつのり、38年の歳月をかけて文政12年(1829)に完成しました。

ややうつむいて語りかけるような姿勢、しなやかに印を結んだ指先が、とても印象的です。大仏のまわりの回廊には五百羅漢象が安置されています。一つ一つ表情が違い、味わい深いです。

正法寺を後に北に歩いていきます。しだいに金華山の存在感がましてきます。

やがて金華山ふもとの岐阜公園につきます。

金華山(きんかざん)は古くは稲葉山(いなばやま)といいました。標高328m。山頂に岐阜城、ふもとに岐阜公園。近くに長良川が流れ、一帯が景色のいい観光コースとして整備されています。

織田信長公居館跡

公園奥にロープウェー山麓駅があります。駅かたわらに織田信長公居館跡。復元の門が、気分高まります。

三重塔

山裾にそびえる三重塔は、大正天皇即位の記念事業として建てられたものです。

板垣退助象

織田信長公居館跡の傍らに板垣退助像。

明治15年(1882年)、自由党総理板垣退助は、党勢拡大のため東海道を演説してまわっていました。4月6日、岐阜で行われた懇親会に参加します。会の後、外に出ようとした板垣に、賊が襲いかかり、板垣は腕や胸に数か所の傷を負いました。

この時、「板垣死すとも自由は死せず」と言った、というのはあやしい話ですが、言った、ということになって、自由民権運動をあらわすモットーのようにもてはやされていきました。

大正6年(1917)岐阜公園拡張のため、事件の舞台となった建物(岐阜神道中教院)が取り壊されることになり、その跡地に板垣退助の銅像が建てられました。戦時中の金属供出によって撤去され、現在の銅像は戦後再建されたものです。

岐阜城

ロープウェーに乗ります。やがて眼下に見えてくる、金華山の緑、岐阜の町並、濃尾平野、長良川、気分いいです。

岐阜城は鎌倉時代の創建と伝えられ、その後何度か改築されたようですが、本格的に城下町を持つ城として整えられたのは戦国大名・斎藤道三の時です。

天文21年(1542)斎藤道三は美濃国守護・土岐頼芸(とき よりあき)を国外に追放。稲葉山城を築き、城下町を整えていきました。

その後、稲葉山城は道三の息子義龍、孫龍興に受け継がれますが、永禄10年(1567)道三の娘婿である織田信長が斉藤龍興を伊勢に追放して、稲葉山城に入ります。

『信長公記』によれば信長は稲葉山城に入るにあたって、古代周王朝の創建にちなみ、「岐阜」「岐山」「岐陽」などの候補から「岐阜」を選んだといい、この時、町の名も「井之口」から「岐阜」にあらためたといいます。

信長時代の岐阜城は、山頂に信長の家族の屋敷と人質を隔離するエリアがあり、伊奈波神社の本宮が祀られていました。

山麓には、四階建ての「常御所(つねのごしょ)」とその前に「劇場風の建物」がありました。さっき見た「織田信長公居館跡」がそれと見られています。

岐阜を訪れたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは岐阜の城下町を「バビロンの賑わい」と語ったと伝えられます。

天正3年(1575)信長は家督を嫡男の信忠にゆずり、翌年、岐阜城をも譲り、自分は安土城に移りました。岐阜城をついだ信忠のもと、城下町が整えられていきました。天正10年(1582)本能寺の変で信長・信忠父子が討たれた後は、信長三男の信孝が、ついで池田輝政が城主となります。

池田輝政は岐阜城の天守を金華山の上に上げて、櫓などを築いたと言われます。その後、豊臣秀勝を経て、文禄元年(1592)信長の直系の孫である織田秀信(三法師)が岐阜城主となります。

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の時、岐阜城主・織田秀信は石田三成の西軍につきました。そのため、徳川方の池田輝政(かつての岐阜城主)によって岐阜城は攻め落とされました。この時、岐阜城にいた女たちが金華山ふもとの池に身を投げた、という伝承が残っています。

関ヶ原の合戦後、岐阜城は廃城となり、天守も解体されました。現在の天守は昭和31年(1956)、天守台の遺構とおぼしき石積の上に再建されたものです。中は資料舘になっています。

天守閣や近くの展望台から、ふもとの景色が見渡せます。

肥沃な濃尾平野と、長良川の雄大な流れ。

信長もこの景色をみて天下布武に乗り出したのかと、気分高まります。

ロープウェーを下り、長良川まで歩きます。

長良川は鵜飼で有名です。

毎年5月11日~10月15日にかけて、毎晩、鵜飼が行われています(ただし増水時・鵜匠の休みの日はのぞく)。

鵜飼とは鵜をたくみにあやつって魚を捕る漁法のことです。

古くは『古事記』『日本書紀』に鵜飼についての記述があり、また鵜飼をかたどった埴輪も出土しています。そこから見て、鵜飼は、古墳時代から行われていたようです。

美濃国においては7世紀には鵜飼が行われていたと考えられています。奈良の正倉院におさめられた7世紀の美濃国の戸籍に「鵜飼」の文字が見られるためです。したがって美濃の鵜飼は1300年の歴史を持つことになります。

鵜をあやつる人物を鵜匠といいます。

鵜匠は、風折烏帽子(かざおりえぼし)に紺の単衣(ひとえ)、胴あて・腰蓑に足半(あしなか)という短いわらじを履く、独特の格好をしています。平安時代の鵜匠の姿の名残といわれます。

長良川の鵜飼は織田信長に、ついで徳川家康に保護を受け、江戸時代には尾張徳川家の保護を受けました。毎年岐阜町では鮎鮨や宇留加(鮎の内臓や卵の塩漬け)を尾張藩におさめ、尾張藩はこれらを江戸の将軍家や諸大名へ献上しました。

岐阜町から尾張藩に鮎鮨(あゆずし)などを運んだ道は「御鮨街道(おすしかいどう)」とよばれました。

鮎鮨とは今の鮨の原型ともいえるもので、酢を使わず発酵させることで酸味を出したものです。

貞享5年(1688)松尾芭蕉は弟子たちと岐阜を訪れて鵜飼を見物して、

おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな

と詠みました。長良橋のそばに句碑が立っています。

チャールズ・チャップリンは昭和11年(1936)と昭和36年(1961)の二度の来日の際、長良川の鵜飼見物して、「ワンダフル」を連呼し、鵜匠のことを「アーティスト」と呼んだと伝えられます。

長良川から見える金華山と山頂の岐阜城もすばらしいです。川沿いを歩き回って、ベストな撮影スポットを探すのも楽しいです。

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