銀閣寺を歩く(一)

こんにちは。左大臣光永です。全国的に天気がすぐれない中、新しい一週間が始まりましたが、いかがお過ごしでしょうか?

私は普段自宅では酒を飲まないのですが、旅先と人に会う時は飲むことを自分に許可しています。だから長い旅だと毎日毎晩飲んで常にアルコールが切れないですね。今はそんな状況です。

というわけで、本日も祇園祭中の京都からお届けします。「銀閣寺を歩く」です。

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観音殿(銀閣寺)
観音殿(銀閣寺)

銀閣寺への道

京都駅から銀閣寺方面行きのバスに乗り、バス亭銀閣寺前で降ります。

京都駅 バス乗り場
京都駅 バス乗り場

バス亭銀閣寺前
バス亭銀閣寺前

すでに東山の枯れさびた雰囲気がただよっています。東西に走る今出川通りと南北に走る鹿谷通りがぶつかってT字路になっています。



今出川通り鹿谷通り
今出川通り鹿谷通り

その地点を通り越し、今出川通りをちょっと東へ進むと、今度は南北に疎水が流れ、疎水沿いに「哲学の道」が走ります。

哲学の道
哲学の道

そこをも通り越し今出川通りをさらに直進すると、銀閣寺の参道です。

銀閣寺の参道
銀閣寺の参道

道すがら、たくさんのみやげ物やさんが軒をつらね、修学旅行の学生さん。待機する人力車。旅の雰囲気が高まります。正面に東山の緑がわっと迫っていて、高揚感がこみあげます。

銀閣寺の参道
銀閣寺の参道

しばらく歩くと銀閣寺こと東山慈照寺の入り口です。修学旅行生や外国人が嬉々として記念撮影をしています。

銀閣寺入り口
銀閣寺入り口

銀閣寺の歴史

銀閣寺は臨済宗相国寺派に属する寺院で正式には東山慈照寺。文明14年(1482年)室町幕府第8代将軍足利義政による建立です。

足利義政は、祖父にあたる3代将軍義満が北山に築いた鹿苑寺金閣にならい、東山に別荘を建設。東山殿(ひがしやまどの)と称しました。

義政の死後、東山殿は臨済宗相国寺派の禅寺に改められ、義政の法名慈照院にちなみ東山慈照寺と改められました。銀閣寺は俗称です。

銀閣寺垣

総門をくぐり中に踏み込むと、

銀閣寺 相門
銀閣寺 総門

目に飛び込んでくるのが、見事な生垣です。

銀閣寺垣
銀閣寺垣

左右によく刈り込んだ生垣が壁のように迫り、生垣の下半分を竹垣が覆います。この竹垣を「銀閣寺垣」といい、スキマなく割り竹を並べて横にわたした三本の竹で支えただけの簡素な作りです。

石垣との調和も見事で、これから別世界に踏み込んでいくワクワク感を高めてくれます。

向月台(こうげつだい)・銀沙灘(ぎんしゃだん)

受付で入場料を払い、中門をくぐり、

銀閣寺 中門
銀閣寺 中門

左手に五葉の松を眺めながら唐門をくぐりと、

銀閣寺 五葉の松
銀閣寺 五葉の松

銀閣寺 唐門
銀閣寺 唐門

すぐ目の前に見えるのが向月台(こうげつだい)です。

銀閣寺 向月台
銀閣寺 向月台

砂を円錐形に盛り上げ、その頂点のとんがった所を平らにならしたような形で高さは180センチもあります。何の目的で作られたかは不明です。

そして月台の横に広がるのが銀沙灘。白砂を一段盛り上げて、表面に直線の模様をつけたものです。中国の湖・西湖の風景をあらわしていると言われます。

銀閣寺 銀沙灘
銀閣寺 銀沙灘

よく見ると銀沙灘の上にたくさんの虻が飛びまくっています。虻をひきつける何かが、あるんでしょうか。

観音殿(かんのんでん。銀閣)

唐門右手に今度は目を向けると、おなじみ銀閣の名で知られる観音殿です。

観音殿(銀閣)
観音殿(銀閣)

別に銀箔が押してあるわけではなく、こけら葺きの屋根を持つ渋い建物です。

鹿苑寺の舎利殿(しゃりでん)(金閣寺)・西芳寺(さいほうじ)の瑠璃殿と並び観音殿と称されました。

二層からなり第一層を心空殿(しんくうでん)、第二層を潮音閣(ちょうおんかく)といいます。第一層心空殿は書院造、第二層潮音閣は板壁に華頭窓をしつらえた仏殿様式です。

観音殿(銀閣寺)
観音殿(銀閣寺)

屋根の上の鳳凰像は青銅製で、潮音閣の観音像を守っています。

観音殿(銀閣寺)の鳳凰像
観音殿(銀閣寺)の鳳凰像

もともとは銀箔を押す予定だったのですが、応仁の乱と打ち続く一揆により幕府には予算がなく、断念しました。しかし、結果として渋い山水画のような建物が出来上がり、今日に到るまで親しまれているわけです。

華頭窓(かとうまど)

観音堂をぞんぶんに堪能したら、次に本堂へ向かいます。途中の渡り場には、「華頭窓」がしつらえてあります。

銀閣寺 華頭窓
銀閣寺 華頭窓

華頭窓とは、お寺の窓の形として誰もが思い浮かべる、あの釣鐘型の形をした窓のことです。

鎌倉時代に中国から禅宗が入ってきた時、禅寺の建築様式として同時に入ってきたといわれ、そのデザイン性の高さから後には禅宗以外の寺や、神社、城郭にも用いられるようになりました。

窓の上部の釣鐘型の形はもともと炎をあらわしており、そのため「火頭窓」と書く場合もあります。ところが、木造建築の多い日本では火事を嫌い「火」を同じく「カ」の音を持つ「花」「華」の字にあらため、「花頭窓」「華頭窓」としたのです。

さてここ銀閣寺の唐門から本堂に向かう途中の華頭窓からは、窓の向こうの庭園の景色を切り取って、さまざまに眺められるという趣向です。季節によっても色々な景色になりますね。修学旅行の学生さんが、華頭窓ごしに記念写真を撮る姿が多く見られました。

本堂

本堂でお賽銭を投げ入れ、本堂前の縁側に腰掛けて庭園を一望します。白砂の「銀沙灘」の向こうに「向月台」が見え、雄大な気持ちをかきたててくれます。

銀閣寺 本堂
銀閣寺 本堂

この、寺の縁側で座って眺められる趣向はいいです。できる限り長時間ぼさーーとして、脳内を過去にトリップさせたいところです。

銀閣寺 本堂からの眺め
銀閣寺 本堂からの眺め

夜は月の光が照らし、「銀沙灘」の平らな所は白く、波立った所は黒く見え、幻想的な風景を描き出すのです。残念ながら夜入ることはできませんが!

また「向月台」は、角度によって上の部分に松の枝がかかり、また違う情緒をかもし出します。立ったり座ったり、右に左に動いて、さまざまな角度から観察しましょう。

東求堂(とうぐどう)・同仁斎(どうじんさい)

次に、本殿に向かって右手に見えるのが、義政の持仏堂「東求堂(とうぐどう)」です。

銀閣寺 東求堂
銀閣寺 東求堂

一層入母屋造り、檜皮葺きの日本最古の書院造で、北側の一室「同仁斎(どうじんさい)」は四畳半の茶室の始まりとされます。義政自身が、ここ同仁斎で茶を立てていたということです。

足利義政について

足利義政は室町幕府8代将軍。6代将軍義教(よしのり)の子として生まれ8歳で将軍職につきました。嫡男が生まれなかったため、弟が出家して義尋(ぎじん)と名乗っていたのを還俗させて義視(よしみ)と改名し養子にして、次期将軍にすえました。ところが、その翌年、妻日野富子との間に嫡男義尚(よしひさ)が生まれます。

応仁の乱
応仁の乱

「この子を将軍にするのです!」
「そうはいっても、将軍はすでに弟の義視がなることに」
「いーーえ、ぜったい、この子です!!
あなたは、弟と子と、どっちが大事なんですキイーーーーッ!!」

夫義政の煮えきれない態度に日野富子は、これは頼りにならんと政権実力者である山名宗全に協力を求めました。

一方、足利義視は幕府管領細川勝元に協力を求めます。

こうして、

義尚擁立派の山名宗全を中心とする西軍。
義視擁立派の細川勝元を中心とする東軍。

応仁の乱
応仁の乱

両者の争いは全国の大名をまきこみ、大バトルに発展していきます。応仁の乱です。

次回に続きます。

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本日も左大臣光永がお話ししました。ありがとうございます。
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