銀閣寺を歩く(一)

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本日から二回にわたって、銀閣寺を歩きます。

足利義政の人物像と、応仁の乱のことも、あわせて解説していきます。

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銀閣寺 観音殿

銀閣寺まで

京都駅から銀閣寺方面行きのバスに乗り、バス停銀閣寺前で降ります。すでに東山の枯れさびた風情がただよっています。

正面にカッコよくそびえているのが如意ヶ嶽=大文字山です。

バス停おりてすぐ目の前が白沙村荘(はくさそんそう)橋本関雪(はしもとかんせつ)記念館。大正~昭和初期に活躍した日本画家橋本関雪のアトリエ兼住居「白沙村荘」を公開しています。

今回はスルーして銀閣寺に向かいます。

哲学の道

疎水分流沿いに「哲学の道」が見えてきます。琵琶湖疏水の分流に沿って約2キロにわたって走る小道です。京都大学の哲学者西田幾多郎先生が思索にふけりながら歩いたことから、哲学の道と呼ばれます。

今回はスルーして銀閣寺に向かいます。

疎水分流にかかった橋を渡ると、銀閣寺の参道です。

銀閣寺 参道

道すがら、たくさんのみやげ物やさんが軒をつらね、修学旅行の学生さん。待機する人力車。旅の雰囲気が高まります。

見えてきました。銀閣寺こと東山慈照寺(ひがしやまじしょうじ)の総門です。

銀閣寺 総門

銀閣寺 総門

総門をくぐり中に入ると、見事な生垣が目に飛び込んできます。

銀閣寺 生垣

藪ツバキ・くちなし・山茶花など四季折々の花を咲かせる生け垣が左右に壁のように迫り、生垣の下の部分を竹垣が覆います。

銀閣寺垣

この竹垣を「銀閣寺垣」といい、スキマなく割り竹を並べて横にわたした三本の竹で支えただけの簡素な作りです。

石垣との調和も見事で、これから別世界に踏み込んでいく期待感を高めてくれます。

庭園

柿葺屋根の中門をくぐります。

銀閣寺 中門

左手に五葉の松を眺めながら唐門をくぐると、

銀閣寺 五葉の松

もう目の前に慈照寺(銀閣寺)の庭園が広がっています。

銀閣寺 庭園

庭園は月待山山麓の2万平方mにわたって広がります。足利義政の指導で作られ、善阿弥が現地指導に当たったといわれます。京都西方の西芳寺の庭園が強く意識され、建物の名前や配置に西芳寺の影響が見られます。

庭園は上下二段に分かれ、下段は錦鏡池(きんきょうち)という、ひょうたん型の池を中心に、観音殿・銀沙灘・向月台・方丈・東求堂などが取り巻く、池泉廻遊式庭園です。

上段は楓や苔の群生する山の斜面に散策道がしつらえてあり頂上からふもとの景色を一望できます。

銀閣寺は正式には東山慈照寺。臨済宗相国寺派の寺院。銀閣(観音殿)があることから俗に銀閣寺と呼ばれます。

八代将軍足利義政の時代。世は乱れに乱れていました。徳政令を求める一揆が各地で起こり、3年間にわたる長禄の飢饉で、都では毎日300人、多い時は700人が死にました。

やがて始まる応仁の乱。いつ終わるとも知れない戦乱は京都の町を焼け野が原と化して、延々11年も続きました。

すっかりイヤになった義政は、息子の義尚(よしひさ)に将軍の位を譲って隠居します。しかし隠居後も、義政の気は晴れませんでした。

妻日野富子との関係は冷え切っていたし、息子義尚は放蕩三昧で父の言うことをまったく聞きませんでした。

義政は政治にも、戦争にも、家庭にも疲れ切っていました。

そんな義政の心をとらえたのは、風流の世界でした。義政は応仁の乱のずっと前から水墨画や禅、連歌の世界に興味を持っていました。すでに応仁の乱以前に東山を視察し、「いつかはこの美しい景色の中に山荘を持ちたい」という計画を立てていました。

文明9年(1477)11年間にわたった応仁・文明の乱が終わります。五年後の文明14年(1482)、義政はついに念願だった東山山荘の造営に着手します。

東山山麓の浄土寺が、応仁の乱で焼けたまま放置されていた、その跡地に山荘を作り始めたのです。

翌文明15年(1483)義政の住まいとなる常御所(つねのごしょ)が完成。義政は早くも新居に移ってきました。

その後、10年近い歳月を費やして東山山荘には十以上の建物が造営されました。常御所を手始めに文明17年(1485)には西芳寺の西来堂を模した禅室「西指庵(さいしあん)」が。

翌文明18年(1486)持仏堂である東求堂(とうぐどう)が。長享元年(1487)年、泉殿が完成。そして長享3年(1489)より義政の美的こだわりの粋を集めた観音殿(かんのんでん)に着工しました。

しかし翌延徳2年(1490)義政は病にかかり、帰らぬ人となります。観音殿が完成したのは義政の死後でした(完成年は未詳)。

向月台(こうげつだい)

では庭園を歩いていきましょう。

まず目に入るのが向月台(こうげつだい)です。

銀閣寺 向月台

砂を円錐形に盛り上げ、その頂点のとんがった所を平らにならしたような形で高さは180センチあります。作られた目的は不明ですが、景色によいアクセントを加えています。

錦鏡池(きんきょうち)のほとりに、銀閣の名で知られる観音殿(かんのんでん)。

銀閣寺 観音殿

正面四間、側面三間、屋根は宝形造、柿葺で、屋根の上に金銅製の鳳凰像が立ちます。

上下二層からなり第一層を心空殿(しんくうでん)、第二層を潮音閣(ちょうおんかく)といいます。第一層心空殿は書院造、第二層潮音閣は漆塗りの板壁に華頭窓をしつらえた仏殿様式です。

銀閣寺 観音殿

着工は長享3年(1489)。延徳2年(1490)義政が死んだ後に完成しましたが、完成した正確な時期はわかっていません。

鹿苑寺の舎利殿(しゃりでん)(金閣寺)・西芳寺(さいほうじ)の瑠璃殿(るりでん)と並び観音殿と称されます。

観音殿には銀箔を押す予定であったという説もありましたが、平成19年(2007)1月のX線調査で銀は検出されませんでした。銀箔を押す予定があったかどうかはともかく、、結局、銀箔は押されなかったことがハッキリしました。

銀沙灘(ぎんしゃだん)

向月台の横に広がるのが銀沙灘。

銀閣寺 銀沙灘

白砂を約6センチ盛り上げて、表面に直線の模様をつけたものです。近くを流れる白川の白砂を盛って作られたといい、月待山に登る月を愛でるためとも、中国の湖・西湖の風景をあらわしているとも言われます。

向月台と銀沙灘は義政の時代には無く、江戸時代に作られたと考えられています。

唐門と方丈の間に、「華頭窓」がしつらえてあります。

銀閣寺 華頭窓

窓を通して景色を切り取るように、銀沙灘の庭を楽しめます。

華頭窓とは、お寺の窓の形として誰もが思い浮かべる、あの釣鐘型の形をした窓のことです。

鎌倉時代に中国から禅宗が入ってきた時、禅寺の建築様式として同時に入ってきたといわれ、そのデザイン性の高さから後には禅宗以外の寺や、神社、城郭にも用いられるようになりました。

方丈

銀沙灘に面して、本堂たる方丈があります。

銀閣寺 方丈

元和・寛永年間(1615-44)の復元。屋根は入母屋造・柿葺。縁側の前から庭園を一望できます。

銀閣寺 方丈

以前は縁側に座ることができましたが、今は結界が渡してあり、座れません。方丈内部には、池大雅による襖絵が12面、与謝蕪村による襖絵が12面あります。ふだんは非公開です。

白砂の「銀沙灘」の向こうに「向月台」が見え、雄大な気持ちをかきたててくれます。

「向月台」は、角度によって上の部分に松の梢がかかり、また違う情緒をかもし出します。立ったり座ったり、右に左に動いて、さまざまな角度から観察しましょう。

方丈に向かって右にあるのが、義政の持仏堂「東求堂(とうぐどう)」です。

銀閣寺 東求堂

一層入母屋造り、檜皮葺きの日本最古の書院造。文明18年(1486)義政の持仏堂として建てられました。

東山山荘全体が禅の思想のもとに造営されているのに対し、東求堂は浄土思想に基づいていることに特徴があります。「東求」は「東方の人、西方の浄土を求める」という言葉から来ています。

内部は4つの部屋に分かれます。西南の仏間には正面に阿弥陀如来像、脇に足利義政の木造が安置されています。

北東の部屋は同仁斎と名付けられ、四畳半の茶室の始まりと言われます。

同仁斎という名の由来は、中唐の詩人・韓愈の「聖人は一視して同仁」から。聖人は人を区別せず等しく仁愛をそそぐという意味です。この言葉通り、同仁斎では義政みずからが茶を立てて客にふるまいました。

袈裟形手水鉢

方丈と東求堂の間の渡し廊下の前に袈裟形手水鉢があります。

銀閣寺 袈裟形手水鉢

各面正方形で、上面に丸い水たまりがあります。僧侶の袈裟を思わせる格子形の刷り込みがあるので、袈裟形手水鉢と呼ばれます。また銀閣寺形手水鉢といわれます。

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