源頼朝 惨敗す。「石橋山の合戦」の古戦場を歩く

こんにちは。左大臣光永です。週の半ば、いかがお過ごしでしょうか?

私は今日、昼メシを早稲田大学の学食で食べてきました。美味しかったです!自然な美味しさなんですよ。ごく自然な、素直な味。家庭料理に近いと感じました。

学食でこの味出せるのがすごいと思いました!四年間、こんなうまいもん食べてたら、そりゃあエリートができますわ。納得しました。

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さて「左大臣の古典・歴史の名場面」
本日は第828回。

源頼朝最大の負け戦として知られる「石橋山の合戦」の
「石橋山古戦場」を歩きます。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

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治承4年(1180)8月。

伊豆で旗揚げした源頼朝は、相模・伊豆の豪族300騎を率いて鎌倉を目指しますが、途中、平家方の大庭景親3000騎、伊藤佑親300騎に北と南からはさみ討ちにされ、相模湾を見下ろす石橋山で合戦となります。

数を10倍する敵の前に頼朝方は惨敗。頼朝はわずかな家来とともに箱根山中に逃れ、その後真鶴から海を渡り、安房(千葉県南部)にわたりました。

1180年(治承4年)8月23日 石橋山の合戦
1180年(治承4年)8月23日 石橋山の合戦

早川駅~石橋

JR東海道線早川駅で下ります。ここから国道135号線を真鶴方面に歩いていきます。


本日、曇天。

駅下りていきなりミカンの直売所がったので、一袋買って、食べながら歩きます。

国道左手がすぐ海です。潮の香がぷうんと漂って、いい感じです。



「どちらに行かれるんですか」

地元の農家とおぼしき主婦の方が話しかけてきました。

「石橋山古戦場は…」

「あ~石橋山古戦場はですね、まーっすぐ行って、こうこうこう…私も方向同じだから、案内します」

道すがら、話しながら歩きました。いいですね。旅先でこういう人の情に触れると、ほがらかな気分になります。


国道135号線がやがて二手に分かれます。このあたりで主婦の方と別れ、山に向かうほうの道を登っていきます。


石橋山の合戦とは

治承4年(1180)8月17日、源頼朝は打倒平家を呼びかける以仁王の令旨にこたえて、伊豆で挙兵。

平家の代官・山木兼隆を討ち取りました。

相模・伊豆の豪族たち300騎あまりを味方につけた頼朝は、

さらに三浦一族との合流をはかって、小田原方面を目指しますが。

しかし。

北からは大庭景親3000騎、南からは伊藤佑親入道300騎が迫り、

8月23日。相模湾を見下ろす石橋山で合戦となります。

1180年(治承4年)8月23日 石橋山の合戦
1180年(治承4年)8月23日 石橋山の合戦

頼みの三浦一族は雨で酒匂川が増水し、足止めを食らって合流できない。頼朝軍は、あそこ、ここに打ち破られ、頼朝はわずかな供回りとともに、箱根山中に逃れ、さらに真鶴から船に乗って、安房(千葉県南部)に落ち延びました。

治承四年(1180)8月23日、石橋山の合戦。その舞台に、いよいよ近づいてきました。

石橋山古戦場碑

JR東海道線の脇の、古びた道を登っていきます。


左手にはJR東海道線の線路、右手には満々たる相模湾。ミカン畑。



そして、そこかしこに早咲きのオカメザクラが咲いていました。のどかです。


お~あったあった。石橋山古戦場碑。堂々とした文字です。


あらためてこの場所に立ってみると、実感します。


とても高い位置なんですね。海を見下ろせて、いい気分です。

さらにミカン畑の中の山道を登っていくと…

佐奈田霊社

見えてきました。佐奈田霊社です。


石橋山の合戦で討ち死にした頼朝方の若武者・佐奈田与一義忠をまつる神社です。


数に十倍の敵を前に、「もはやこれまでか…」

死を覚悟する頼朝。

嵐の中、迫りくる、大庭景親軍3000騎。

その時!

「御曹司殿!ここはそれがしに、お任せくだされ」

バカカ、バカカ、バカカ

佐奈田与一義忠は嵐の中、わずか15騎で、平家軍の中を
むちゃくちゃに駆け抜け、あそこに一騎、こちらに一人、
切り伏せ、蹴飛ばし…

そして平家方の俣野五郎景久(またののごろう かげひさ)と組合になります。

上になり、下になり、ついに俣野五郎景久を組み伏せた佐奈田与一。そこで刃を抜こうとするも。「ぐぬっ、くはっ」血のりがこびりついて刃が抜けない。

その時、

「でりゃあ」

ずばっ

敵・長尾新六によって斬られ、与一は命を落としました。享年25。

「ああっ!お屋形さま…お屋形さま!!」

佐奈田与一の郎党・文三家康(ぶんぞういえやす)は、

「おのれ、よくもお屋形さまを!」

ばかかっ、ばかかっ、ばかかっ、ばかかっ、

敵中に駈け入って、八人を斬り伏せ、壮絶な討ち死にを遂げました。

……

境内には佐奈田義忠手附け石。


そして与一を祀る与一塚。


また、与一が敵将・俣野五郎と組み合っている時に、味方が声をかけた。しかし与一は「たん」がからんで、うまく返事ができなかった、という伝承に基づき、佐奈田霊社は痰・咳・声に霊験があると言われています。

神木がズドンと立ち、時の流れを見守っているかのようです。

佐奈田与一義忠 討ち死にの地(ねじり畑)

佐奈田与一が俣野景久をねじり伏せた場所は、「ねじり畑(ばた)」として、佐奈田霊社裏手に、残っています。


先駆けをした佐奈田与一義忠は、敵将・俣野五郎景久をねじ伏せるも、刀が抜けず焦っている所を、敵方・長尾新六に討ち取られたと伝えられます。

敵をねじり伏せたので、ねじり畑。

ねじりと言うだけあって、この畑の作物はみなねじれてしまうと伝えられています。

文三堂

ねじり畑の近くには、文三堂があります。



佐奈田与一の郎党・文三家康(ぶんぞう いえやす)を祀ったお堂です。


主君・佐奈田与一が討たれた後、文三家康は、おのれ主君のカタキと敵陣の中に駈け入り、敵八人を斬り伏せ、壮絶な討ち死にを遂げたと伝えられます。


ミカン畑の中の小高い丘の上に、ぽつねんと立っています。

源頼朝は元久元年(1190)、伊豆山権現参詣の帰りに石橋山を訪れ、佐奈田与一・文三家康の墓の前で涙を落としたと伝えられます(『吾妻鏡』)。

どこからともなく微かなラジオの音が響いていました。ミカン畑の農家の人が聴きながら作業していたんでしょう。地味に、風情ありました。

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