鹿島神宮を歩く(一)

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本日は『鹿島神宮を歩く(一)』です。

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茨城県の鹿島神宮はタケミカヅチノカミを祀る、神武天皇創建による神社です。常陸国一の宮。旧官幣大社であり、千葉県の香取神宮、茨城県の息栖(いきす)神社と共に、東国三社の一つに数えられます。

鹿島まで

東京駅八重洲口で高速バス「鹿島号」に乗ります。


満員です!え、こんなたくさん鹿島神宮に行くの?と思ったら…途中の鹿島製鉄所でみんな下りて行きました。

利根川を渡り、潮来(いたこ)を過ぎると、パアーーッと青々とした田園風景が広がり、目にまぶしいです。よく晴れていて、向こうに富士山も見えました。

北浦(きたうら)を渡ると、水の中に突き出した大きな鳥居が見えてきます。鹿島神宮一之鳥居です。ここからは鹿島神宮の神域です。おおっついに来たかと興奮していると、バス停鹿島神宮で下りるはずが、乗り過ごしてしまい、次の鹿島神宮駅で下りました。


塚原卜伝像

しかし、鹿島神宮駅から鹿島神宮までは徒歩8分。むしろ歩くことを楽しみます。


と、坂道の右手に塚原卜伝像があるではないですか!



塚原卜伝。戦国時代、鹿島神宮の神職卜部吉川家に生まれ、後に塚原城城主塚原安幹(やすもと)の養子となります。16歳から全国を武者修行で歩き、真剣の戦い、竹刀の戦い、幾多に及ぶも、一度も負けず、「鹿島新当流」を創設しました。また将軍足利義輝や伊勢の国司・北畠具教(きたばたけ とものり)の剣術指南役ともなりました。

有名なエピソードがあります。塚原卜伝が旅の途中、琵琶湖で渡し舟に乗った時、若い武士がからんできました。「なにぃ、お前が塚原卜伝?強い強いと聞いてはいるが、いったいそのほうは、何流をやるのか」「拙者、無手勝流を少々」「はあん?なんだそりゃ!お前俺をからかっているのか!頭にきた…ここで勝負をつけよう」「およしなさい。他のお客さんたちの迷惑になりますぞ」「迷惑知らぬ!俺は名誉を傷つけられたぞ」「仕方がありませんな。ではせめて、迷惑にならない所で。これ船頭…あそこの島につけよ」…

島に船をつけて、武士を下ろして、次は卜伝が下りるという段になって、卜伝が楷でつっと地面を押すと、すーーと船は沖に流れていく。

「あっ、うおっ、だましたな!!卑怯者、返せ返せーー」

「これ船頭、あのような馬鹿はほっておけ。早く船を焦げ」「へっ」

「戦わずして勝つ。これぞ無手勝流よ」…

鹿島神宮参道

塚原卜伝像を後にしばらく歩くと、巨大なサッカーボールの石像が見えた所で、左に曲がります。


鹿島神宮の参道です!左右に土産屋や食事処、旅館が立ち並び、敷石の感じもいかにも参道然として、鹿島詣の気分を高めてくれます!



鹿島神宮大鳥居

見えてきました。鹿島神宮の大鳥居です。


東日本大震災で倒壊した御影石の鳥居に代わって、平成26年、境内の樹齢500-600年の大杉を使って再建したものです。ドッシリした重量感。鳥居の左右にドーンと立った巨大な灯明も、インパクトがあります!

楼門

したたるような夏木立の緑に、朱塗りの楼門があざやかに見えてきました。



寛永11年(1634)水戸黄門の父・徳川頼房が奉納したもので、「日本三大楼門」に数えられています。「鹿島神宮」の扁額の文字は東郷平八郎によるものです。くぐります。

鹿島神宮縁起

ここ鹿島神宮はタケミカヅチノカミを祀る、神武天皇創建の神社です。そもそもなぜこんな、大和から遠く離れた場所に、タケミカヅチノカミが祀られているのか?不思議に思う方もあるでしょうから、解説します。

神代の昔。伊邪耶美命(イザナミノミコト)から、日本列島を構成する島々をはじめ、数多の神々が生まれました。しかし。最後に生まれた火の神・迦具土神(カグツチノカミ)によってイザナミは陰部を焼かれ、死んでしまいました。

夫である伊邪那岐命(イザナキノミコト)は怒り狂い、生れたばかりのわが子カグツチを斬り殺し、その時飛び散った血から生まれたのが、建御雷神(タケミカヅチノカミ)です。

その後、大国主神によって葦原中国が平定されると、葦原中国を高天原に差し出させる、その交渉の使者として、アマテラスオオミカミは武力に優れたタケミカヅチノカミに、アメノトリフネノカミを添えて遣わします。

こうして国譲りが行われ、高天原から天孫降臨ということでアマテラスオオミカミの孫のニニギノミコトはじめ多くの神神が九州・高千穂の峰に天下りました。

時は流れ、ニニギノミコトの曾孫にあたる神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は、この国を統治するためによりよい場所を求めて九州から東に向けて出発します。途中、兄である五瀬命(イツセノミコト)は戦で命を落とし、全軍をカムヤマトイワレビコが率いることとなります。熊野で、大きな熊の吐く毒に当てらます。

「ううう…しびれる」
「だめだあぁっ…」

ばたっ。ばたばたっ。

カマヤマトイワレビコはじめ全軍が意識を失ってしまいました。

これを高天原で御覧になっていた天照大御神は、

「わが子孫の危機です。タケミカヅチよ。葦原中国はかつてお前が平定した国。助けにいってあげて」

するとタケミカヅチは、

「私自身が行くまでもございません。私が葦原中国を平定した時に使った剣を下しまょう」

そう言って、布都御魂(フツミタマ)の剣を高倉下(タカクラジ)という者の家の倉に下ろしました。

タカクラジは夢の中にこの剣をカムヤマトイワレビコに奉れというお告げを受け、その通りに奉ると、カムヤマトイワレビコはじめ一向は意識を取り戻し元気になります。以後、この剣をささげて進むと敵は皆降伏し、一向は無事、大和の橿原宮に入ることができ、カムヤマトイワレビコは初代神武天皇として即位しました。

「ああ全てはタケミカヅチの神の御加護。ありがたいことである」

神武天皇は、自分を守ってくれたタケミカヅチノカミに感謝して、日出る国のさらに日出る処である東の果て・鹿島の地にタケミカヅチノカミを祀りました。これが、鹿島神宮の始まりです。

楼門をくぐります。

茅の輪くぐり

すぐ正面に茅の輪が設置されています。


六月末の「夏越(なごし)の大祓(おおはらえ)」が近いせいでしょう。ここを通って、体の中の穢れを流し落とすわけです。くぐり方にも作法があります。左一回、右一回。左一回、中くぐると覚えてください。なぜこうなっているのかは、知りません。

拝殿・本殿

境内入ってすぐ右手が拝殿。その奥が本殿です。



修学旅行生が和気あいあいと参拝しているのが微笑ましかったです。拝殿で参拝をすませたら、横から観察します。


写真右が拝殿。左が本殿です。その間を石の間とよばれる低い建物がつないでいます。本殿裏にそびえるのが御神木の杉の木です。

奥参道

ここから先は杉並木がはるか先まで続いています。



ざああぁーーと涼しい風が吹いて気分いいです。何か体の中のイガラのようなものが、洗い流される感じです。ゆったりと歩いていきます。



時々幹に手を触れて、その乾いた存在感を感じ取っていた、その時。

鹿苑(ろくえん)

ミィー、ミィー、ミュー


声が響いてきました。鹿です。鹿苑といって、野生のニホンジカが飼われているのです。鹿島神宮では鹿は神の使いとして大切にされています。

神代の昔。大国主神(オオクニヌシノカミ)によって地上世界・葦原中国は平定されました。すると、天照大神は、「葦原中国はわが子孫が統治すべき国である」と言い始めます。そこで、葦原中国を譲らせるために、交渉の使者を遣わすことになりました。

はじめにアメノホヒが、次にアメノワカヒコが遣わされますが、どちらも任務をほったらかしにして、何年経っても帰ってきませんでした。

「何をしているのあの者たちは。キーーッ!!他に誰かいないのか」

ヒスを起こすアマテラスオオミカミに、高天原の神々が申し上げます。

「イツノオハバリの神、もしくはその息子・タケミカヅチの神を行かせましょう」

そこで鹿の化身である神様・天迦久神(アメノカクノカミ)をイツノオハバリの元に遣わしてアマテラスオオミカミのメッセージを伝えます。するとイツノオハバリは「この任務には私が行くより息子のタケミカヅチがいいでしょう」

こうして息子のタケミカヅチノカミが、葦原中国を譲らせるための交渉役に選ばれたわけです。

タケミカヅチの父・イツノオハバリの元に天照大神のメッセージを伝えたのが鹿の化身である神様・天迦久神(アメノカクノカミ)なので、ここ鹿島神宮では鹿は神の使いとして大切にされています。

神護景雲ニ年(768)称徳天皇の御世。鹿島神宮の分霊を奈良の三笠山に迎え、藤原氏の氏社としました。春日大社の始まりです。そしてこの時、鹿島神宮の分霊を鹿の背中に乗せて運んだと伝えられます。

藤原氏はもとは中臣氏といい、鹿島神宮の神職の家柄だったと伝えられます。そのため中臣氏あらため藤原氏となってからも、藤原の一門は鹿島神宮を篤く信仰しました。しかし、大和から鹿島まで参詣するのはあまりに大変なので、奈良時代末期に鹿島神宮の分霊を迎えて春日大社を築いたわけです。

それやこれやで、鹿島神宮と鹿は深いつながりなんです。

売店でタッパに入ったニンジンが100円で売ってます。これをエサとして与えることができます。


すごくがっついてます!ふがふがっ、ふがっと鼻息荒く、野生のエネルギーをほとばしらせてきます。アッという間にエサは無くなってしまいました。

ミュー、ミュー、ミィー、ミィー

奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき。猿丸太夫の歌の情緒とは季節も状況もまったく違いますが、しかるべき季節、状況で聴けは、あはれを感じ取れそうな声です。

親鸞上人旧跡

鹿苑の脇のやぶの所に、親鸞上人旧跡の碑があります。


親鸞は『教行信証』を著す際、参考文献を閲覧するため、しばしば鹿島神宮を訪れたと伝えられます。『教行信証』は浄土真宗の根本聖典です。

次回は奥宮(おくのみや)を経て、要石(かなめいし)と御手洗池(みたらしいけ)を歩きます。お楽しみに。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

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