鴨長明と師・俊恵法師

こんにちは。左大臣光永です。じめじめした天気が続きますがいかがお過ごしでしょうか?

私は昨日、多摩で「鎌倉と北条氏の興亡」第四回・蒙古襲来の話をしてきました。今回はやや失敗したなァと思いました。ベラベラベラーーッと一方的に喋りすぎました。

もっと来場者の方に呼びかけたり、一緒に声を出して読む工夫が必要でした。一呼吸置いて、相手の立場になるということですね。


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前回の静岡講演ではそのあたりに注意したので、大いに盛り上がったのですが、今回はこだわりのある話題だけに、一方的に語りすぎました。反省しました。この反省を次回に活かします。


さて、しばらく『方丈記』や作者・鴨長明の話をお届けしていますが、本日は「鴨長明と師・俊恵法師」です。

俊恵法師は鴨長明の歌道の師であり、百人一首の85番に歌を採られている人物です。長明より42歳年上で、父は『金葉集』の撰者として名高い源俊頼です。

俊恵は、はじめ東大寺の僧でしたが、40代後半に奈良を去って京都北白川に住み、この地に「歌林苑」という文芸サロンを営みました。

京都 白川
京都 白川

自分の坊を開放し、歌の好きな人たちを身分や職業・性別に関係なく、広く招きました。会合は月一、または臨時で行われ、たいへんな賑わいを見せていました。

「どんどん来てください。身分も、技術のうまい下手も、性別も関係ありません。ただ歌が好きであれば、歌林苑は歓迎します」

保元年間(1156-59)から20年もの長きにわたって、俊恵法師の歌林苑は文芸サロンとして機能しました。藤原清輔や源頼政といった、当時を代表する歌人。登蓮法師や道因法師といった僧侶。平家一門の平経正もいました。殷夫門院大夫、二条院讃岐などの、女流歌人もいました。鴨長明のような当時まだ若くほとんど名の知られない者まで、俊恵は懐広く、受け入れました。

しかし時代が治承に入り、源平の争乱が始まると、このような風流な会合もなかなか許されなくなったためか、歌林苑は自然消滅に向かったようです。

さて、俊恵法師が鴨長明を弟子にした時の話が『無明抄』に書かれています。

歌人の証得すべからざる事

俊恵に和歌の師弟の契り結び侍りし始めの詞にいはく、「歌はきはめたる故実の侍るなり。我を真の師と頼まれば、この事違へらるな。そこは必ず末の世の歌仙にていますべきすへ、かやうの契りをなさるれば、申し侍るなり。あなかしこあなかしこ、我人に許さるるほどに成りたりとも、証得(しょうとく)してわれは気色したる歌よみ給ふな。ゆめゆめあるまじき事なり。後徳大寺の大臣(おとど)は左右なき手だりにていませしかども、其の故実なくて、今はよみ口後(おく)れに成り給へりき。そのかみ、前大納言など聞こえし時、道を執し人を恥ぢて磨き立てたりし時のまゝならば、今肩を並ぶる人すくなからまし。『我至りにたり』とて、この比(ごろ)よまるゝ歌は、少しも思ひ入れず、やや心づきなき詞打ち混ぜたれば、何にりてかは秀歌も出で来ん。秀逸なければ、又人用いず。歌は、当座にこそ人がらによりとよくもあしくも聞ゆれど、後朝(きぬぎぬ)に今一度静かに見る度(たび)は、さはいへど、風情も籠り姿もすなほなる歌こそ、見とほしは侍れ。かく聞ゆるはをこの例(ためし)なれど、俊恵はこの比もただ初心のごとく歌を案じ侍り。又、我が心をば次にして、怪しけれど人の讃(ほ)めも譏(そし)りもするを用ゐるなり。是は古き人の教え侍りしなり。この事を保てる験(しるし)にや、さすがに老い果てたれど、俊恵を『よみ口ならず』と申す人はなきぞかし。全く異事(ことごと)にあらず、此の故実を誤たぬ故なり」。

語句

■きはめたる 極めて重要な。 ■故実 古くからの教え。 ■歌仙 立派な歌人。 ■証得して 自ら悟ったとうぬぼれて。■われ気色したる歌 我こそはという思いあがった様子を見せた歌。 ■後徳大寺 後徳大寺実定。藤原俊成の甥。左大臣となる。 ■手だり 上手。 ■心づきなき詞 歌に用いるのにふさわしくない言葉。感心しない言葉。 ■をこの例 ばかげた例。

現代語訳

俊恵に和歌の師弟の契りを結びました始めの言葉に言うことに、「歌は極めて重要な古くからの教えがございます。我を真の師と頼まれるなら、この事をお間違えなさいませんように。あなたは必ず未来の世で歌の名人となられるに違いないので、このように師弟の契りをなさるので、申上げますのです。くれぐれもくれぐれも、自分が人から認められるほどになったとしても、自ら悟ったとうぬぼれて、我こそはという思い上がった歌をお詠みなさいますな。けしてけして、あってはならない事です。後徳大寺の大臣は比類ない名人でいらっしゃいましたが、彼は古くからの教えを大切にしなかったので、今は下手な歌詠みとなられてしまいました。昔、前大納言など申上げた時、道に執着し、人目を恥じて磨き立てた時のままならば、今肩を並べる人は少なかったでしょう。『私はもう最高の所に至った』といって、最近お詠みになる歌は、少しも気持ちを入れず、やや感心しない言葉も混ぜているので、何によってすぐれた歌が詠めるでしょう。優れた歌が詠めないのであれば、人も又用いません。歌は、歌会で詠んだその時こそ、詠んだ人の人柄によって良くも悪くも思えますが、一晩経ってからもう一度静かに見る時には、そうはいっても、風情も籠り姿も素直である歌こそが、ずっと見ていたく思われます。このような伝わっているのは馬鹿げた例ですが、俊恵は最近もただ初心のように歌を案じてございます。又、自分の心を次にして、自分としては納得できなくても、人が褒めたりけなしたりする批評のほうを用いております。これは昔の人が教えましたことです。この事を保っている証拠でしょうか。やはり老いさらばえたといっても、俊恵を「下手な歌詠みだ」と申す人は無いようです。それは全く他のことではありません。この、古くからの教えから外れず守っているが故なのです」

うまくなっても慢心するな、初心忘るべからず、という話です。後徳大寺実定は慢心したから、下手になった。若い頃のような、道への執着、まじめな探求心を失ってしまったというわけです。あなたはそうなってはならないと、長明を弟子入りさせるにあたって、切々と説いているのです。俊恵がこう言わざるを得ないほど、鴨長明に慢心しがちな傾向が、もしかしたらあったのかもしれません。

私もどちらかと言うと慢心するほうです。うひょー、今の語り方うまかったとか。天才じゃん俺とかしょっちゅう思っているので、俊恵の言葉は身につまされるものがあります。あなたは、いかがでしょうか?

百人一首の俊恵法師の歌です。

夜もすがら物思ふころ(ころ)は明けやらで
閨のひまさへつれなかりけり

一晩中来ない人を思って物思いに沈むこの頃は、なかなか夜が明けてしまわない。明けたと思っても、寝室の戸の隙間に差し込んでくるはずの日の光も、つれなくて、差し込んでこない。

恋人を待つ女の悶々とした立場に立って詠んだ歌です。

余談ですが、百人一首の歌は遠し番号こみでイメージづけて覚えるといいですよ。この俊恵法師の歌は85番。「ハコ」なので、たとえばですよ。ティッシュペーパーの箱の中に女が寝ている。そこに、カッターで、切りこみを作って、戸口にしてある。ああ…あの人は来ない。また朝が来てしまったわ。しかし、ティッシュペーパーの箱の部屋には、切りこみからつれなくも朝日が差し込まない。朝になっても真っ暗だ。いよいよわびしさが募る。…こんな感じでイメージを組み立てます。

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本日も左大臣光永がお話ししました。ありがとうございます。
ありがとうございました。