寿永3年(1184年)2月─
3年の長きにわたった源平の合戦にも、
いよいよ終止符が打たれようとしていました。
源義経という、用兵の天才の出現によって─
木曽義仲によって都を追われた平家一門は
一時九州まで落ち延びるも、四国讃岐の屋島に
拠点を置き、さらに摂津・一の谷に進出。
ここに前線基地を築き、都の奪回をはかります。
一方、
源義経、源範頼は平家追討のため、
東西にわかれて一の谷への侵攻を開始。
京都を発って3日後の2月9日、
一の谷の東西から同時に総攻撃をしかけます。
その時、源義経は70騎を率いて一の谷裏手の
切り立った崖の上に立ちました。
「馬を落とせ!」
70騎の馬をもって600メートルの崖の駆け下り、
平家軍に奇襲をしかける…。
いわゆる 「源義経の逆(坂)落し」です。
この前代未聞の奇襲作戦によって平家方は壊滅状態となり、
四国讃岐の屋島へ撤退していきます。
そして
元暦2年(1185年)正月─。
源義経は再度、後白河法皇に
平家追討の奏上をします。
「今や平家一門は波の上に漂う落人の群れです。
一気に攻め落としましょう」
●一の谷の合戦、屋島の合戦、壇ノ浦の合戦、
そして源平合戦後の話までを、躍動感ある語りで
描き出しました。
●講義やセミナーのような堅苦しい感じではなく、
講談や落語、また紙芝居の語りを聴く感覚で
源義経や源平合戦のことが活き活きとしたイメージをともなって
あなたの頭に注ぎ込まれます。
●『平家物語』の他『源平盛衰記』『吾妻鏡』などの
資料にも照らし合わせ、話を組み立てています。
●今日的に明らかに間違っていると思われる部分は
古典の記述よりも最新の考証を優先しています。
(たとえば一の谷への進撃ルート、
近藤親家が義経に味方する動機など)
●mp3形式の音声にあわせてテキストと地図や
図表類をおさめたpdfファイルが付属します。
特に合戦の場面では
地図を見ながら聴いていただくと、
状況がわかりやすいはずです。
左大臣光永の「平家物語」の朗読は東京都教育委員会の学習コンテンツ(学校授業で使える教材)として採用されています。安心と信頼の実績です。
url:https://contents.ict.kyoiku.metro.tokyo.jp/?page_id=30000&category_id=21496
木曾義仲が琵琶湖岸で討たれると、
木曽四天王の一人樋口兼光は降服します。
義経は後白河法皇に樋口の助命を嘆願しますが、
院の御所法住寺殿を攻撃した樋口に対し
同情の声はあがりませんでした。
義仲一党がほろぶと後白河法皇はすぐに
範頼・義経両名に平家追討を命じます。
義経軍一万騎は二日の距離を一日でとばし、
播磨と丹波の境三草山の東口に到着。
一方、三里へだてた三草山西口には
平資盛率いる平家軍三千が陣を取ります。
義経軍が三草山の戦いに平家軍を破ると
平通盛・教経兄弟は一の谷の山の手・夢の口に進出します。
義経は部隊二手に分かち、
みずからわずか70騎を率いて一の谷の裏手に向かいます。
いよいよ一の谷の平家軍に総攻撃をかけるその前夜、
義経軍の熊谷次郎直実は息子小次郎とともに
ひそかに義経軍を抜け出します。
ついに始まった一の谷攻防戦。
梶原景時は西の生田口を攻めますが、
乱戦の中長男の景季が敵陣の中に取り残されてしまいました。
その時景時は…?
後世「梶原の二度駆け」とよばれる壮絶な逸話。
一の谷の西でも東でも合戦がはじまる中、
義経率いる70騎は一の谷西口の断崖の上にいました。
600メートルもの高さを一気に駆け下り、
平家軍背後から奇襲をかける…
史上名高い「源義経の坂落し」です。
武道にも歌道にもすぐれた薩摩守忠度も
一の谷の合戦の中に命を落とします。
「旅宿の花」
最期の歌に託された忠度の思いとは?
源氏方の熊谷次郎直実は、
舟に向けて逃げていく平家方の武者を呼び止めます。
呼び止められた武者は引き返してきて、汀で組み合いになります。
熊谷が敵の兜をはらいのけてみると…
今日なお多くの人の涙をさそう平敦盛の逸話です。
新中納言知盛は目の前に嫡子武蔵守知章を討たれ、
これを助けずに逃げ出します。
宗盛の舟に逃げ延びた知盛は、
命はこんなにも惜しいものなのかと述懐します。
わが子を助けなかったことの悔いは知盛の心に深く突き刺さり、
翌年の壇ノ浦まで引きずることとなります。
一の谷で討たれた平家一門の人びとの首は、京都の町中を渡され
獄門にかけられます。
維盛の北の方は、わが夫はどうなったかと気が気ではありませんでした。
生け捕りになった平重衡は京都に護送され、
引き回しの末、六条堀川に幽閉されます。
後白河法皇は重衡を人質に三種の神器の返還交渉を試みるも
平家方はこれを拒否。
死を覚悟した重衡は東山吉水の法然上人に後世のことを託します。
元暦2年2月…
義経は摂津渡辺に船団を終結させます。
目指すは四国屋島・平家の本陣。
しかし出航前夜は、あいにくの暴風雨でした。
慎重論を唱える梶原景時に義経は…?
四国に上陸した義経軍は、阿波の反平家勢力・
近藤親家の案内で阿波から讃岐へ越え、
屋島の本陣に奇襲を仕掛けます。
戦の中、能登守教経が義経を狙って矢を放ちます。
主君を守ろうと飛び出した佐藤継信は…
屋島の合戦のさなか、沖に停泊している平家方の舟が一艘進み出し、
あでやかな女官が源氏方をさし招きします。
舟に立てられた竿の上には紅の扇が。
平家物語中、もっとも有名な「扇の的」。
那須与一の逸話です。
舟戦の中、義経は海に弓を取り落とします。
「弓など放っておきなさい!」
配下の武将たちが言う中、、
義経はあえて危険をおかし弓を取り戻します。
そこに隠された義経の真意とは?
屋島に続いて志度でも平家は撃退され、海上へ逃れます。
伊勢三郎義盛は阿波民部重能に働きかけ、
源氏方に寝返らせます。
源平の最終決戦の時は迫っていました。
合戦を前に熊野別当湛増は
源平どちらにつくか決めあぐねていました。
平知盛は阿波民部重能の裏切りを察知し、
宗盛に重能を斬るよう言います。
しかし宗盛は
「証拠も無く斬れない」と拒否します。
壇ノ浦の合戦の中、源氏方の和田小太郎義盛は
渚から遠矢を放ちます。
一方平家方の新居紀四郎親清(にいのきしろうちかきよ)が
その矢を射返すと、さらに源氏方では弓の名手・
浅利与一(あさりよいち)がその矢をつがえます。
壇ノ浦の合戦もいよいよ平家の負けが見えてきた頃、
二位尼時子は幼い安徳帝を抱いてふなばたへ歩み出ます。
「我をどこへ連れていくのじゃ」と問う安徳帝に、
時子は…
平家軍が次々と負け崩れていく中、
能登守教経の戦いぶりは目覚ましいものがありました。
教経は敵の大将義経と組もうと、舟から舟へ跳びまわります。
「見るべきほどのことは見つ」
総帥の知盛が入水すると、後を追うように
平家の侍たちは次々と海に身を投げます。
こうして壇ノ浦の合戦は終わりました。
義経は平家を滅ぼし
三種の神器を奪回したことを院に奏上します。
平宗盛以下、捕えられた平家の人びとは京都へ護送され、
引き回しにされます。
後白河法皇は車の中からその様子をうかがっていました。
自ら望んだこととは言え、
法皇は涙がこぼれるのを禁じえませんでした。
宗盛父子を護送して鎌倉までたどりついた義経。
しかし、頼朝は宗盛父子だけを受け取り、
義経が鎌倉へ入ることを許しません。
思わぬ仕打ちに困惑する義経。
義経が切々と身の潔白をうったえた「腰越状」は、
今日なお涙をさそいます。
宗盛は鎌倉で頼朝と対面した後、
ふたたび京都まで護送されます。
京都へあと三日という距離になって、
宗盛はそれまで一緒だった息子・清宗と引き離されます。
いよいよ処刑されることを悟った宗盛は…
一の谷で生け捕りにされた平重衡は、
奈良へ引き渡されます。
興福寺では重衡をノコギリで斬るか
堀首にするかと詮議しますが、
結局、木津川沿いで武士に斬らせることにしました。
そして処刑当日。
木津川沿いは大勢の見物人であふれかえります。
「悪別当」と言われた平時忠は、能登へ流罪と決まります。
いよいよ出発するその当日、
時忠は吉田に建礼門院徳子を訪ねます。
頼朝は土佐坊昌俊を刺客として義経のもとに送りこみます。
義経は昌俊を召しだし、
「義経を殺しに来たのだろう」とずばり問い詰めます。
しかし昌俊は少しもさわがず、堂々とした態度でした。
建礼門院徳子は出家して尼となり、
大原寂光院で平家一門の菩提を弔っていました。
文治2年(1186年)の春のころ、
そこへ後白河法皇がお忍びで訪ねていらっしゃいます。
熊本県出身。学習院大学文学部ドイツ文学科中退。平成10年から教会や老人ホームでの慰問をきっかけに「暗誦朗読」に取り組み始める。平成23年パナソニック映像(株)の社内セミナーで『おくのほそ道』の講演。アセンディア(株)の学習コンテンツシステムにて『平家物語』『論語』の朗読を担当。静岡県富士宮市小岩三区の町づくり暗誦プロジェクトの顧問。東京池袋の舞台芸術交流センターあうるすぽっとで平家物語の独演会を開催。『おくのほそ道』全文、漢詩200篇あまりを一字一句正確に記憶している。『朗読 平家物語』をはじめ複数の朗読サイトを運営し、現在1日のアクセス数は2000人、メルマガ読者8400人、朗読動画再生回数40万回を超える。平成24年4月から多摩市民大学TCCで『はじめての平家物語』講演。
※在庫が無くなり次第販売終了となりますので、興味のある方はお早目にどうぞ。