川中島古戦場を歩く 海津城と妻女山

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海津城

海津城は武田信玄が川中島方面への守りとして、
山本勘助、馬場信春らに築城させたと言われる城です。
後には松代城となります。

海津城
海津城

現在、海津城の枡形門や石垣が復元され、
見ることができます。

長野電鉄屋代線松代駅から
ほど近いところにありますが、

この屋代線は2012年に廃線となっております。
現在は機能していません。
駅前はガラーンとしていました。

海津城は千曲川から1キロほど離れていますが、
川中島合戦の時代には千曲川は現在よりずっと
南を流れていました。

そのため、当時海津城は千曲川の
ほとりに位置したということになります。

北を千曲川に面し、残る三方を山に囲まれ、
千曲川の分流をそのまま外堀として使った、
地形を生かした要害でした。

来る第四次川中島合戦に向けて、武田信玄が
山本勘助、馬場信春に命じて
80日の突貫工事で完成したと言われます。

現在、堀や石垣、枡形門が再現されています。
あちこちに雪が残っていて寒々した感じでしたが、
堀にはカモが元気に泳いでいました。

海津城
海津城

海津城
海津城

堀にかかった橋をわたって、枡形門をくぐります。

海津城
海津城

海津城
海津城

中はだだっ広い公園のような感じで、
櫓などが再現されています。

所々残っている雪がさむざむした感じでした。

海津城
海津城

海津城
海津城

海津城
海津城

永禄4年(1561年)武田信玄は来る川中島合戦に備えて
この海津城を築城させ、2000名を駐屯させます。
高坂弾正を城代として置きました。

しかし…どう見てもこの場所に
2000名詰め寄せるのは、大変そうです。

海津城
海津城

城内には展望台があり、上杉謙信の布陣した妻女が一望できる…
と聞いていたのですが、
「妻女山」という山が一つポツンと
あるわけではなく、
山脈のうちの一つの小さな山が妻女山ですので、

海津城
海津城

どれが妻女山なのか、よくわかりませんでした。
だいたいあのあたりかなあ…という写真を
撮っておきました。

海津城
海津城

妻女山

次にその妻女山に向かいます。

妻女山は海津城から西へ2キロ。
標高差100メートルほどの小さな山です。

永禄4年(1561年)8月15日。

上杉謙信(政虎)は1万3千名を率いて
越後から北国街道を南下し、善光寺に布陣します。

第四次川中島合戦
第四次川中島合戦

翌16日。

越後勢はいっせい犀川を渡り、八幡原を南下してきます。

第四次川中島合戦
第四次川中島合戦

「うぬぬ。上杉め。ついに動いたか。
それっ、御屋形さまに知らせるのだ」

千曲川南の海津城を預かる高坂弾正は、
2000名を以て守りを固めていましたが、

狼煙を上げて、甲府躑躅ケ崎館の
武田信玄に急を告げます。

10町ごとに狼煙台が立ち、直線距離にして100キロの
海津城から甲府まで、わずか2時間半で急を知らせることができたと言われます。

そして高坂弾正は、
信玄の本体が川中島に到着するまで
2000名の守備兵をもって海津城を死守する覚悟を固めます。

「来るなら来てみよ」

しかし!

上杉勢は海津城には目もくれず八幡原を
西にそれ、千曲川を渡り、妻女山に陣取りました。

第四次川中島合戦
第四次川中島合戦

この時、上杉謙信の側近の直江景綱が、

「今海津城を攻めないでどうするのですか!」

しかし謙信は、

「海津城の守りはわずかな人数だ。問題にもならぬ。
寡兵を攻めるは卑怯・臆病の戦よ」

そう言ったと伝えられます。

その妻女山にも登ってきました。

かなり雪が多く、タイヤが滑りそうで、スリルありました。

まず思ったのは、
ここに1万2000人布陣するのは
無理だ、ということです。

まあ、数はだいぶオーバーに書いてあるみたいです。

妻女山からは川中島平が一望できす。

妻女山
妻女山

とても気分のいい眺めでした。
展望台もあります。

妻女山
妻女山

妻女山
妻女山

例によって、私の旅先の恒例行事として、
大声を出してきました。

今回は平家物語の『横田河原の合戦』を大声張り上げて
語ってきました。まさに眼下に横田河原を見ながら!
最高の気分でした。

雨宮渡

武田方の奇襲作戦「啄木鳥戦法」を見破った上杉方1万3千名は、
夜中ひそかに妻女山を下り、妻女山南西2.5キロの
雨宮渡(あめのみやのわたし)から、千曲川を渡ります。

第四次川中島合戦
第四次川中島合戦

八幡原に待ち伏せる武田軍に、翌朝、
逆に奇襲をかけるために、です。

ちなみに私は「あめみやのわたし」だと思ってましたが、
間違いでした。「あめ【の】みやのたし」が正しいです。

雨宮渡
雨宮渡

雨宮渡
雨宮渡

全軍、声を立てないように、口に
木端をくわえさせ、馬の舌をしばり、
馬の轡には布を巻くという徹底ぶりでした。

物音一つ立てず、
一糸乱れぬ行軍だったと伝えられます。

鞭声粛々夜河を渡る

江戸時代の儒学者頼山陽の「不知庵、機山を撃つの図に題す」…
通称「川中島」の詩に描かれている場面です。

雨宮渡 頼山陽の碑
雨宮渡 頼山陽の碑

その雨宮の渡にも行ってきました。
かなりわかりにくい場所にあり、迷いましたが…
地元の方に聞いて、ようやく行き着くことができました。

現在はずいぶん千曲川から離れていますが、
当時はここも千曲川沿いだったわけですね。

雨宮の渡から千曲川を隔てて向う側が横田河原といいました。

横田河原合戦のこと

治承4年(1180年)

後白河法皇第三皇子以仁王の令旨を受けて、
打倒平家のために立ちあがった信濃の木曽義仲は、
翌1181年6月には信濃依田城(現上田市)にて
勢力をたくわえていました。

そこへ、平宗盛の命を受けた
越後の城四郎長茂が木曽義仲討伐のため、
9000名を率いて越後から信濃へ南下してきます。

横田河原の合戦
横田河原の合戦

城長茂軍は犀川を渡り、千曲川の北岸
横田河原に陣をしきます。

義仲は依田城にありましたがこれを聞いて
依田城を出て、3000名を率いて北上。

千曲川南岸の雨宮渡に陣をしきます。

木曽義仲軍3000対城四郎長茂軍9000。

数の勝負では圧倒的に義仲軍の負けです。

しかし、義仲は井上光盛の別働隊を妻女山南方から回り込ませ、
平家の赤旗を持たせ、あっ味方の増援だと
城長茂軍が油断した所で平家の赤旗を源氏の白旗に
持ち直し、ワッと襲い掛かって城長茂軍を
打破りました。

横田河原の合戦
横田河原の合戦

城四郎長茂は命からがら千曲川を伝って
越後国に逃げ帰りました。

上杉謙信が川中島の合戦で
鞭声粛々と千曲川をわたった、
その380年前の話です。

その後の城長茂

義仲に敗れた城四郎長茂はもとは平家方ですが、
その後、梶原景時のとりなしによって頼朝から罪許され、
頼朝に従いました。

しかし二代将軍頼家には謀反を起こし、
後鳥羽上皇に源頼家追討の許可を求めますが、
許可されず、吉野で討死しました。

熊野信仰に熱心で、討死した時は
すでに頭をまるめていたと伝えられます。

そんな歴史も考えながら川中島を歩くと、
よりいっそう、ワクワク感がこみ上げてきます。

次回は新選組の話をお届けします。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。