江戸城跡を歩く(三) 皇居外苑

こんにちは。左大臣光永です。

北野天満宮の宝物館で「北野天神縁起絵巻」を公開中なので、見てきました。雷神と化した菅原道真公が清涼殿に飛来ってガラガラと雷を落とす。ひ、ひいいっ。逃げまどう貴族たち。藤原時平、剣を抜く。おのれ菅原道真!生前朝廷に仕え奉りし時はわが格下であったのに…といったカッコいい場面です。

しばし見とれてきました。

さて本日は江戸城跡を歩く(三)旧江戸城西の丸下にあたる、皇居外苑を歩きます。

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旧江戸城西の丸下には老中や重臣たちの屋敷がありました。西の丸が高台にあるのに対して平地にあったため、西の丸下といいました。その西の丸下の跡地が皇居外苑です。

行幸通りイチョウ並木

東京メトロ二重橋前駅で降ります。150メートルほど日比谷通りを北に進み、左に折れます。東西に走るこの通りは行幸通り。


東京駅と皇居を結んでいる通りです。四列のイチョウ並木が見事です。

和田倉噴水公園

すぐ右にあるのが和田倉噴水公園です。


昭和36年、昭和天皇のご成婚を記念して作られた、水豊かな公園です。ちょっとベンチに腰掛けてお弁当食べていくのもいいでしょう。

皇居外苑

和田倉公園を後に、内堀通りを渡り、皇居外苑に足を踏み入れます。ここは江戸時代には西の丸下と呼ばれ、老中や重臣たちの屋敷が立ち並んでいました。江戸城築城の際、日比谷の入江を埋め立てて江戸城巽(東南)の守りとした曲輪です。

二重櫓

右手に見えるのが二重櫓(にじゅうやぐら)。別名巽櫓(たつみやぐら)。


かつて江戸城には20棟の櫓がありました。しかし、現在残っているのはこの二重櫓と本丸の富士見櫓、西の丸の伏見櫓の3棟だけです。

桔梗門

内堀沿いに直進すると、やがて右手に桔梗門が見えてきます。


桔梗門は、江戸城最南端の外桜田門に対して「内桜田門」と呼ばれていました。現在は皇居参観や勤労奉仕の人たちが出入りする門となっています。橋が渡してあり、この位置からお堀の向こう側に門が見えます。

坂下門

桔梗門の見える位置から南に折れて、蛤堀沿いに突き当たりまで進むと、


「坂下門外の変」で有名な坂下門です。


台地上の西の丸と、平地の西の丸下を結ぶ門で、現在は宮内庁への通用門として使われています。

かつて坂下門の門前には老中・安藤信正(あんどう のぶまさ)の屋敷がありました。

坂下門外の変

万延元年(1860)桜田門外の変で殺害された大老井伊直弼の跡を継いで、幕政を取り仕切ったのが老中・安藤信正です。安藤信正は公武合体を唱えました。公武合体。すなわち朝廷と幕府が一体となる。といえば聞こえがいいですが、ようは朝廷の権威を利用して傾きかけている幕府を立て直そうという話です。

そこで孝明天皇の妹君・和宮(かずのみや)と14代将軍徳川家茂の結婚が企画され、文久2年(1862)2月に実現しました。

しかし!

孝明天皇は妹宮を徳川の嫁になんかやりたくない。当人も夷狄に襲われるキケンの高い関東なんて、大嫌いでした。あれこれ説得されて、ようやく受け入れた政略結婚でした。天下の志士たちは、本人の気持を押しつぶしての政略結婚に憤慨しました。

その上、老中安藤信正は孝明天皇を廃して、新しく幕府の意のままになる天皇を立てようとしている。そんな噂まで流れました。

文久2年(1862)正月15日、安藤信正が自宅を出て江戸城に登城しようとした所、坂下門の前で

「奸賊 安藤信正、覚悟ッ!」
「ひ、ひいいぃぃっ!」

水戸藩の志士たちの襲撃を受けます。

安藤信正は傷を負いながらも、なんとか坂下門から西の丸に逃げ込みました。

坂下門外の変です。

水戸藩の志士たちは安藤信正の命までは奪えなかったものの、4月には信正は老中を免職となりました。

二重橋・伏見櫓を望む

坂下門を引き返し、玉砂利をしいた広い道を南に進みます。


やがて東西の道と交差します。西に突き当たりまで進むと、二重橋がかかっています。


橋の向こうの門が西の丸の大手門です。残念ながらここから西の丸に入ることはできません。

堀の向こうには西の丸に立つ伏見櫓が望めます。伏見櫓は江戸城に現存する3棟の櫓(富士見櫓・巽櫓・伏見櫓)のうちの一つです。三代徳川家光の時、伏見城から移築したものと伝えられます。


このあたりは絶好の撮影スポットです。二重橋と伏見櫓を、カッコよく写真に収めたいところです。

楠公銅像

今度は日比谷通りのほうに、東に向かって歩きます。右手に丸い公園状のエリアが見えてきました。


中央には楠正成像が立っています。いつ見ても気合が入ります。


明治30年(1897)建造。正成像は高村光雲作。馬は後藤貞行作。元弘三年(1333)後醍醐天皇が伯耆船上山(鳥取県琴浦町)を脱出し京都に帰還する途中、天皇を兵庫でお迎えした時の姿です。

旧第一生命館

楠木正成像を後に、いったん日比谷通りに出ます。ぜひ見ておくべきポイントがあります。内堀沿いにやや南に向かうと、左に見えてきます。旧第一生命館です。ここはGHQが置かれていた建物です。


大東亜戦争後の昭和20年(1945)9月、連合国軍に接収され、昭和27年(1952)4月まで連合国軍最高司令官総司令府(GHQ)が置かれました。

マッカーサーの執務室は六階にありました。皇居を見下ろす位置に本部を置くことで、日本人の士気をくじき、連合国の優位性を示す意図がありました。かつては一般公開されていましたが、9・11テロの後は防犯上の理由から非公開となりました。

あそこからマッカーサーがパイプくわえて皇居を見下ろしてたんですね。よ~くイメージしておきましょう。

桜田門

ふたたび皇居外苑に立ち帰り、内堀沿いに西へ向かいます。突き当りにあるのが桜田門です。



桜田門は江戸城の一番南にある門で、内側の渡櫓(わたりやぐら)門、外側の高麗門からなります。


このようにL字型に配置された二枚の門から成る門を枡形門といいます。


三の丸・ニの丸に近い桔梗門を「内桜田門」と呼ぶのに対し「外桜田門」ともいいます。

桜田門外の変

安政5年(1858)6月、大老井伊直弼は孝明天皇の勅許を待たずして日米修好通商条約に調印しました。これはアメリカの圧力に負けての不平等条約であり、幕府としても大老井伊直弼としても、いやいやながらの調印でした。

しかし反対派の志士たちはそうは見ませんでした。

大老井伊直弼はけしからん!天皇の勅許もなしに夷狄と手を結ぶなど言語道断である!

反発の声が高まっていきます。

また条約問題に並行して、将軍の跡継ぎ問題がありました。13代将軍徳川家定は病弱で先が思いやられるので、早急に跡取りを決める必要がありました。

そこで井伊直弼は一橋慶喜を推す一橋派を抑え、紀伊徳川家の徳川慶福(よしとみ)を推します。安政5年(1858)7月、13代家定が亡くなると、予定どおり慶福を14代将軍に立てます。直後に名をあらため徳川家茂(いえもち)となります。

その後、井伊直弼は将軍継嗣問題で敵対した一橋派を次々と処罰していきました。

「ますます井伊直弼の専横だ!もう許しがたい」

反発の声は天下に満ちました。なにを小癪なと、井伊直弼は一橋派を中心とした反対勢力を次々と逮捕・処刑していきます。その数は100人にのぼりました。

安政6年(1859)安政の大獄です。

このように、条約問題、将軍継嗣問題、安政の大獄という出来事が重なり、反対派の怒りは頂点に達しました。

万延元年(1860)3月3日、水戸藩・薩摩藩の浪士たち18名が江戸城桜田門外で大老井伊直弼が登城する所を待ち伏せ、襲撃しました。桜田門外の変です。

大老井伊直弼が彦根藩邸を出て、江戸城に登城するために外桜田門に向かう途中を、やられました。

襲撃位置はこのへん、門のそばちょっとの所です。



井伊直弼は殺害され、井伊直弼を討った薩摩浪士有村次左衛門も、雪の中、若年寄・遠藤胤統(えんどう たねのり)邸の門前まで至りますが、力つきて自害しました。

ほかの襲撃者たちはあるいは討ち死に、あるいは自刃。あるいは自首しました。

井伊直弼邸跡

井伊直弼の屋敷跡は、外桜田門から西へ300メートルほど。国会議事堂が見える位置の近くにあります。



江戸時代初期には肥後熊本藩主・加藤清正の屋敷がありました。

加藤家は二代忠広の代で取り潰しとなり、その後、近江彦根藩主井伊家の屋敷となり、明治維新まで井伊家が上屋敷として利用していました。

ちょうどトランプ大統領来日の真っ最中で、警備が厳重でした。皇居周辺には過去の歴史が息づいている一方、現在の歴史が着実に作られつつあるのだなあと実感しました。


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