清和天皇隠棲の地・水尾を歩く

こんにちは。左大臣光永です。

ラーメンの替え玉を頼むと、麺とスープがなじまず違和感があったんですが、最近その解決法がわかりました。ようするに、細麺を頼めばいいんですね。中太や太麺だとスープが麺に染み込むのに時間がかかる。その点、細麺であればしばらくかき回していると、スープがすぐに麺にからんで、なじんできます。細麺の博多ラーメンで替え玉という文化が生まれたのは、そこに理由があるのかナと思いました。

さて本日は、清和天皇隠棲の地・水尾を歩きます。

京都市右京区の水尾(みずお・みずのお)は、水の豊かな、景色の美しい集落です。愛宕山の西南に位置します。平安時代、第56代清和天皇が隠棲した場所であり、清和天皇の陵もこの地にあります。柚子の名産地としても知られます。

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保津峡駅~水尾

JR山陰線保津峡駅下車。

JR山陰線 保津峡駅
JR山陰線 保津峡駅

最初「えっ」と思いました。

山の中にポンッと取り残された感じ。トンネルとトンネルで挟まれた、まさに渓谷です。

駅のホームから、すでに保津峡の雄大な眺めが見渡せます。時々、保津川下りの船が通ります。船は保津峡を抜けて嵐山の渡月橋のあたりまで下っていくわけです。

保津峡
保津峡

保津峡
保津峡

保津峡駅前から水尾の集落まで、3.5キロの道のりを歩いていきます。

JR山陰線 保津峡駅前
JR山陰線 保津峡駅前

保津峡橋
保津峡橋

自治体のシャトルバスが出ていますが、せっかくだから歩きます。


川に沿った道なので、ザバザバと常に水音が響き、気分いいです。


途中、一軒の民家もありません。ほとんど車も通りません。


ゆるく傾斜している程度でそれほどの山道ではないので、歩くのは楽です。


鳥が鳴きしきり、あちこちから清水が流れ落ち、最高の気分です。

時々立ち止まっては、ギャオーーと大声を発してみます。

明智越

途中、左手に明智越の登り口があります。

明智越の登り口
明智越の登り口

明智越の登り口
明智越の登り口

本能寺の変に先駆ける天正10年(1582)5月27日、明智光秀は丹波亀山城からこの道を通って山城国に入り愛宕山に上りました。

光秀は愛宕山(あたごやま)威徳院(いとくいん)西坊(にしのぼう)で連歌の会を開きます。いわゆる「愛宕百韻」です。

その席で、光秀は発句を詠みました。

時は今 天が下知る 五月哉

今こそ、土岐氏の一族である私明智光秀が天下を治める、この五月であるという内容です。

あからさまな、謀反の表明でした。

それから6日後の天正10年(1582)6月2日、光秀は本能寺で織田信長を討ち取りました。

明智越はハイキングコースとして整えられており、丹波亀岡まで抜けることが出来ます。今回は趣旨でないのでスルーします。


水尾

景色が開けてきました。


柚子畑が見えます。


しばらく歩くと、水尾の集落です。

水尾
水尾

水尾
水尾

シャトルバスの乗り場があります。帰りの時間を調べてから、目貫通りを上っていきます。

町のいたる所にチロチロと清水の流れる音がして、いい気分です。

水尾
水尾

水尾は清滝川の川尻にあることから「水尾」または「水の尾」と言われます。愛宕山の西南に位置する集落です。交通の便は悪いながら景色がよく水が豊かで、柚子の名所としても知られます。

水尾
水尾

清和天皇水尾山陵

目貫通りをしばらく歩くと、左に清和天皇陵の入り口があらわれます。

清和天皇水尾山陵 入口
清和天皇水尾山陵 入口

山道をしばらく歩きます。



そこかしこに清水が流れ、チロチロと水音が響き、いい所です。



着きました。

清和天皇水尾山陵
清和天皇水尾山陵

清和天皇水尾山陵(せいわてんのう みずのおやまの みささぎ)です。

清和天皇水尾山陵
清和天皇水尾山陵

杉の巨木と、門の感じが、よく調和しています。


56代清和天皇。55代文徳天皇の第四皇子。母は藤原良房の娘・明子(あきらけいこ)。

清和天皇水尾山陵
清和天皇水尾山陵

母方の実家藤原氏の強い後押しで1歳で皇太子に立ち、天安2年(858)9歳の時父文徳天皇が亡くなったことに伴い即位しました。史上初の幼帝です。

清和天皇 系図
清和天皇 系図

藤原高子(たかいこ)を女御として迎え、高子との間に貞明親王、後の陽成天皇が生まれます。

清和天皇の時代、藤原良房とその養子の基経が大いに勢いをのばし、後の藤原氏全盛期の基礎が築かれました。

清和天皇は27歳で9歳の陽成天皇に譲位。30歳でご出家されます。ご出家後は仏道修行のために近畿各地をまわり、元慶4年(880)水尾の水尾山寺(みずのおさんじ)に入りました。

「ああ、なんと美しい景色だ。水の豊かな…」

清和天皇はここ水尾の集落をいたくお気に入りになり、ここを終焉の地と定めました。村人は感激して、清和天皇のために仏堂を建てました。しかし清和天皇は31歳で病が悪化したため帰洛。

京都東山粟田山荘にあった円覚寺(えんかくじ)で亡くなりました。

遺骨は遺言によりここ水尾山上に葬られました。こんなに水の豊かな、景色のいい、鳥の鳴きしきる場所で、お休みになっておられる…!でもちょっと寂しそうではありますね。

清和天皇水尾山陵
清和天皇水尾山陵

清和天皇社

清和天皇陵を後に、元来た道を引き返します。少し脇道に入って上っていきます。このあたりは石垣が続き、独特の景色です。


見えてきました。

清和天皇を祀る清和天皇社です。水尾の集落の氏神として、現在に至るまで千数百年、信仰を集めています。

清和天皇社
清和天皇社

清和天皇社
清和天皇社

また境内には清和天皇の母で文徳天皇皇后・染殿后(そめどののきさき)といわれた藤原明子(あきらけいこ)が信仰した四所大神(ししょおおかみ)を摂社として祀っています。

清和天皇社 摂社 四所大神
清和天皇社 摂社 四所大神

円覚寺(えんかくじ)

清和天皇社の近くには、清和天皇終焉の地である円覚寺があります。

円覚寺
円覚寺

清和天皇は31歳で病が悪化したため帰洛し、京都東山粟田山荘にあった円覚寺(えんかくじ)で亡くなりました。

その頃の円覚寺は鴨川の東・今の平安神宮のあたりにありましたが、室町時代の火事で焼けました。そして清和天皇ゆかりの水尾山寺に遷されてきました。しばらく水尾山寺・円覚寺の二つの名を併用していましたが、結局、円覚寺の名だけが残りました。

ちなみに「鴨川の東の」「元の」円覚寺といえば、保元元年(1156)保元の乱の時、崇徳上皇方の源為義(ためよし)が宿所にしました。

崇徳上皇方が負けると、後白河天皇方は容赦なく追撃を加えます。その追撃戦の中で、源為義が宿所にしていた円覚寺(えんかくじ)も焼かれてしまいました。そんなエピソードでも円覚寺は歴史に記憶されています。

境内には清和天皇の御子・貞純親王(さだずみしんのう)の供養塔と伝えられる宝篋印塔があります。

円覚寺 貞純親王の供養塔
円覚寺 貞純親王の供養塔

貞純親王の息子の経基王(つねもとおう)が「源」の姓を賜り臣籍に下ったのが「清和源氏」の始まりと言われています(異説あり)。

清和源氏 系図
清和源氏 系図

本日は清和天皇の陵のある、京都市右京区水尾を歩きました。水の豊かな、景色の美しい集落です。嵐山や高雄にでかけた時には少し足をのばして、水尾まで、行ってみるのもいいと思います。

保津峡
保津峡

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