京都六角獄跡を歩く

こんにちは。左大臣光永です。カッと照り付ける日差しに頭がクラクラする昨今、いかがお過ごしでしょうか?

私は、夏は湿気が多く声の通りがよくなるので、その点においては、好きです。喉のジャリジャリ感を取り除くためにずいぶん発声練習をしないといけないんですが、夏は第一声からそこそこ使える声ができているのは湿気のせいでしょう。

本日は、発売中の商品「聴いて・わかる。新選組」
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と関連した旅の話題です。
幕末の凄惨な歴史を伝える、京都六角獄跡を歩きます。

▼音声が再生されます▼



六角獄の惨劇

元治元年(1864年)7月20日。

炎は、ものすごい勢いで、堀川二条城まで迫っていました。

六角獄跡への道
六角獄跡への道

禁門の変で京都御所が長州藩に攻撃され、撃退はしたものの、長州人は撤退する際、京都の家々に火を放ったのでした。後に「どんどん焼け」と呼ばれる大火災です。

「ごほっ、ごほっ…」
「くそっ、俺たちゃあどうなっちまうんだ!!」

堀川の西、二条城の南にある、六角獄まで煙は流れてきました。

六角獄は正式には三条新地牢屋敷といい、場所を転々としたあげく、宝永5年(1708年)の大火により六角通りに場所を定めたものです。宝暦4年(1754年)には、医学者山脇東洋による日本発の人体解剖が行われたことで知られます。

六角獄跡の碑
六角獄跡の碑

六角獄跡の碑
六角獄跡の碑

禁門の変が起こった当時、六角獄内には国事犯や過激な尊皇攘夷派の志士たちが収監されていました。生野の変の首謀者・平野国臣(ひらのくにおみ)、天誅組の変の水郡善之祐(にごりぜんのすけ)、乾十郎(いぬいじゅうろう)らはその最たるものでした。

「彼らを火事だからとて釈放すれば京都市内に潜伏し、二度と戻るまい。幕府に仇なす存在となることは必定。即刻、処刑せよ」

そう命じたのは、京都町奉行滝川具挙(たきがわともあき)です。

安政の大獄(1158年)によって六角獄に収監されていた村井正礼(むらいまさのり)は、獄舎の中で不安な夜を過し、朝を迎えました。

「なんなんだ、何がどうなっているんだ…ごほっごほっ、
だいぶ煙たくなってきた」

昼すぎ。

数人の役人が獄吏を先立てて入ってきました。

「平野国臣(ひらのくにおみ)、横田精之(よこたせいし)、大村包房(おおむらかねふさ)、本多素行(ほんだそこう)、表へ出よ」

呼ばれたのは生野の変・天誅組の変などの重要な関係者たちでした。といってもまだ十分に取り調べも受けていない、未決囚でしたが、ぞろぞろと連れ出されているのを見て、村井は確信しました。

「あれゃあ殺されるなあ…」

彼らは、元キリシタン牢があった東広場に集められました。

獄中の村井が、ともかく俺は呼ばれなかったと内心ほっとしていると、

我が胸の、燃ゆる思いに、比ぶれば、煙は薄し桜島山

平野国臣の辞世が高らかに響き、

ドスンッ

ゴトッ…

首をはねる音と、胴体が前に倒れる生々しい音が、牢内に響き渡り、

「う…うおっ…!!」

一連の音を聴いた村井の頭の中に、生々しい処刑現場のさまが、映像となって沸き起こりました。

刑場のそばの井戸では、斬るたびに刀や槍を洗い、夕刻まで三時間あまりのうちに未決囚を含む33名が処刑されました。

「これで、最悪の事態は防げた…」

ほっと胸をなでおろす京都町奉行滝川具挙。

ところが予想外なことに、炎は堀川の手前でぴたりと止まりました。

六角獄にまで火が及ぶことを想定して囚人たちを処刑したのに、これではただ無意味に殺しだけになってしまいます。知らせを受けた京都守護・松平容保は言葉を失います。

「なんという残酷!許しがたい!」

松平容保はすぐに滝川具挙を召しだし、厳しく事情を問い正します。普通なら、重罪に処せられるべき所です。

しかし…滝川具挙が処罰されることはなく、むしろ大目付に昇進しました。幕府としては国事犯を一気に処刑する口実が出来て、万々歳といったところだったのでしょう。

現在の六角獄舎跡

現在の六角獄舎跡は、マンションになっていて、当時の面影は何もありません。

現在の六角獄舎跡
現在の六角獄舎跡

現在の六角獄舎跡
現在の六角獄舎跡

しかし案内してくださった方は、

「子供ん頃、夕方このへん通るんは怖かったですわ。そら処刑場の後やからね~」

「みなさん京都ちゅうたら、華やかで、キレイな町や思て来はりますけど、
こうゆう、屍の上に屍を築いた凄惨な歴史があったんですわ。
そういう所も、目向けてほしい思いますわ」

そんなことを話してくださいました。

武信稲荷神社

六角獄跡のすぐ北の隣には、武信(たけのぶ)稲荷神社なる小さなお稲荷さんがあります。

武信稲荷神社
武信稲荷神社

平安時代初期、右大臣藤原良相(ふじわらのよしみ)が藤原氏の医療施設「延命院」の守護神として創設しました。その後藤原武信によって厚く信仰され「武信稲荷神社」と称されました。

境内に足を踏み入れ、まず目に入るのが樹齢850年榎の巨木です。平安時代末期、平重盛(清盛の息子)が、安芸の厳島から苗木を移したものと伝えられます。

武信稲荷神社 榎の巨木
武信稲荷神社 榎の巨木

六角獄の処刑の時、この榎の木の上に子供たちが登って、処刑現場を目撃したと伝えられます。

また、坂本竜馬と妻おりょうの伝説が残ります。

おりょうの父・楢崎将作(ならざきしょうさく)は勤皇の志士を支援した医師で、安政の大獄で捕えられ、六角獄へ収監されていました。

そこで竜馬とおりょうは、何度も六角獄に面会を申し入れますが、許されませんでした。

「おりょうさん、こうなったら、登るぜよ」
「えっ、坂本さま、何を」

ばっ。

坂本龍馬はおりょうを担ぎ明けて、よじっ、よじっ、よじっ、よじっ榎の木の上に登りあがり、六角獄の中をうかがった、ということです。

その後、龍馬は追われる身となり、なかなかおりょうとも会えなくなりました。そこで、二人で何度も登った榎の木に龍馬は二人の名前に共通の漢字である「龍」を書いて、おりょうに安全を知らせた、と伝えられます。

「まあこんなん、眉唾もんですわ。
後の人間が勝手に話つくりよったんですわ~」

案内してくれた方が、そう語っておられました。しかしまあ、ロマンですからね。榎は「縁の木」に通じることから、恋愛成就を願う人の参拝が多いということです。

武信稲荷神社
武信稲荷神社



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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。