神泉苑 京都最古の庭園を歩く

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こんにちは。左大臣光永です。日曜日の午後、いかがお過ごしでしょうか?
私は祇園祭前の京都に滞在中です。

京都駅の上~のほうまで上ると
足がすくむので、今まで何度も試みながら断念していたのですが、
先日、ようやく登ることができました。

さて本日は、平安京遷都以来1200年の歴史のある庭園・神泉苑(しんせんえん)を訪ねます。二条城のすぐ南です。二条城がつねに観光客でにぎわっているのに対し、閑散としてますが京都でも一番古い神社があり、静御前や小野小町、弘法大師空海の伝説が残ります。

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神泉苑へ

二条城南の堀に沿って押小路(おしこうじ)通りを西へ向かうと、

押小路(おしこうじ)通り
押小路(おしこうじ)通り

右手に二条城の南門が見えてきます。もともと二条城の南に門はありませんでしたが、大正天皇即位の際、天皇がお入りになるために作られたものです。

二条城の南門
二条城の南門

しばらく歩くと見えてきました。「京都 神泉苑平八」の文字。しかし、想像してたのと違います。庭園というより料亭のようです。事実、料亭でした。神泉苑の中には、料亭「平八」が、あるのでした。

神泉苑 入り口
神泉苑 入り口

入り口から覗くと、泉と、竜の頭が見えます。料亭で使っている屋形船です。この屋形船は固く固定されていて動かないのですが、中で食事をすることができ、料亭「平八」の目玉だそうです。

神泉苑
神泉苑

神泉苑は延暦13年(794年)桓武天皇が平安京造営に際し、大内裏裏手の沼沢地を開いて苑としたのが始まりです。

当初は二条通りから三条通りに到る南北500メートル、東西240メートルの広大な苑でした。たえず清水がわき出るのでその名も神泉苑と名付けられ、代々、天皇や貴族が舟遊びや管弦の遊びにふけりました。

神泉苑
神泉苑

慶長8年(1603年)徳川家康の二条城造営によって大きく削られ、現在はごく小さいエリアになっています。長い歴史のある場所ですから、さまざまな伝説が残ります。

空海の祈雨

天長元年(824年)うち続く日照に、人々は悩んでいました。

「空海よ、やってくれるか」
「ははっ、この空海微力を尽くしましょう」

時の淳和天皇は東寺の僧空海に雨乞いの修法を行うよう命じました。

ざっ。

神泉苑の縁に立つ空海。

「むんむんむんむん、善女竜王(ぜんにょりゅうおう)よ、雨をふらせたまえ。
むんむんむん、雨をふらせたまえ」

空海はインドの雨乞いの神、善女竜王に祈ります。

すると、一天にわかにかき曇り、

ゴロゴロゴロ、ドザーーー

「おお、雨だ、雨だ」

喜ぶ人々。その時、

ざばざはざばざーーーー

「おお!」「あああ!!」

神泉苑の泉から、巨大な竜が姿をあらわし、空海を見下ろし、

「願い、聞き入れた」

「感謝」

このようなことがあって以来、神泉苑は竜のすむ泉としても覚えられるようになります。この時、東寺の空海とともに西寺(さいじ)の僧守敏(しゅびん)も雨乞いの修法を命じられていましたが、一週間祈っても何の効果もなく、空海の勝利となりました。以後、神泉苑は東寺の支配下に入りました。

また小野小町の雨乞いの話も伝わっています。

ああ…日照り続きだ。こう雨が降らないと、やってられない。
穀物も枯れる。そんな時、わかりました。私がやってみましょう。
神泉苑を訪れた小野小町が詠みました。

ことわりや 日のもとならば照りもせめ
さりとてはまた あめが下とは

なるほど道理ですね。日本のことを日のもとというから
日照り続きなのは。しかし、そうはいっても
天下のことを天の下とも言うじゃないですか。
それならば、雨をふらしても、いいわけですわ。

すると、神泉苑の池の主である龍が、
うむ。なるほど。さすがは小野小町。
ザザーーと雨が降ってきた、という話です。

祇園祭の発祥

貞観(じょうがん)5年(863年)都に疫病が流行りました。

当時疫病は悪霊のしわざと考えられており、天皇以下天下万民恐れをなしました。

そこで、神泉苑の南端に66本の矛を立て、御霊会(ごりょうえ)を行います。66は当時の全国の国の数です。そして祇園社(現八坂神社)からスサノオノミコトはじめ三台の神輿を迎え、厄払いをしました。後には矛に車をつけ、飾り物を施して、京の町を練り歩く、祇園祭となります。

矛を立てた神泉苑南端は、現在三条通り商店街のど真ん中で、ここには八坂神社御供社(やさかじんじゃごくうしゃ)が建っています。この時期(7月初旬)は、祇園祭の準備で忙しそうにしていました。

三条通り商店街
三条通り商店街

八坂神社御供社
八坂神社御供社

平安時代中期、醍醐天皇が神泉苑に行幸されました。その時、泉のほとりに一羽の鷺がただずんでいました。それを見て醍醐天皇、おっしゃいます。

「あの鷺を、捕まえてまいれ」

「ははっ」

命じられて召使が鷺を捕まえようしずっ、しずっ、近づきますが、

ばさっ…

鷺は軽くよけて、飛び立ちます。

「無礼者がッ!帝の御意であるぞ。戻れッ」

すると鷺はばさっ…と舞い降り、首をくてんと垂れ、地面にはいつくばったので、すっ…と、これを捕え、帝の御前に献上すると、

「うむ。感心な鷺じゃ。そのほうに五位の位を授けよう」

鷺に五位の位を授けました。五位鷺のゆらいです。

源義経と静御前

平安時代末期、一説には1182年7月。

長い日照続きで天下の人々は困っていました。

比叡山・三井寺・東大寺・興福寺などの高僧貴僧を招いて祈らせるも、何の効果もありません。

「この上は、神泉苑の泉のほとりで白拍子を舞わせたら、竜神が感激して雨を降らせてくれるかもしれません」そんな話になりました。

そこで九十九人の白拍子に舞を舞わせるも…まったく効果は無し。

「やはり無理か…」

後白河法皇、つくづくご落胆なさいますが、

「法皇さま、眉目秀麗で舞の上手と評判の白拍子・静という者がございます。
最後にこの者に舞わせてみましょう」

「…九十九人に舞わせて無理だったものを、
いまさら静一人舞わせたとて、どうなるものでもあるまい。
しかし、最後の頼み」

そこで静を召して、神泉苑の舞台に立たせると、静は白雪の袖をめぐらしてゆったり舞い始めると、愛宕山の方角から黒雲が起こり、以後、三日間の大雨。

「まこと静は日本一の舞の上手よ」

後白河法皇は感心され静に褒美を取らせます。

「静…なんと美しい」

武将源義経は、この時、静御前を見初めたと伝えられます。

さて神泉苑の中に足を踏み入れます。

神泉苑
神泉苑

大池と中島、大池にかかる法成橋(ほうじょうばし)が目を引きます。

神泉苑 法成橋
神泉苑 法成橋

法成橋のたもとには本殿があり不動明王と弘法大師空海を祭ります。

神泉苑 本殿
神泉苑 本殿

法成橋をわたった中島に立つのが空海がインドから勧請したという善女龍王を祀る善女龍王社の社殿です。

善女龍王社
善女龍王社

本来はこっちが正門だったんですね。今回は裏手から入ってしまいました。失礼しました。

泉には鷺や鴨、そして二羽のアヒル(アーちゃんとルルちゃん)がいます。

アーちゃんとルルちゃん
アーちゃんとルルちゃん

この日は社殿前の広場でゆたーとくつろいでいました。アーちゃんとルルちゃんは神泉苑のシンボル的存在になっているようです。神泉苑の公式ウェブサイトを見ると「アヒル日記」のコーナーがあり、微笑みをさそわれます。

※アーちゃんは平成28年6月にお亡くなりになったそうです。心よりご冥福をお祈りいたします。

先代の住職に追っかけられた話

私がアーちゃんとルルちゃんの背中をなでくり回していると、「どっから来なはりました」

ご老人が話しかけてきました。東京です。

ほうでっか。ここは京都で一番古い神社ですけどな、二条城はぎょうさん人来ますけども、、神泉苑はあんま来えへんですな。よほど歴史好きな方だけです。

ああ、そうですかねえ。

私はそこの三条の南に子供の時分から住んどるんですわ。ああ、いい所にお住まいですね。いやいや、なかなか京都ちゅんはドロドロした土地ですけどな、この界隈は子供の時分の遊び場でしたわ。この池でようけ魚つかまえて、先代の住職においかけられましたわ。子供相手にコラーーちゅうて本気になって追っかけてきよりましたからな。

…そんな話をしてくれました。

この方とひととおり話が盛り上がった後、近くの三条商店街や六角獄跡を案内してもらいました。というわけで次回は幕末の凄惨な歴史を今日に伝える六角獄跡を歩きます。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

次の旅「晴明神社を歩く

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