大和郡山を歩く

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こんにちは。左大臣光永です。

ひさしぶりに京都御苑に行ったら、中立売御門そばに新しい休憩所がオープンしてました。ホテルのロビーのようにきれいな休憩所です。アイスコーヒーを注文したら、ストローがプラスチックでなく厚紙製ストローでした。なんか特別感があって、よかったです。

本日は大和郡山(やまとこおりやま)を歩きます。

大和郡山は奈良県北部にあって、江戸時代に柳澤氏15万石の城下町として栄えました。金魚の産地としても知られます。町中を掘割の水路が走り、城下町の風情がただよいます。少し足を伸ばせば、壬申の乱の舞台となった稗田(ひえだ)の環濠集落があります。

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郡山の町並み

近鉄郡山駅下車。駅の東側に旧城下町が広がっています。豊臣秀長が郡山城主であったころ、奈良や堺の商人を移住させ、「箱本十三町(はこもとじゅうさんちょう)」とよばれる13の自治組織を作らせました。

彼らは土地に対する税「地子(じし)」を免除され、治安維持・消火活動などの自治に当たりました。御朱印箱を持ち回ったため「箱本13町」と呼ばれました。現在も、紺屋町・魚町・塩町など地名が残っています。

中にも紺屋町は藍染職人が集まった職人町でした。東西に細長い町で、町の中心に細い紺屋川が流れています。

紺屋町の町並みの中に、ひときわ風情ある町家がたたずみます。

箱本館「紺屋」は、江戸時代から藍染を営む奥野家の町家を資料館として再生したものです。藍染に使う道具や、藍染職人の生活用具を展示してあり、藍染の体験もできます。また金魚をモチーフにした工芸品が展示してあります。

金魚は中国南部で発見されたフナの突然変異である赤いフナが先祖とされ、日本には室町時代の文亀2年(1502)、大坂の堺に伝えられました。郡山には柳澤吉里(やなぎさわ よしさと)が甲府から転封した際に、家臣が観賞用に持ち込んだといいます。

郡山では幕末から明治にかけて金魚の養殖がさかんに行われ、現在も金魚の産地として知られています。

郡山城跡

近鉄郡山駅東口の大通りを北上。左に三の丸緑地をみながら進むと、郡山城が見えてきます。

地蔵尊のところで左に折れると、郡山高校正門前に柳澤神社の鳥居があります。この先が、郡山城の本丸です。

郡山城は西の京丘陵の南端に築かれた平山城です。天守台のある本丸を中心に、内堀・中堀・外堀の三重の堀によって囲まれています。

特に内堀はほぼ完全に残っています。堀の中にそびえる石垣のさまも見事です。

天正8年(1580)、織田信長に属した筒井順慶が、松永久秀を討って大和統一をなしとげた後、筒井(奈良県大和郡山市筒井町)から郡山に転封。郡山城の基礎を築き、

天正13年(1585)「大和大納言」といわれた豊臣秀長(秀吉の弟)が、和泉・大和・紀伊100万石の城主として入城。郡山城の拡張工事を行い、城下町を繁栄させるため、奈良や堺の商人を呼び寄せ、「箱本13町」と呼ばれる自治組織をつくりました。

秀長の後、養子の秀保(ひでやす)が、ついで文禄4年(1595)増田長盛(ました ながもり)が20万石で入城しました。増田長盛は秋篠川の流れを変えて外堀の一部として利用しました。

増田長盛はしかし関ヶ原で西軍に与したため、戦後、郡山城は一時廃城となりました。しかし京都・大坂に近い交通の要衝であったため元和元年(1615)復興し、水野氏、本多氏、松平氏といった譜代大名が城主をつとめました。

享保9年(1724)五代将軍綱吉の側用人・柳澤吉保の子・吉里が15万石の大名として甲府から転封してきます。以後、6代145年にわたって続きました。

明治になって城は破却されましたが、石垣や堀が往時のまま残り、現在、城址公園として整備されています。多門櫓や追手門(おうてもん)が復元されています。

柳澤神社

江戸時代の藩主・柳澤吉里の父で初代柳澤家大名の柳澤吉保公を祀ります。明治13年旧郡山藩士による創立。

天守台

本丸北端に天守台が残ります。

のぼります。東側の眺望が特にすばらしいです。薬師寺・平城宮跡・東大寺・興福寺・春日大社・若草山が一望できます。

野面積みの石垣にはたくさんの「転用石材」が組み込まれています。郡山城築城の際は石仏や平城京の羅城門まで崩して石材として使ったのです。ことに天守台北面の「逆さ地蔵」が有名です。

柳澤文庫

追手門。

そばに昭和35年(1960)開設された、図書館「柳澤文庫」があります。柳澤家の書画や、郡山藩の資料を所蔵しています。

郡山城を後に、少し離れになりますが、稗田環濠集落をたずねます。

JR郡山駅から県道144号線を東へ5分。佐保川を越え、

右にファミリーマートが見えたら右に曲がり、徒歩10分で稗田の環濠集落につきます。

奈良盆地を南北に貫く旧下つ道に沿った、環濠集落(堀に囲まれた集落)です。『日本書紀』には壬申の乱で稗田で戦いがあったと記されています。

賣太神社

稗田環濠集落の南西隅に稗田阿礼(ひえだのあれ)の住居跡と伝えられる賣太(めた)神社が鎮座します。

稗田阿礼は記憶力にすぐれ、天武天皇によって『帝王日継』『先代旧辞』を暗記させられたといいます。30数年後、元明天皇の勅命で、太安万侶が稗田阿礼の記憶を書き取ったものが『古事記』であるといわれます。

「語り部」たる稗田阿礼を祀りますから、賣太神社は「知恵の神・記憶力の神・お話の神」として親しまれてきました。境内に「かたりべの碑」が立ちます。

まさに当方の仕事に関係した神社ですので、しっかり拝んできました。

毎年8月16日には阿礼祭(あれさい)が行われます。

羅城門跡

稗田環濠集落から北へ20分ほど歩くと、平城京の羅城門跡です。佐保川にかかる羅城門橋の上に看板が出ています。

羅城門は平城京の正門であり、奈良盆地を南北につらぬく下つ道のライン上にありました。ここから幅75mの朱雀大路が3.7キロ北の朱雀門までのびていました。

佐保川のはるか先に、平城宮跡の復元朱雀門、復元大極殿が望めるはずでずが…私の視力では見えませんでした。

本日は大和郡山を歩きました。江戸時代に柳澤氏15万石の城下町として栄え、現在も町中を掘割の水路が走り、城下町の風情がただよいます。金魚の産地としても知られます。町中を掘割の水路が走り、城下町の風情がただよいます。

奈良を訪れた際には、少し足をのばして大和郡山を訪ねてみてください。

大石内蔵助と元禄赤穂事件(松の廊下篇)オーディオCD版
https://sirdaizine.com/CD/Oishi-info.html

「忠臣蔵」として有名な「元禄赤穂事件」。家老大石内蔵助、藩主浅野内匠頭長矩の系譜、刃傷松の廊下、赤穂城引き渡し、内蔵助の山科隠棲…特に、大石内蔵助と堀部安兵衛の関係を軸に語っています。

京都で学ぶ歴史人物講座~足利義昭 10/26
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将軍の座を追われながらも中国毛利領に亡命し、広島鞆の浦で独自に活動をつづけた、最後の将軍足利義昭。その数機な生涯について語ります。

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