雑司ヶ谷を歩く

■【古典・歴史】メールマガジン

こんにちは。左大臣光永です。先日は北野天満宮の月次縁日に行ってきました。暗くなってから行ったので、立ち並ぶ石灯籠とぼんぼりに灯った灯りが、オレンジ色にぼうっと輝いて、きれいでした。テキ屋がバタバタと屋台をたたんでいるのも、祭の終わりの風情で、よかったです。

本日は東京・雑司ヶ谷を歩きます。

雑司ヶ谷は古き良き東京の風情の残る町です。明治・大正・昭和の文学者や著名人の眠る雑司ヶ谷霊園、雑司ヶ谷宣教師館、大鳥神社に雑司ヶ谷鬼子母神。池袋の繁華街のすぐ隣でありながら、落ち着いた風情が楽しめます。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

https://roudokus.com/mp3/Zoshigaya.mp3

告知

特典終了間近『徒然草』DL版・DVD-ROM版
特典「兼好法師の生涯」は1/31まで
https://sirdaizine.com/CD/TsurezureInfo2.html

2/24(日) 京都で、声を出して読む 小倉百人一首
https://sirdaizine.com/CD/KyotoSemi_Info.html

JR池袋駅東口から明治通りに出て、目白方面に少し進み、左にジュンク堂書店が見えたら右隣のあづま通りに入ります。

騒がしい明治通りとはガラリと雰囲気がかわり、古き東京の風情が出てきます。

青空をバックにサンシャイン60と豊島区役所ビルが映えます。

都電の線路を渡るとすぐに雑司ヶ谷霊園です。

雑司ヶ谷霊園。総面積10万6000平方メートルの敷地内に、明治大正昭和の文豪や著名人の墓が多く見られます。

夏目漱石、

永井荷風、

泉鏡花、

竹久夢二、

島村抱月、

ジョン万次郎、東条英機…

管理棟事務所で地図をもらえるので、地図を片手に歩くのがおすすめです。

私は若い頃、毎晩のようにここ雑司ヶ谷霊園で発声練習していました。夜の墓場は声が通って気持ちいいのですよ。サンシャイン60が見えるのも、最高です。もし墓地の真ん中に家が建っていたら、住みたかったです。

夏目漱石『こころ』に、雑司ヶ谷霊園は印象的に描かれています。

墓地の区切り目に、大きな銀杏(いちょう)が一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高い梢を見上げて、「もう少しすると、綺麗ですよ。この木がすっかり黄葉して、ここいらの地面は金色の落葉で埋まるようになります」といった。先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのであった。

夏目漱石『こころ』

雑司ヶ谷宣教師館

雑司ヶ谷霊園中心部から東南に徒歩約5分。雑司ヶ谷宣教師館があります。

雑司ヶ谷宣教師館。

アメリカ人宣教師J.M.マッケーレブが明治40年(1907)建てた自宅兼・布教所です。現存する豊島区内最古の近代洋風建造物です。木造コロニアル風総ニ階建て。19世紀後半のアメリカ郊外住宅の建築様式です。

ジョン・ムーディー・マッケーレブは1861年、アメリカテネシー州ナッシュビル郊外の生まれ。子供の頃、南北戦争で両親を失い、27歳でケンタッキー州レキシントンのカレッジ・オブ・バイブルに入学。先輩宣教師の影響で日本伝導を決意。

1892年、32歳で日本に渡り、東京の各地でキリスト教の教えを広めました。1907年より雑司ヶ谷に移住。以後34年間、雑司ヶ谷を拠点に伝道活動を行いました。1941年、太平洋戦争のはじまる直前に帰国しました。

外からみると洋館ですが、家の中は天井の格子部分に竹が使われたり、日本的なものが所々に取り入れられています。

二階には明治の雑司ヶ谷の模型が展示してあります。昔は畑とたんぼだけだったんです。こんなにもにマンションが立ち並ぶとは、マッケーレブ氏も思わなかったでしょう。

都電荒川線の線路まで戻ります。線路脇に、大鳥神社。

正徳2年(1712)、出雲藩主松平出羽守の嫡男が疱瘡にかかりました。それで千歳橋近くの高田村の下屋敷で療養していました。出雲国鷺大明神に祈ったところ、治りました。

それで感謝して、鬼子母神境内に出雲国鷺大明神を勧請したのが始まりです。

明治の神仏分離令で雑司ヶ谷鬼子母神と切り離され、神社となりました。毎年11月の酉の市は賑わいます。

私は若い頃、境内でよく発声練習しました。お世話になりました。

雑司ヶ谷鬼子母神堂

大鳥神社を後に住宅街の中を東に少し進むと、

雑司ヶ谷鬼子母神堂です。

途中、建物の合間に東京音楽大学のカッコいい建物が見えます。

雑司ヶ谷鬼子母神堂は、正式には法明寺鬼子母神堂。室町時代の永禄4年(1561)今の文京区目白台あたりで掘り出された鬼子母神像を、武芳(たけよし)稲荷の境内に移したのが始まりとされます。

本殿・幣殿・拝殿の3つからなり、本殿は寛文4年(1664)四代家綱の時、安芸広島藩主浅野光晟(あさの みつあきら)の正室による寄進です。

本殿あたりから、サンシャイン60と豊島区役所ビルがカッコよく見えます。

鬼子母神のゆらいはあまりに有名です。その昔、インドに訶梨帝母(カリテイモ)なる女神がいました。王舎城の夜叉神の娘でたくさんの子がいました。

しかし訶梨帝母は凶暴でした。近所の幼児をさらっては、食いまくっていました。そこでお釈迦様は、訶梨帝母の過ちをやめさせようと、その末の娘を隠してしまいます。

ああわが子はどこへ行ったの!嘆き悲しむ訶梨帝母。そこでお釈迦様は言うのです。千人いる子のうち一人を失ってもそれほど悲しいのだ。まして子を奪われた親の気持ちはどうであろうと。

そこでカリテイモはそれまでの過ちに気づき、お釈迦様に帰依し、安産・子育ての女神として信仰されるようになったということです。

ここ雑司ヶ谷鬼子母神の鬼子母神像は、鬼の形ではなく角のない美しい菩薩の姿をしていることから、「鬼」の字の上の「ツノ」をはぶいて、「雑司ヶ谷鬼子母神」と表記されています。

上川口屋

境内の上川口屋は創業1781年の老舗の駄菓子屋。

昔なつかしい駄菓子を商っています。1781年といえば天明元年。十代将軍家治のもと、田沼意次が台頭し、天明の飢饉があった頃です。そんな昔から!歴史が生きてますね!

以前は店先にのんびり猫が寝てたんですが…最近では見られなくなったのが寂しいです。

雑司ヶ谷鬼子母神堂の西隣には鬼子母神大門(きしもじんだいもん)欅並木(けやきなみき)があります。

風情のある通りです。私は学生時代、何百回通ったかわかりません。

通りの途中の路地の奥には、手塚治虫の下宿跡があります。以前は案内板があったのですが…今は無くなったようです。

法明寺

雑司ヶ谷鬼子母神から北へ200メートルほど行ったところに法明寺があります。

嵯峨天皇の御代の弘仁元年(810)に真言宗の寺院として創建されました。はじめ威光寺といいました。

正和元年(1312)日蓮上人の弟子・日源上人によって日蓮宗「法明寺」に改められました。江戸時代には代々の将軍の尊崇を受けました。関東大震災で倒壊したりや昭和20年の戦災で焼けましたが、そのたびに再建され、今に至っています。

この法明寺の参道が広々してなんとなくいい空気なんですよ。私は大学時代、このへんが帰り道だったので、なつかしいです。目白から雑司ヶ谷を経て池袋の自宅まで戻っていました。法明寺の参道は特に、大学時代の思い出がこみ上げて、しみじみします。

次回は愛知の犬山城を歩きます。お楽しみに。

聴いて・わかる。『徒然草』ダウンロード版・DVD-ROM版
https://sirdaizine.com/CD/TsurezureInfo2.html

『徒然草』全243段を、すべて原文と、現代語訳で朗読し、必要に応じて補足説明を加えた音声とテキストです。全14.6時間にわたって、たっぷり、とことん解説しています。

京都で声を出して読む 小倉百人一首
2/24(日)開催
https://sirdaizine.com/CD/KyotoSemi_Info.html

66番前大僧正行尊~

■【古典・歴史】メールマガジン