伏見桃山を歩く(一)御香宮神社・伏見奉行所跡・魚三楼
本日は伏見桃山を歩く(一)です。
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神功皇后を祭る御香宮(ごこうのみや)神社は、幕末の鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍(薩長)が陣地を置きました。その近くには伏見奉行所跡、鳥羽・伏見の戦いの弾痕が残る老舗の料亭・魚三楼(うおさぶろう)があります。
近鉄京都線・桃山御陵前駅、もしくは京阪本線・伏見桃山下車。徒歩5分。駅降りて東向くと御香宮神社の大鳥居が立っています。
御香宮神社
御香宮神社は、神功皇后はじめ仲哀天皇・応神天皇ほか六柱の神々を祭る、安産守護の神社です。はじめ御諸(みもろ)神社といいましたが、貞観4年(862)9月9日、境内より香り立つ湧き水が湧いたので、清和天皇より「御香宮」の名を賜りました。
天正18年(1590)豊臣秀吉が太刀と願文を奉納し、朝鮮出兵の成功を祈りました。天正19(1591)秀吉は伏見城を築くと、城内北東(艮)に御香宮神社を勧請して、鬼門除けとしました。
慶応4年(1864)1月、鳥羽・伏見の戦いの時、官軍(薩長)が陣地を起き、近くの伏見奉行所に立てこもる新政府軍を砲撃しました。
表門
表門です。元和8年(1622)御三家水戸徳川家の祖・徳川頼房が伏見城の大手門を拝領して寄進したもの。徳川頼房はかの水戸黄門のお父さんです。
伏見義民の碑
境内に入ると、左に伏見義民の碑。
天明5年(1785)、時の伏見奉行・小堀政方(こぼり まさみち)の圧政を幕府に直訴した文殊九助以下7人の「伏見義民」を記念した石碑です。
直訴によって小堀政方は罷免されましたが、直訴した文殊九助以下7人らも捕らえられ、獄中で病死しました。しかし民衆を救ってくれた義民であるということで、ここに祀ってあるわけです。
桃山天満宮
参道右手の桃山天満宮は菅原道真公を祀ります。
境内にある石は伏見城の遺構です。
芭蕉・去来の句碑があります。
梅の香(か)に のっと日の出る 山路かな 松尾芭蕉
梅の香りが漂う中、山路を歩いていると、のっそりと日が出てきた。
拝殿
天満宮を後に参道を進みます。
参道正面に拝殿。奥に本殿。
拝殿は寛永2年(1625)紀伊徳川家初代・徳川頼宣の寄進によるもの。唐破風軒下の彫物がカラフルでことに目を惹きます。
酒の名所・伏見だけあって、酒の奉納が目につきます。黄桜カッパカントリー、月桂冠大倉記念館もこのすぐ近くです。
本殿
本殿です。さらにカラフルです。
五間社流造の社屋に、いたる所に極彩色の彫刻が施され、豪壮華麗な桃山文化の息吹を今に伝えます。慶長10年(1605)徳川家康が京都所司代・板倉勝重に命じて造営させました。
※五間社流造…建物正面の「柱と柱の間」が5つあり、屋根が流れるような「流造」になっている建物。
神功皇后
御祭神の神功皇后について。
神功皇后は『古事記』『日本書紀』に登場する、半ば伝説的な人物です。12代仲哀天皇の皇后。名はオキナガタラシヒメ(『古事記』では息長帯比売、『日本書紀』では気長足姫)。
『古事記』『日本書紀』によると、
仲哀天皇が熊襲討伐の途中、神託に背いて亡くなったことに伴い、熊襲を討伐。さらに翌年、神託に従って新羅討伐の軍を起こし、新羅、高句麗・百済を討伐して従わせる。
日本に戻って来る途中で身ごもり、北九州で生まれたのがホンダワケノミコ=後の15代応神天皇です。
九州から大和に戻る途中、仲哀天皇の息子の忍熊王(おしくまおう)・篭坂王(かごさかおう)が反乱を起こしたため、これを討伐。
応神天皇即位まで補佐して政治を行いました。
神功皇后のおそばに常にお仕えていた武内宿禰(たけのうちのすくね/たけしうちのすくね)は、蘇我氏の祖と言われています。
御香水
本殿むかって左には、神社の名の由来ともなった御香水(ごこうすい)が湧き出しています。
伏見の七名水の一つで、徳川御三家それぞれの初代、義直(尾張)、頼宣(紀伊)、頼房(水戸)が産湯をつかったといいます。今も水はこんこんと湧き出しています。伏見は水の都です。だから酒も美味しいんですね。
遠州ゆかりの石庭
社務所の向こうには小堀遠州ゆかりの石庭があります。
小堀遠州が伏見奉行に任じられた時、奉行所内に作った庭園の石を戦後この場所に移してきたものです。
元和9年(1623)小堀遠州が伏見奉行として赴任。その任期中の寛永11年(1634)将軍徳川家光の上洛があり、小堀は家光を伏見奉行所内に迎えました。その見事な庭園に感激した家光は、小堀遠州を五千石加増して大名としました。
だから小堀遠州にとっては出世の糸口となった重要な庭というわけです。明治時代以降は陸軍工兵隊、米軍キャンプとなり、昭和32年、市営住宅地になったのを機にこの地に移されました。
座敷には神功皇后が我が子・ホンダワケノミコ=応神天皇を抱いた像が並んでいました。
これは…見るからに聖母マリアのイメージなんですが…神功皇后の「武人」としての面と、「母」としての面が感じられます。
御香宮神社近くの桃陵(とうりょう)団地の入り口には、伏見奉行所跡の碑が立ちます。
伏見は太古から巨椋池に接し、また宇治川・木津川・淀川の中継点として、水運の拠点でした。
豊臣秀吉は伏見の水運に目をつけ、堤防を築き、城を建て、水路を開削して伏見を港湾都市として整えました。慶長19年(1614)角倉了以(すみのくらりょうい)が高瀬川を開削したことで、洛中と伏見が直結され、伏見は水運の中継点としていよいよ栄えます。
一日に1000隻もの舟が行き交い、水路沿いには多くの旅籠屋・船宿が立ち並び、四軒の本陣もありました。また伏見は古く「伏水」と書いて、湧水の豊かな場所です。それを活かして酒造りでも大いに栄えました。
伏見奉行は江戸幕府の役職。伏見と伏見つき幕府領の司法・行政を行いました。また宇治川・木津川・淀川を行き交う船の管理も行いました。
かの小堀遠州も伏見奉行として赴任したことがあります。慶応3年(1867)6月最後の伏見奉行・林忠交(はやし ただかた)が死んだ後は空席となり、京都町奉行の管轄となりました(といってもすぐ来年には明治維新ですが…)。
慶応4年(1864)正月3日、4日の鳥羽伏見の戦いで、会津、桑名、新選組など旧幕府軍が伏見奉行所に本陣を置きます。しかし御香宮神社に本陣を置く新政府軍の砲撃を受け、焼失しました。
御香宮神社から伏見奉行所跡は徒歩5分。直線距離400メートルほど。近いです。そりゃ大砲もドカドカ命中するわけです。
明治維新後は親兵(近衛兵)が、ついで工兵第十六大隊が置かれ、戦後は米軍キャンプ場となりますが、日本返却後、桃陵団地となりました。
魚三楼
駅前通リに戻り、西に向います。近鉄桃山御陵前駅と京阪伏見桃山駅の間の、一つ目の角を左(南)に折れます。町屋の多い、風情のある通りです。右に見えてきたのが魚三楼(うおさぶろう)です。
江戸時代からの営業している老舗の料亭です。
鳥羽・伏見の戦いの弾痕が格子のところに残っています。
慶応3年(1867)12月9日、「王政復古の大号令」が出されたことで徳川幕府は終わりとなりました。12月12日、前将軍徳川慶喜は二条城を出て大阪城に遷ります。
当初、江戸幕府が廃止といっても将軍家や家臣の領土は残されると考えました。しかし、新政府軍は徳川の領土はすべて没収、その上徳川慶喜の官位も取り上げると言っています。
これに怒りをたぎらせた旧幕臣および会津・桑名の藩兵は、翌慶応4年(1868)正月2日、大阪を出て京都を目指しました。
これに対し新政府軍は薩摩・長州・土佐などの藩兵を鳥羽・伏見に繰り出し、旧幕府軍を迎え撃たんとします。
翌正月3日。城南宮南東500メートルの小枝橋(こえだばし)戦が始まります。ついで伏見でも戦端が開かれました。
正月4日、5日と戦いは続きましたが、仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王が錦の御旗を掲げて出陣すると新政府軍は官軍となり大いに士気上がり、旧幕府軍は八幡(やわた)方面に撤退していきました。
その間の戦いで伏見は南半分はすっかり焼け野が原となりました。しかし幸いに魚三楼の建物は焼け残り、戦いの激しさを今に伝えているわけです。