駒込 六義園を歩く

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こんにちは。左大臣光永です。

お盆も近づく週の半ば、いかがお過ごしでしょうか?
まずは前回の訂正です。永井隆博士の妻は原爆投下時に
亡くなったので、如己堂には暮らしていませんでした。
訂正してお詫びいたします。
ご指摘いただいた方々、ありがとうございます。

さて本日は、東京駒込の六義園を歩きます。
六義園は五代将軍徳川綱吉の信任篤かった柳沢吉保の築いた庭園で、
緑多く涼しい風が吹き、都会の中にあって浮世離れした雰囲気が楽しめます。

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JR山の手線駒込駅で降りて、本郷通りを皇居方面に向かって進み、サンクスが見えてきたら右に折れます。見えてきました。六義園の入口です。

JR駒込駅
JR駒込駅

六義園入口
六義園入口

六義園

六義園は五代将軍徳川綱吉の信任厚かった川越藩主・柳沢吉保が元禄15年(1702年)に駒込の別邸に築いた回遊式築山泉水庭園です。7年の歳月をかけて作られ、小石川後楽園と並び、江戸の二大庭園と称されました。

明治時代に入り三菱の創業者・岩崎弥太郎の別邸になります。昭和13年岩崎家から東京市に寄贈されました。昭和28年(1953)国の特別名勝に指定されます。

六義園の一番の特徴は、「和歌」を中心とした庭造りにあります。創設者柳沢吉保の文芸趣味を反映し、和歌や中国の古典にちなむ景色を「八十八境(はちじゅうはっきょう)」(=和歌や古典にちなんだ八十八の景観)として作り上げています。

「六義園」という名前の由来は、『古今和歌集』序文(仮名序・真名序)にある、六種類の歌の分類法(漢詩は風、賦、比、興、雅、頌。和歌は、そえ歌・なぞらえ歌・たとえ歌・ただごと歌・いわい歌)によるものです。六義園と書いてもとは和風に「むくさのその」と呼ばれていましたが、現在は漢音読みでりくぎえんといっています。

内庭大門~しだれ桜

受付からすでに涼しげな風が漂っています。地図を見ると、池を中心に、時計回りに回るのがよいようです。

六義園受付
六義園受付

明治時代に岩崎家の所有であった頃の雰囲気を残す「内庭大門」をくぐると、しだれ桜が広場の真ん中にデーンとそびえています。京都丸山公園のしだれ桜を思い出しました。

六義園 内庭大門
六義園 内庭大門

六義園 しだれ桜
六義園 しだれ桜

中の島を見渡す

しだれ桜を後に道なりに進んでいくと、

六義園
六義園

ぱっと視界が開けて大泉水(だいせんすい)とよばれる泉が見えます。正面の中の島には二つの山があり、左の山が妹山(いものやま)で右の山が背山(せのやま)です。

大泉水・妹山・背山
大泉水・妹山・背山

いもせ山 中に生(はえ)たる 玉ざさの
一よのへだて さもぞ 露けき

藤原信実 新撰和歌六帖

妹山と背山との間に生えた笹竹の、節と節の間の、
そんな短い一夜を隔てただけでも、
私はこんなにも悲しみの涙に暮れるのです。

「玉ざさ」の「玉」は、単語を美しく飾るための「美称」で、
意味はありません。ようは、笹のことです。

「ひとよ」は竹の一節という意味の「一節」と、
一晩という意味の「一夜」を掛けています。

六義園のモデルとなった紀州和歌の浦には妹背山とよばれる島があります。妹背とは、夫婦、または兄と妹を指し、夫婦円満、子孫繁栄の願いがこめられているようです。

また紀ノ川の流域吉野にも妹山・背山は実在し、万葉の歌枕になっています。浄瑠璃「妹背山女庭訓」でも有名です。

六義園 蓬莱島
六義園 蓬莱島

六義園 臥龍石
六義園 臥龍石

所々にアカマツが見事にそそり立ち、力強い感じです。

六義園 アカマツ
六義園 アカマツ

滝見茶屋・水分石

今度は少し山道に入っていくと、「滝見茶屋」というあずまやがあります。近くの滝の音を聞きながら、ボサッとするのはいい感じです。奥に見える橋は千鳥橋です。

滝見茶屋
滝見茶屋

千鳥橋
千鳥橋

滝が池に流れ落ちた所にある岩を「水分石」(みずわけいし)といい、ここから水の流れが三つに分かれるという趣向です。

水分石
水分石

吹上茶屋

さらに泉沿いの道を進んでいくと、吹上茶屋があり、ここでは泉をながめながら抹茶などを楽しむことができます。「吹上」は六義園のモデルとなった紀州の「吹上」という地名にちなんだものです。

吹上茶屋
吹上茶屋

吹上茶屋
吹上茶屋

随所に紀州吹上の景色を再現してマツが植えられており、目を引きます。

マツ
マツ

藤代峠

吹上茶屋から白鷗橋(はくおうばし)をわたります。池水のどよんとよどんだ感じは、母校学習院大学の血洗いの池を思い出しました。

白鷗橋(はくおうばし)
白鷗橋(はくおうばし)

白鷗橋(はくおうばし)
白鷗橋(はくおうばし)

次はいよいよ六義園散策のクライマックス、藤代峠です。

藤代峠入口
藤代峠入口

ふぢしろの みさかをこえて 見わたせば
かすみもやらぬ 吹上の浜

僧正行意 続後撰集

藤代坂を越えて見渡せば、霞もまだ晴れない中に、吹上の浜の気色が見渡せる。

六義園のモデルとなった紀州の和歌浦の対岸には、有馬皇子の悲劇の舞台となった「藤代坂」があります。

658年、中大兄皇子の従弟である有馬皇子は、謀反の疑いをかけられ、紀州牟婁の湯に行幸中の斉明女帝のもとに引っ立てられ、紀州藤代坂で処刑されました。19歳でした。詳しくはこちら「有馬皇子の変」

道すがら有馬皇子が詠んだ歌が『万葉集』に残っています。

家にあれば 笥(け)に盛る飯(いい)を 草枕
旅にしあれば 椎の葉に盛る

家にいる時は茶碗に盛るご飯を、旅の途上なので椎の葉に盛るのだ

磐代の 浜松が枝を 引き結び
まさきくあらば また帰り見む

磐代の海岸に立っている松の枝を引き結んで、
もし幸運にも戻ってこれたなら、またこれを見よう。

ここ藤代峠は、有馬皇子の悲劇で知られる紀州藤代坂を再現したもので、六義園全体を見渡すことができるポイントとなっています。

藤代峠
藤代峠

藤代峠からの景色
藤代峠からの景色

さーと吹き抜ける風がさわやかです。都会の真ん中にあって、別天地が味わえます。

蛛道(ささがにのみち)

藤代峠裏手の山道は蛛道(ささがにのみち)と呼ばれます。古くはクモを「ささがに」といい、この道がクモの糸のように細いことから名づけられたものです。また「ささがにの道」は、和歌の道、歌道のことをもあらわします。

我がせこが 来べき宵なり ささがにの
蜘蛛のふるまひ かねてしるしも

衣通郎姫 古今集

私の愛しい人は、今夜通ってくるに違いない。
(ささがにの)蜘蛛の動きが、前もってそれを知らせてくれるのだ。

古今集の詞書には「衣通姫の独りゐて帝を恋ひ奉りて」とあります。衣通姫は『日本書紀』に登場する19代允恭天皇に愛された絶世の美女です。あまりに美しいので、衣を通して輝いて見えたため「衣通姫」と呼ばれるようになったということです。

允恭天皇には嫉妬深い皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)がいました。彼女はまた衣通姫の姉でもあります。天皇はこの嫉妬深い皇后をはばかって、衣通姫を皇居とは別の所に住まわせていたということも『日本書紀』に記されています。

後世、衣通姫は紀伊国和歌の浦の玉津島神社に祭られる玉津島姫と同一視され、和歌三神の一として崇敬されるようになりました。

こういう知識を仕入れながら歩いていると、むしょうに和歌山に行きたくなってきました。

渡月橋

渡月橋を渡ります。

渡月橋
渡月橋

和哥の浦 蘆辺の田靏の 鳴くこゑに
夜わたる月の 影ぞさびしき

和歌の浦の蘆辺に群生する鶴が鳴く声。そこに
夜、空をわたる月の影がさびしく輝いている。

石の土台の上に、石の橋げたが置かれた小さなものです。京都嵐山の渡月橋とは、だいぶ趣が違います。途中で橋の軸が、一段ずれているのがポイントです。

出汐湊(でしおのみなと)

さて中の島へ通じる田鶴橋(たづばし)は封鎖されていて渡ることができませんので、名残を惜しみつつ通り過ぎ、道なりに進んでいきます。

田鶴橋
田鶴橋

すると、出汐湊(でしおのみなと)に至ります。

和歌の浦に 月の出汐の さすままに
よるなくたづの こゑぞさびしき

信実朝臣 新六帖

「出汐」とは船が港に入る時に満潮になるのを待つことですが、ここでは「月の出汐」ですから、月の出を待っている様子をあらわしています。和歌の浦で、月の光が差すと共に汐が満ちてきた。そこへ鶴の声が寂しく響き渡る。

額田王の

熟田津(にぎたづ)に 船乗りせむと 月待てば
潮もかなひぬ 今はこぎいでな

を思い出さずにはいられませんね。

出汐湊の後方には岩崎家の蔵が残っています。かつてはこの蔵の近くに岩崎家の邸宅があったということです。月の明るい晩には岩崎家の人々が客人を招いて、月の池を鑑賞していたことでしょう。優雅な話です。

岩崎家の蔵
岩崎家の蔵

岩崎家の蔵
岩崎家の蔵

といわけで六義園は随所に和歌が掲げてあり、和歌や古典に興味がある方には楽しめる場所です。夏でもとても涼しく、さわやかな風が吹いていて、心地よいです。

そこかしこの案内板に六義園のモデルとなった紀州のウンチクが書かれているので、歩いているうちにむしょうに和歌山に行ってみたくなること思います。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

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