僧正遍昭と花山天皇ゆかりの元慶寺を訪ねる
本日は、京都山科に、僧正遍昭と花山天皇ゆかりの元慶寺を訪ねます。
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僧正遍昭は百人一首の第12番に歌を採られています。
天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ
乙女の姿しばしとどめむ僧正遍昭
天から吹いてくる風よ、天女が天と地を往来する時に通るという、雲の中の道を吹き閉じてくれ。美しい天女たちの姿を今しばらく見ていたいのだ。
僧正遍昭(816-890)。桓武天皇の孫で俗名は良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。父安世(やすよ)は桓武天皇の皇子。蔵人頭として仁明天皇の寵愛を受けていましたが、850年仁明天皇崩御をきっかけに出家。叡山に入り遍昭と名乗りました。六歌仙の一人に数えられます。
その、僧正遍昭が建立したと伝えられるのが山科の元慶寺です。また、65代花山天皇が出家した場所としても知られます。
地下鉄東西線御陵(みささぎ)駅から、南へ徒歩約15分。
かなりわかりにくい、入り組んだ場所にあり、道を尋ね尋ね、歩いていくと…
見えてきました。元慶寺の竜宮門です。
華頂山元慶寺は天台宗の寺院です。元慶元年(877年)藤原高子の発願、僧正遍昭の創建、西国三十三所霊場の番外札所に数えられます。
竜宮門の前景がツバキの生垣と松に覆われ、いい雰囲気です。この元慶寺の竜宮門は京都三大竜宮門の一つに数えられています。
僧正遍昭と素性法師の歌碑
境内には僧正遍昭と、その息子素性法師の歌碑が並んで立っています。
天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ
乙女の姿しばしとどめむ僧正遍昭
この歌は宮中で舞う舞姫の姿を天女にたとえています。ああスバラシイ。ずっとこの天女たちの舞を見ていたい。だから天から吹く風よ、雲の間にある天女がのぼり降りする路を吹き閉じてしまってくれ。意味もわかりやすく、調べも優雅なので百人一首の中でも特に人気のある歌です。
そして息子の素性法師の歌。
今来むといひしばかりに長月の
有明の月を待ち出でつるかな素性法師
あなたが「すぐ行くよ」と言ったがために私は九月の夜長を待ち続けたのです。そしてとうとう明け方になり有明の月が出てきてしまいました。
素性法師が女性の立場になって詠んだ歌です。一晩中恋人を待ってたのです。男はすっぽかしたのか、それとも用事ができて来られなかったのか、とにかく女のもとに来なかったんですね。むなしく輝く有明の月が印象深い歌です。
僧正遍昭は百人一首の12番、素性法師は21番に採られています。最初、私は素性法師の歌碑のほうが判別つかず、寺の受付の人に聞くと、ええっと、何やったかなあ。百人一首ですわ。ちょっとド忘れしてまいましてん。今こんとですか?ああ、それやそれや、今コントですわ。そんなやり取りが、のんびりした感じでした。
また、元慶寺は西国三十三所霊場を開かれたことで有名な、65代花山天皇がご出家された場所としても知られます。
花山天皇には何人かのお后さまがありましたが、中にも藤原為光の娘シ【心+氏】子を花山天皇は深くご寵愛でした。しかし、シ子は無理なお産がたたって産後8ケ月で帰らぬ人となってしまいます。
花山天皇の落ち込みようは大変なもので、政治への意欲など、
すっかり無くなってしまいました。
ついには、周囲に出家をほのめかすようになりました。
「なに?帝が出家を望んでおられる?」
ぴくりと眉を動かしたのが、藤原兼家です。
花山天皇の皇太子は藤原兼家の娘詮子(せんし)と先代の円融天皇との間に生まれた懐仁(かねひと)親王です。
藤原兼家としては、さっさと花山天皇に退位してもらって自分の孫である懐仁親王が即位すれば、天皇の外戚となれるわけで、トクなのです。
「出家をお望みとは願ったりかなったり。
心変わりをされない内に、さっさとご出家していただこう」
そこで兼家は、四男の道兼に、ある策を授けます。
寛和二年(986年)6月23日、夜明け方。
清涼殿の縁側で有明の月をながめて世の無常を嘆く花山天皇。
そのおそばにお仕えしていた藤原道兼が申し上げます。
「まったくその通りでございます。この世のはかないことといったら…。
どうですか、いっそご出家されては?なんなら、私もご一緒しましょう」
「なに、朕と共に出家してくれるというのか」
こうして、花山天皇と藤原道兼は夜中、ひそかに御所を抜け出し、
牛車に乗って土御門大路を東へ向かい、
山科の元慶寺(がんけいじ)を目指します。
持仏堂に入る花山天皇と藤原道兼。
まず花山天皇から髪をおろされます。19歳でのご出家でした。
「ああ…これでいよいよ仏弟子となれるのか。
心が洗われるようじゃ」
次に藤原道兼の番となると、道兼は言いました。
「父に挨拶もしないでは親不孝となります。
まずは父に挨拶をしてきます」
「そうか。兼家もさぞ悲しむであろうが…。
俗世でのわだかまりは、きっぱり断ち切っておくべきであろう。
行ってくるがよい」
「では、後ほど」
そう行って道兼は元慶寺を去り、二度と戻ることはありませんでした。
その頃宮中では、藤原兼家は長男の道隆、次男の道綱に命じていました。
「今のうちに、神器をおさえるのだ」
「ははっ」「ははーっ」
道隆、道綱は清涼殿にあった皇位継承の証たる
神璽と宝剣を懐仁(かねひと)親王のいる凝花舎(ぎょうかしゃ)に遷し、
御所のすべての門を閉じました。
かくして7歳の懐仁親王(かねひと)が一条天皇として即位。藤原氏は、まんまと天皇の外戚の地位を得たのです。
寛和二年(986年)寛和の変という事件です。
その後、ご出家された花山法皇は紀伊国熊野を基点として三十三所の観音霊場を巡礼され大きな法力を身につけられたと伝えられます。「西国三十三所」として今に伝わっています。
元慶寺境内には「人皇六捨五代 花山院法皇 御落飾道場」の碑があります。ここで19歳の花山天皇が藤原氏に騙されて出家したと思うと感慨が、こみあげます!
また、元慶寺の周囲は地名が「北花山」であり、平安の昔が今に伝わっていることが、嬉しくなりました。
僧正遍昭の墓
さて、元慶寺の近くには僧正遍昭の墓があります。地図を見てもわからず、交番で道を聞いて、ようやくたどり着きました。「まさか」という細い道から入っていきます。
「桓武天皇皇孫 遍昭僧正御墓」とあります。こじんまりとした素朴な築山で、僧正のざっくぱらんな性格を示しているように思えました。
最後にもう一度、百人一首の僧正遍昭の歌をつぶやきましょう。
天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ
乙女の姿しばしとどめむ僧正遍昭
次の旅「大原を歩く(寂光院・三千院・勝林院ほか)」