比叡山 延暦寺を歩く

■【古典・歴史】メールマガジン

本日は比叡山 延暦寺を歩きます。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

https://roudokus.com/mp3/Hieizan.mp3

延暦寺は伝教大師最澄が開いた天台宗の総本山。東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の三塔十六谷(さんとう・じゅうろっこく)からなり、比叡山全体に150あまりの堂塔が点在します。

鬱蒼とした杉並木、あざやかな青紅葉。鳥の声、清水のせせらぎ…いつしか心は伝教大師最澄の昔にいざなわれます。

比叡山まで

比叡山には比叡山ドライブウェイを利用して車がバスで登るほか、叡山電鉄の八瀬比叡山駅からケーブルとロープウェーを乗り継いで登ることもできます。今回は叡山電鉄→ケーブル→ロープウェーコースで登ってみます。

叡山電鉄
叡山電鉄

叡山電鉄本線八瀬比叡山口(やせひえいざんぐち)下車、

叡山電鉄本線八瀬比叡山口
叡山電鉄本線八瀬比叡山口

徒歩4分。



ケーブル八瀬駅です。ここから比叡山に登れます。

ケーブル八瀬駅
ケーブル八瀬駅

所要時間9分。



ケーブル比叡駅につきます。ここはいわば中継点です。徒歩で叡山ロープウェーの駅(ロープ比叡(ひえい)駅)まで移動。そして叡山ロープウェーに乗ります。

叡山ロープウェー
叡山ロープウェー

叡山ロープウェー
叡山ロープウェー


叡山ロープウェーの所要時間3分。比叡山頂(ひえいさんちょう)駅につきました。

シャトルバス

ここからはシャトルバスがおすすめです。比叡山頂駅から徒歩10分で山頂バス停です。



延暦寺の東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の三塔をシャトルバスで廻ることができます。

近くの断崖からは、琵琶湖が見下ろせます。気分いいです。


延暦寺は伝教大師最澄が延暦7年(788)に開いた天台宗の総本山。東塔・西塔・横川の三塔十六谷(さんとう・じゅうろっこく)からなり、比叡山全体に150あまりの堂塔が点在します。


延暦寺の歴史をいえば、延暦4年(785)最澄が比叡山に庵を結び、延暦7年(788)小さなお堂を築いて薬師仏をおさめ、一乗止観院と号し寺を比叡山寺(ひえいざんじ)としました。一乗止観院は後に根本中堂に発展します。

延暦13年(794)桓武天皇が平安京に遷都すると、比叡山寺は平安京の鬼門封じ・国家鎮護の寺とされました。

延暦25年(806)桓武天皇に許可されて天台法華宗が開かれ、弘仁14年(823)最澄没後7日目に嵯峨天皇より大乗戒壇の設立を許可され、「延暦寺」の寺号を賜りました。

この頃から三代天台座主・円仁(慈覚大師)の門弟と、5代天台座主円珍(智証大師)の門弟の対立が激化。正暦4年(993)円珍派は比叡山を下り、大津に園城寺(三井寺)を開きました。

その後も延暦寺と園城寺のいがみあいは続き、延暦寺の僧兵が園城寺を焼き討ちにしたりしました。これを山門(延暦寺)・寺門(園城寺)の争いといいます。

その後も延暦寺は天皇家・摂関家と結びつきを強め発展し、東塔・西塔・横川と十六谷の広大な寺域を持つに至りました。

鴨川から比叡山をのぞむ
鴨川から比叡山をのぞむ

平安時代後期には琵琶湖の権利を握り、莫大な荘園寺領を持ち、それらを守るため武装した僧兵を養いました。時に僧兵は都に繰り出して、強訴といって強引な要求を押し通すこともありました。

南都(奈良)の寺寺と並び、「南都北嶺」と呼ばれ、宗教界だけでなく世俗にも強い影響力を持ちました。

次第に延暦寺は堕落し、仏の教えなどには関心もなく、ただ立身出世にしか願わない者も出てきました。世俗の世界以上に俗にまみれた世界でした。

これではいけないと、平安末期から鎌倉時代にかけて、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元といった新仏教の担い手たちが現れました。彼らははじめ比叡山に学び、やがて比叡山を下って独自の道を歩みました。

南北朝時代・戦国時代と延暦寺は権勢を高めました。しかし時の幕府との関係は、良好とはいえませんでした。

室町幕府第六代将軍・足利義教はもと天台宗の僧で、還俗して将軍となりましたが、残酷で気性が荒く「悪御所」の異名を取りました。

その足利義教が比叡山と対立を続けたため、ついに比叡山の僧24名が抗議のため根本中堂に火を放って焼身自殺しました。

根本中堂は直後に再建されましたが、明応8年 (1499)管領細川政元に攻められ、ふたたび焼失しました。

さらに元亀2年(1571)織田信長の焼き討ちによって堂宇のほとんどが焼失。僧侶から子供まで数千人が焼け死ぬ大惨事となりました。その後、豊臣秀吉、ついで徳川家康により復興され、寛永年間(1624-44)三代将軍家光の時、ほぼ現在の形に整えられました。

東塔

山頂バス停からシャトルバスで移動すること6分。延暦寺の入り口・東塔(とうどう)に着きました。

東塔入り口
東塔入り口

東塔入り口
東塔入り口

東塔は伝教大師最澄によって開かれた、延暦寺の中心となるエリアです。観光客や修学旅行生も多く、明るく開けた感じがあります。

本堂たる根本中堂、学問修行の道場である大講堂、大乗戒が行われた戒壇院、延暦寺開創1150年を記念して建てられた阿弥陀堂など、重要な堂宇が集まっています。


時間が無い時は、この東塔だけでも見て回るといいです。

大講堂

大講堂は僧侶が法華経の講義をきき、問答する学問修行の道場です。


創建は根本中堂と同じくらい古いですが、火事で焼失し、昭和39年(1964)比叡山山麓の坂本にあった「讃仏堂」を移築しました。


御本尊の大日如来坐像を中心に、左に十一面観音坐像、右に弥勒菩薩坐像を安置。さらに天台大師、伝教大師、および比叡山から出た各宗派の祖師の像を祀ります。

大講堂前庭にある鐘楼には「開運の鐘」がかかり、自由につくことができます。



根本中堂

根本中堂。延暦7年(788)伝教大師が薬師如来像を安置した一乗止観院があった場所に立つお堂です。


東塔のみならず延暦寺全体の中心となる本堂です。

現在の建物は寛永19年(1642)徳川家光による再建。総欅造・総丹塗り、屋根は入母屋造・銅板葺きの荘厳な伽藍です。ただし平成28年(2016)より10年間の工事に入りました。工事中は建物の外観を見ることはできませんが、中に入って参拝は可能です。

内部は外陣・中陣・内陣に分かれ、中陣から内陣を拝む形です。おもしろいことに中陣より3メートル低い位置に内陣があるので、薬師如来立像の上半身が参拝者の目の前に見える形となります。これを天台造または中堂造といいます。

内陣中央の須弥壇に薬師如来立像。「お前立ち」と呼ばれ御本尊の姿を江戸時代にうつし取ったたものです。

御本尊は伝教大師が比叡山の霊木をみずから刻んだと伝えられ、辻子の中に安置されています。

お前立ちの両脇に日光菩薩像、月光菩薩像、さらに十二神将像を配します。内陣で僧侶が読経するので別名「修行の谷間」と呼ばれます。

御本尊をおさめた辻子の前には3つの釣り燈火がぼんやりと輝いています。「不滅の法灯」です。伝教大師最澄が掲げて以来、1200年間絶えることなく灯り続けています。

不滅の法灯は元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ち(元亀の法難)の時一度だけ消えましたが、山形の立石寺(りゅうしゃくじ。現りっしゃくじ)創建時に移した火を延暦寺根本中堂に移して、ふたたび火を灯すことができました。そして現在まで燃え続けています。

ちょっと気を抜くと消えてしまうということから「油断」の言葉はここから来ています。

遠く伝教大師の昔から、今も、燃え続けている…なんとも厳粛な気持ちになります。

文殊楼

文殊楼。根本中堂正面の52段石段を上りきった所に立つ楼門です。

文殊楼
文殊楼

石段の最上段は、根本中堂の屋根とほぼ同じ高さになります。

屋根は入母屋造・銅瓦葺。楼上には文殊菩薩像が安置されます。智恵の文殊として受験生に人気です。

昔は坂本からの参拝道の総門でした。創建は慈覚大師円仁によるもので、根本中堂と同じくらい古いですが、何度も火事で焼失を繰り替えました。現在の文殊楼は寛永8年(1668)の火事の後、再建されたものです。


戒壇院

戒壇院。根本中堂や文殊楼の南西にあります。


戒壇院
戒壇院

正しくは大乗戒壇院。正式な僧になるための儀式を行う、延暦寺でもっとも重要なお堂です。伝教大師がもっともその設立を願ったものですが、最澄存命中はかなわず。弘仁13年(822)伝教大師没後7日目に勅許を受け、天長5年(828)初代天台座主・義真により創建されました。

延宝6年(1678)の再建です。

阿弥陀堂



阿弥陀堂。戒壇院の南西にあります。


阿弥陀堂
阿弥陀堂

昭和12年(1937)延暦寺開創1150年を記念して建てられました。御本尊として丈六の阿弥陀如来座像を安置します。隣に並ぶ法華総持院東塔とセットで、見事な景観をなしています。

法華総持院東塔

法華総持院東塔。昭和55年(1980)再建の朱塗りの二層の塔です。

法華総持院東塔
法華総持院東塔

張り出した縁側から琵琶湖の眺めが素晴らしいです。三上山…この日もよく見えました。


では東塔を後に、ふたたびシャトルバスに乗り移動すること3分。西塔(さいとう)に着きました。

西塔入り口
西塔入り口

西塔入り口
西塔入り口

西塔は最澄の建立した山城国宝塔院に始まり、第二代天台座主・寂光大師円澄によって発展した修行の地です。釈迦堂を中心に、鬱蒼とした杉木立が立ち並びます。

にない堂

にない堂は向かって右の法華堂と、左の常業堂と、それを結ぶ渡し廊下からなります。

にない堂
にない堂

二つの堂はあざやかな朱塗りで、まったく同じ大きさ・形です。弁慶がこの渡し廊下を天秤棒にして「担い」かついだという伝説から、にない堂と呼ばれます。

弁慶がかついでいる、その姿を想像すると、ものすごいような、ちょっと笑えるような。

釈迦堂



釈迦堂。にない堂から石段を下った平地に立ちます。

釈迦堂
釈迦堂

西塔の中心となる本堂です。伝教大師最澄が自ら刻んだという釈迦の像を安置することから釈迦堂と呼ばれます。ただし本尊は秘仏として辻子の中に安置され、お前立ちのみ参拝できます。文禄4年(1596)豊臣秀吉が三井寺の金堂(弥勒堂)を移築したものです。現在の比叡山の中ではもっとも古い建物です。

横川

西塔を後に、またもシャトルバスに乗り込み移動すること6分。延暦寺最奥地・横川(よかわ)につきました。


横川入り口
横川入り口

横川は第三代天台座主・慈覚大師円仁が開きました。延暦寺でももっとも奥まった場所であり、深山幽谷の雰囲気があります。


横川では俗世を離れて深く仏の真理を追求したい僧が修行しました。浄土信仰も、ここ横川から起こりました。

横川中堂

横川の中心となる建物です。

横川中堂
横川中堂

嘉祥元年(848)慈覚大師円仁による創建。

横川中堂
横川中堂

円仁が自ら刻んだという聖観音菩薩像を本尊とします。昭和17年(1942)火事で焼けて、昭和46年(1971)見事な朱塗りの堂が再建されました。崖に張り出すように建てられた舞台造りが印象的です。

元三大師堂


横川中道の東にあるのが元三大師堂です。

元三大師堂
元三大師堂


元日三日に亡くなったため「元三大師」とよばれる慈慧大師(じえだいし)良源の住居「定心房(じょうしんぼう)」の跡地です。元三大師=慈慧大師良源の画像を本尊とします。

元三大師堂
元三大師堂

正式な名称は「四季講堂」。村上天皇の勅命で季節それぞれに法華経の講義を行ったためです。良源が姿を変えた「角大師(つのだいし)」の魔除け護符も有名です。

角大師の碑
角大師の碑

またおみくじの発祥の寺としても知られます。

おみくじの発祥の碑
おみくじの発祥の碑

恵心堂

元三大師堂から南に徒歩4分。恵心堂があります。

恵心堂
恵心堂

恵心僧都源信が念仏三昧に過ごした住居跡と言われます。青もみじのトンネルが、圧巻でした。


本日は、比叡山延暦寺、東塔・西塔・横川を巡りました。今日訪ねたのは主要な堂塔だけです。比叡山全体に150あまりの堂塔が点在し、それぞれに深いいわれがあり豊かな物語があります。時間をかけてゆっくり巡りたいところです。


■【古典・歴史】メールマガジン