江戸城跡を歩く(ニ) 皇居東御苑
本日は江戸城跡を歩く(ニ)皇居東御苑を歩きます。
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皇居東御苑は旧江戸城の中心たる本丸・ニの丸・三の丸の一部にあたるエリアです。現在、一般に公開されており無料で見学できます。
東京メトロ千代田線の大手町駅、もしくは東京メトロ半蔵門線の大手町駅で降ります。内堀通りにぶつかるまで歩き、南に折れてちょこっと歩くと、皇居東御苑の大手門が見えてきます。
皇居東御苑
大手門
大手門です。
皇居東御苑(江戸城) 大手門
大手門は江戸城の正門であり、江戸城にあった92の門のうち、もっとも厳重に警備されていました。江戸城に登城する際は大名や特別に許された者を除いて、ここで馬を降り、歩いて門をくぐりました。
右に大手濠、左に桔梗濠を見ながら橋を進み、入り口で荷物チェックを受けて中に入ります。料金は無料です。
外側の高麗門をくぐると四角い枡形の空間があり、右手に渡櫓門(わたりやぐらもん)があります。
皇居東御苑(江戸城) 渡櫓門
このようにL字型に二枚の門を配置した形を枡形門といいます。
大手門は江戸時代初期の寛永年間(1624-1645)に建てられ、明暦3年(1657)の「明暦の大火」で焼失。その後、何度か修理を重ねてきましたが、昭和20年(1945)の空襲で渡櫓門が焼かれ、現在の門は昭和42年(1967)に再建されたものです。
枡形内の植え込みにある鯱(しゃち)は、明暦の大火後に再建された渡櫓門の上にあったオリジナルです。
皇居東御苑(江戸城) 大手門内 鯱
渡櫓門をくぐった先が「三の丸」です。左手に守衛所があり、ここで入園票をもらって先に進みます。
皇居東御苑(江戸城) 三の丸
それにしても周囲から聞こえてくるのが外国語ばかりで不安になります。
江戸城の歴史
12世紀前中半。草深い武蔵江戸郷に、桓武平氏の流れを汲む江戸重継(えど しげなが)の屋敷がありました。その跡地に、長禄元年(1457)扇ヶ谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)氏の家宰・太田道灌(おおた どうかん)が入り、江戸城を築城しました。
ところが、太田道灌は文明18年(1486)主君扇谷上杉氏によって暗殺されます。その後、江戸城は扇ヶ谷上杉氏の城となりますが、扇ヶ谷上杉氏は後北条氏二代・北条氏綱(ほうじょう うじつな)によって攻められ、大永4年(1524)武蔵高輪原(たかなわはら)の戦いで扇ヶ谷上杉氏は敗走。以後、江戸城は後北条氏の城となります。
しかし。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅亡すると、後北条氏の所領地は徳川家康に与えられ江戸城は徳川家康の居城となります。
慶長8年(1603)徳川家康が征夷大将軍になると、江戸城はいよいよ中央政庁としての役割を増していきます。家康は「天下普請」と称して各地の大名に江戸城と江戸の城下町の工事を分担させました。江戸城には本丸・二の丸・三の丸・西の丸が整えられ、本丸には五層六階建ての天守が築かれました。
三代家光の代まで江戸城の工事は続き、江戸城は巨大な石垣と天守を持つ荘厳な城として整えられました。
しかし。
明暦3年(1657)明暦の大火によって江戸の町の多くが燃えてしまいます。火は江戸城にも及び、天守をはじめ、本丸・二の丸・三の丸も燃えました。前将軍徳川家光の弟・保科正之(ほしな まさゆき)の進言により天守閣は再建されず、以後、江戸時代を通して江戸城は天守無き城となりました。
慶応3年(1867)将軍徳川慶喜は大政を奉還。翌慶応4年=明治元年(1868)江戸城は無血開城され朝廷に明け渡されます。江戸城跡は「東京城(とうけいじょう」となり、翌明治2年(1869)明治天皇の行幸により「皇城(こうじょう)」となり、明治21年から「宮城(きゅうじょう)」、昭和23年から「皇居」となりました。
昭和35年(1960)江戸城跡は国の特別史跡となり、昭和43年(1968)旧本丸・ニの丸・三の丸が「皇居東御苑」として一般公開されました。
三の丸尚蔵館
右に見えてくるのが三の丸尚蔵館(しょうぞうかん)です。
皇居東御苑 三の丸尚蔵館
平成元年、今上陛下と香淳皇后から皇室の所蔵する美術品6000点余りが国に寄贈されましたのを機に、一般公開のために建てられた美術館です。この時は「古代の造形 モノ造り日本の原点」をやってました。…すごく地味そうです。とりあえず帰り道に見ればいいので、先に進みます。
同心番所
三の丸尚蔵館を後に、順路を進みます。大手三之門(おおてさんのもん)跡の石垣が見えてきました。
皇居東御苑(江戸城) 大手三之門跡
尾張・紀伊・水戸の御三家の大名以外はここで馬を降りました。ために大手三之門のことを下乗門(げじょうもん)ともいいました。
大手三之門跡の脇に同心番所(どうしんばんしょ)が残っています。
皇居東御苑(江戸城) 同心番所
大手三之門を警備する役人が詰めていた番所です。
ここ大手三之門も枡形門なので、すぐ左隣に第二の門(櫓門)跡の石垣が見えてきます。
皇居東御苑(江戸城) 大手三之門 櫓門
石垣を抜けると、ぱっと空間が開けた感じになります。ここからが二の丸です。
百人番所
ニの丸入って左手に長屋風の百人番所(ひゃくにんばんしょ)があります。
皇居東御苑(江戸城) 百人番所
旧江戸城本丸前の大の検問でした。甲賀衆・伊賀衆・根来衆・二十五騎組の四組が昼夜交代で詰めており、それぞれの組は百人の与力がいたので百人番所といいます。
銅門跡~白鳥濠
百人番所を後に、北に進んでいきます。左右に石垣がそびえ、いかにも「門」って感じです。このあたりが二の丸の正門・銅門(あかがねもん)の跡と思われます。
皇居東御苑(江戸城) 二の丸の正門・銅門跡
皇居東御苑(江戸城) 二の丸の正門・銅門跡
石垣を抜けて広い通路を進んでいくと、左に白鳥濠(はくちょうぼり)と本丸の石垣が見えてきます。がぜん、城っぽくなってきました!
ニの丸雑木林・ニの丸庭園
白鳥濠と通路はさんで反対側は、昭和天皇発案による二の丸雑木林と、二の丸庭園が広がります。
皇居東御苑 二の丸雑木林
武蔵野の面影の残る雑木林。ざっくざさっくと葉っぱを踏む音も心地よいです。風がひんやりとしてます。酸素が体の中にドバドバ入ってくる感じ。
皇居東御苑 二の丸雑木林
二の丸庭園は、三代徳川家光が小堀遠州に命じて作らせたと言われる庭園の跡地です。皇居東御苑の開園に際して、池泉回遊式庭園として復元されました。
皇居東御苑 二の丸庭園"
池のほとりには明治神宮から株分けされた花菖蒲が植えられており、訪れる人の目を楽しませてくれます。
汐見坂
では、ニの丸と本丸を結ぶ、汐見坂を登ります。
皇居東御苑(江戸城) 汐見坂
寛永14年(1637)三代徳川家光の時の造営。当時、江戸湾はこの近くの日比谷入江まで入り込み、海が間近に見えたことから汐見坂といいます。いかにも、これから本丸だなのワクワク感がこみあげます!
本丸跡
来ました。本丸跡です。
皇居東御苑(江戸城)本丸跡
だだっ広い芝生が広がってます。見事になーーんも残ってません。
本丸は旧江戸城の中心。濠と石垣に囲まれた広大なエリアです。かつてここに表・中奥・大奥からなる荘厳な本丸御殿がありました。
本丸御殿は初代家康の時に着工して三代家光の時に完成を見ました。江戸時代を通して5度の火災にあい、その都度復旧されるも、文久三年(1863)の火災以降は再建されませんでした。
天守台
本丸の北の隅に天守台がそびえます。
皇居東御苑(江戸城)天守台
江戸城の天守閣は初代家康、二代秀忠、三代家光の時三度建て替えられました。しかし明暦3年(1657)明暦の大火によって三代目の天守閣も焼失してしまいます。
皇居東御苑(江戸城)天守台
翌万治元年(1658)、天守台のみは再建されましたが、前将軍徳川家光の弟・保科正之(ほしな まさゆき)の進言により天守閣は再建されませんでした。以後、江戸時代を通して江戸城は天守無き城となりました。
登ります。
皇居東御苑(江戸城)天守台
皇居東御苑(江戸城)天守台
皇居東御苑(江戸城)天守台
北には東京国技館の屋根。
東京国技館
東には本丸脇の桃華楽堂(とうかがくどう)の屋根が見えます。香淳皇后のご還暦の記念として建てられた音楽堂です。
桃華楽堂
富士見多聞
天守台を降りて、天守台前の遊歩道に入ります。
まず右に見えるのが富士見多聞です。
皇居東御苑(江戸城)富士見多聞
多聞とは長屋造の櫓の一種です。敵に備える防御施設として、また武器庫として使われていました。ここ富士見多聞は中に入ることができます。
皇居東御苑(江戸城)富士見多聞
外を見ると、かなり高い石垣の上にあることがわかります。
皇居東御苑(江戸城)富士見多聞
松之大廊下跡
さらに遊歩道を南に進んでいくと、
右手の植え込みに松之大廊下跡の碑があります。周囲にはツワブキの花が群生しています。
皇居東御苑(江戸城)松之大廊下跡
元禄14年3月14日。赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城内松の廊下にて、儀礼指南役・吉良義央(きらよしひさ)に背後から、突然、斬りかかりました。
「殿中でござる!殿中でござる!」
浅野内匠頭長矩は取り押さえられ即日切腹を命じられ、吉良義央はお咎めなし。赤穂藩は改易となりました。
『忠臣蔵』で有名な元禄赤穂事件の発端となった刃傷事件がここで起こったと思うと、しみじみ感慨深いものがあります。
富士見櫓
本丸の西南隅に三層の富士見櫓が立ちます。
皇居東御苑(江戸城)富士見櫓
江戸城本丸にはかつて11もの櫓がありましたが(数は諸説あり)、残っているのはこの富士見櫓のみです。
我庵は松原つづき海近く
富士の高峰を軒端にぞ見る
はじめに江戸城を築いた太田道灌が詠んだ歌です。この歌が詠まれたのが、この富士見櫓のあたりではなかったかと見られています。
明暦の大火で天守が焼失した後は天守の代わりとされ、どこから見ても素晴らしい形がキマってることから「八方正面の櫓」と呼ばれています。
慶応4年(1868)、彰義隊の上野戦争の時、新政府軍総司令官・大村益次郎は、この富士見櫓の上から上野寛永寺に火が上がるのを見て、勝利を確信したと伝えられます。
富士見櫓を後に、本丸最南端の中雀門(ちゅうじゃくもん)跡を通って、もと来た大手門に帰り着きます。本来はこの中雀門が本丸の入り口です。今回は本丸脇の汐見坂から上って、入り口に向けて歩いた形となりました。
本日は江戸城の本丸・ニの丸・三の丸跡である「皇居東御苑」を歩きました。徳川家康の江戸開府から幕末に至るさまざまな歴史の名場面に思いをはせながら歩くと、失われた本丸御殿や天守閣の姿が浮かび上がってくるかもしれません。四季折々の草花もきれいです。ぜひ皇居東御苑。皇居東御苑を、歩いてみてください。
次の旅「江戸城跡を歩く(三)皇居外苑」