枚方を歩く

■【古典・歴史】メールマガジン

こんにちは。左大臣光永です。

本日は大坂の枚方を歩きます。

枚方は京都と大坂をむすぶ京街道の宿場町でした。京街道は江戸時代初期に東海道の延長として整備され、伏見・淀・枚方・守口の4つの宿がありました。「東海道五十三次」にこれら京街道四宿を加えて、「東海道五十七次」といいます。

伏見と大坂を行き来する三十石船に「餅くらわんか、酒くらわんか」といって酒や肴を売りつける「くらわんか船」が淀川下りの風物として好評をはくしました。

旧街道沿いには町家や寺社が軒をつらね、宿場町の風情が残ります。

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天の川

京阪本線枚方市駅下車。東口に出て駅ビルを背に左に4分ほど歩くと天の川にかかる天津橋(あまつばし)です。

天の川は淀川に注ぎ込む小川です。七夕伝説で知られます。『伊勢物語』には、惟喬親王と在原業平・紀有常一行が桜狩りの途中で天の川を訪れたさまが描かれています。

主君・惟喬親王が「交野で桜狩りをして天の川のほとりに至るを題に、歌を詠め」というと在原業平とおぼしき主人公が、

狩りくらしたなばたつめに宿からむ天の河原にわれは来にけり

(狩りをしているうちに日が暮れてしました。七夕の織女に宿を借りましょう。天の河原に私は来たのです)

紀有常がこれに答えて、

ひととせにひとたび来ます君待てば宿かす人もあらじとぞ思ふ

(一年に一回来る恋人を織女は待っているのですから、宿を貸してはくれないでしょう)

まことに風流な春の遊びのさまが描かれています。「交野」は現在の枚方市・交野市一帯で皇室の遊猟地、桜の名所でした。

藤原俊成歌碑

天の川のかたわらに藤原俊成の歌碑。

又や見む
交野のみ野の
桜狩り
花の雪散る
春のあけぼの

(いつかまた見よう。交野のみ野で桜狩りをして桜花が雪のように舞い散っていた、春のあけぼのの景色を)

『枕草子』の「春はあけぼの」をふまえます。「交野の春のあけぼのを、いつかまた見たい」しかしそれは「難しい」というニュアンスを「かたの」=「難い」ということで匂わせています。

天の川を渡って東南に1.5キロほど行くと百済王神社と百済王寺跡があります。奈良時代に百済王氏(くだらにのこにきしうじ)によって氏社・氏寺として建立されました。

百済王氏(くだらにのこにきしうじ)は最後の百済王義慈王の息子禅広(ぜんこう)が日本の朝廷に仕えたことに始まります。はじめ摂津国百済郡を拠点としましたが、禅広のひ孫の敬福(きょうふく)が河内守に任じられてから、河内と関わりが深くなります。

桓武天皇は母方(高野新笠)が百済系渡来人の血筋でもあることから、百済王氏には格別の思い入れがありました。

百済王氏のことを「朕の外戚」とよび、百済王氏が拠点を置いた交野の地にたびたび行幸し、狩などを行いました。

百済寺の建物は残っていませんが、礎石が残り史跡公園「百済寺跡」として整備されています。

枚方宿跡

ふたたび枚方市駅にもどり、駅南側のイオン枚方店の脇から、枚方宿の旧街道に入ります。

町家や寺社が軒をつらね、宿場町の風情が残ります。歩いているだけでワクワクしてきます。

妙見宮常夜灯石灯籠。

嘉永7年(1853)ペリー来航の年の銘があり、高まる社会不安の中、天下泰平と枚方宿の繁栄を祈願して奉納されたもののようです。

枚方本陣跡。

枚方は西国大名たちが参勤交代で通りましたが、その際大名は本陣に宿泊したのです。公園に石碑が残るだけですが、周辺の風情ある町並みが参勤交代の昔をしのばせます。

道沿いに「枚方市立枚方宿鍵屋資料館」。「鍵屋」は江戸時代に淀川を行き交う舟を待った「船待ち宿」です。建材に「文化8年(1811)」の銘があることから、その時期の創設と思われます。

「淀川三十石舟唄(よどがわさんじっこくふなうた)」に「鍵屋浦には碇は要らぬ、三味や太鼓で船とめる」と歌われています。

大正以降は料理旅館「鍵屋」として平成9年(1997)まで営業していました。主屋は解体・復元工事の後、別棟とともに平成13年(2001)より資料館として一般公開されています。

館内には幕末~明治の枚方宿の模型や、「くらわんか舟」の実物大の模型などがあり、枚方宿の歴史について学ぶことができます。

別棟二階の63畳の大広間は淀川にのぞみ、六甲山から比叡山まで見渡せます。

淀川を行き交う人々の賑わいもきこえてきそうです。

三十石船とくらわんか船

古来、淀川は京と大坂をむすぶ水運として大きな役割をになってきました。淀川には多くの船が行き交い、人と物資の移動がさかんでした。その中に有名なのが、江戸時代に伏見と大坂の八軒屋(はちけんや)を行き来した三十石船です。

苫葺の屋根が覆い、船頭二人に定員28人。朝夕二度出港しました。上りは一日か一晩。下りは上りの倍の時間がかかり、水が激しいところでは岸から綱で船をひっぱりました。

淀川水運の発展とともに淀川沿いの宿場町も賑わっていきました。特に枚方は、

「此処はどこよと船頭衆に問へば、ここは枚方鍵屋浦、…鍵屋浦には碇は要らぬ、三味や太鼓で船とめる」

そう舟唄に歌われるほどでした。

枚方宿の 繁盛を当て込んで、「餅くらわんか、酒くらわんか」といって酒や肴を売る茶船があらわれました。これがくらわんか船です。

地元なまりの乱暴な言葉が、かえって旅情を誘い、淀川下りの風物詩として親しまれました。

三十石船やくらわんか船の風情は落語「三十石」や浪曲「森の石松代参詣(だいまいり)」に語られています。

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