『平家物語』に描かれた月の名所・広沢池
本日は『平家物語』に描かれ、数々の歌に読まれた月の名所・広沢池(ひろさわのいけ)を訪ねます。
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京福(けいふく)電鉄北野線(嵐電)・御室仁和寺駅下車。徒歩2分で仁和寺の二王門です。
二王門のはす向かいにスッといい形に見えるのは、双ケ丘です。
ここからバスに乗れば広沢池まですぐ着きますが、せっかくなので歩きます。仁和寺の前の「きぬかけの路」をひたすら西に歩いていきます。道すがらウォーキングの人がたくさん歩いています。何かウォーキングの会があったようですね。
『平家物語』「月見」
『平家物語』の「月見」というお話は、平清盛による強引な福原京遷都が行われ、平安京は日に日に荒れ果ていく。とはいえ、せっかく福原に都が遷ったんだから光源氏の須磨をはじめ、人々は各地の名所で月見を楽しんだ。一方、平安京に残り続けた人たちは伏見や広沢池で月を見たということが、格調高い名文でつづられています。
ふるき都はあれゆけば、今の都は繁盛す。あさましかりける夏も過ぎ、秋にも已になりにけり。やうやう秋もなかばになりゆけば、福原の新都にまします人々、名所の月を見んとて、或は源氏の大将の昔の跡をしのびつゝ、須磨より明石の浦づたひ、淡路のせとをおしわたり、絵島が磯の月を見る。或は白良(しらら)・吹上・和歌の浦・住吉・難波・高砂・尾上の月をあけぼのにながめて帰る人もあり。旧都に残る人々は、伏見・広沢の月を見る。
『平家物語』「月見」
やがてきぬかけの路が国道162号線と交差します。右に見るのが福王子神社です。
仁和寺を勅願した光孝天皇の皇后・班子女王を祀る、仁和寺の鎮守のお社です。
ここで道が六辻に分かれています。進む道を間違うと、広沢池にたどりつけないです。昔ここで道を間違ってずーーっと山奥のほうに行っちゃって、もう暗くなってきて、仕方なくバスで京都駅まで引き返した思い出があります。今回は間違えずに正しい道を進みます。
歩道が途切れ途切れである上に、びゃんびゃん車が飛ばしていくので、怖いです。「このへん事故多し」と看板があるんですけど…そりゃ多いだろって感じです。
千代の古道
御室川にかかった鳴滝橋を渡ると、
…なんとなく古道の雰囲気が出てきました。
やがてきぬかけの路が千代の古道(ふるみち)とクロスします。千代の古道(ふるみち)は平安京と嵯峨上皇の離宮(現在の大覚寺)を結んだ道といわれますが、その実態は明らかではありません。現在の「千代の古道」は1980年に国際ロータリークラブ75周年を記念してコースが決められたものです。
千代の古道沿いに、後嵯峨院と藤原為家(定家の息子)の歌碑がありますが…残念ながら達筆すぎて私には読めませんでした。
見えてきました。
広沢池です。キラキラと輝く湖面に遍照寺山(へんじょうじさん)が影を落とし、西方には嵯峨の山々が見渡せます。いい気分です。
広沢池(ひろさわのいけ)は古くから月見の名所として知られる、周囲約1.3キロの広大な池です。宇多天皇の孫・寛朝僧正がこの付近に遍照寺を開いた時に開削したと伝えられます。その遍照寺はもともと広沢池の北西にありましたが、現在は池の南側に移されています。
宿しもつ 月の光の大澤は
いかに出づとも 広澤の池西行
月の光を宿すことでは大澤の池などあるが、
どんなに月が出ても広澤の池にはかなわない。
池の南側には「池の茶屋」という売店があります。家族で経営してるようで、小さな女の子がソフトクリームを作ってくれました。
兒子神社
池の西南には兒子(ちご)神社。
遍照寺を開いた寛朝僧正に仕えた児童(稚児)が、僧正が亡くなった時に悲しんで広沢池に身を投げたのを、人々が哀れんで建てた、とされる神社です。
お盆の灯籠流しの準備をしていました。
池の西には観音島という島があって、橋で渡れます。十一面観音像と、弁天堂。
魚取りをしている家族連れの、平和な日常の景色がそこにありました。
遍照寺
そもそも広沢池は宇多天皇の皇孫・寛朝僧正がこの地に遍照寺というお寺を開いた時、開削した池であると伝えられます。その遍照寺はもとは広沢池の北西にありましたが、応仁の乱で廃墟となり、江戸時代末期に池の南に移されました。ここが、その遍照寺です。
左右に紅葉葉と松の葉がかかり、落ち着いた雰囲気です。
平安時代中期。
村上天皇皇子・具平(ともひら)親王が、お仕えする女房・大顔とおしのびで、ここ遍照寺に月見に通っていました。しかし、大顔は月見の最中、消え入るように死んでしまいました。
月見の最中の死。
身分違いの恋。
その話をきいて、ピーンと来たのが紫式部です。式部は大顔をモデルに『源氏物語』のヒロイン・夕顔を創作したといわれます。
『徒然草』には、遍照寺について不気味な話が書かれています。
遍照寺の承仕(じょうじ)法師、池の魚を日来(ひごろ)飼ひつけて、堂のうちまで餌(え)をまきて、戸ひとつあけたれば、数も知らず入(い)りこもりけるのち、おのれも入りて、たて篭(こ)めて、捕へつつ殺しけるよそほひ、おどろおどろしく聞えけるを、草かる童(わらわ)聞きて、人に告げければ、村の男どもおこりて入りて見るに、大雁(おおがん)どもふためきあへる中に法師まじりて、打ちふせ、ねぢ殺しければ、この法師を捕へて、所より使庁へ出したりけり。殺す所の鳥を頸(くび)にかけさせて、禁獄(きんごく)せられにけり。基俊大納言(もととしのだいなごん)、別当の時になん侍りける。
『徒然草』百六十ニ段
遍照寺で雑役に従事する僧が、池の鳥を日ごろ飼いならしておいて、堂のうちまで餌をまいて、戸をひとつあけておいた所、数も知らず多くの鳥が入りこもった後、自分も入って、閉め切って、捕えては殺している様子が、騒々しく聞こえてきたのを、草を刈る少年が聞いて、人に告げたので、村の男たちが大挙して押し寄せ、入ってみると、たくさんの大雁(おおがん)が、騒ぎ合う中に法師がまじって、叩き伏せ、ねぢ殺していたので、この法師を捕えて、その場所から検非違使庁へ突き出したのだった。
遍照寺の僧が、鳥を殺しまくっていたってんですね。う~ん不気味だ。広沢池は月の名所なだけに、何か月の狂気を感じます。
月見の途中に消え入るように死んでしまった大顔(夕顔)といい、月には何か人を破滅させたり狂気に導く力があるのかもしれません。
次の旅「嵯峨天皇の離宮跡・嵯峨 大覚寺を歩く」