本郷 樋口一葉旧居跡を訪ねる
本日は本郷に樋口一葉旧居跡を訪ねます。
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樋口一葉(1873-96)。明治5年(1873年)東京生まれ。本名樋口奈津。父は東京府丁に勤める役人で、金融・不動産にも従事し、一葉の幼い頃、一家は裕福でした。一葉は、はじめ和田重雄、ついで中村歌子の萩の舎(や)に入門して和歌を学びます。
これら和歌の教養は、小説家となってからも一葉の文学を支える源流となります。しかし長男と父が相次いで亡くなり、一葉は母と妹を養わなければいけない立場となりました。明治23年(1890年)母たき、一葉、妹くにの三人で本郷菊坂に引っ越してきます。生活は苦しいもので、一葉は針仕事などの内職をして一家の暮らしを支えました。
菊坂
地下鉄丸ノ内線本郷三丁目駅で下り、本郷通を東大の方面にしばらく歩いて左に折れると、菊坂(きくざか)です。
地下鉄丸ノ内線本郷三丁目駅
菊坂
かつてこの一円に菊畑があり、菊花を育てる業者がすんでいたので菊坂と呼ばれます。なかなか雰囲気のある坂道です。古きよき東京の雰囲気がただよっています。
坂の途中、まるや肉店というお店で菊坂コロッケを売ってました。一個100円です。ゴッテリと大きく、ホクホクしてます。ジャガイモがいっぱい詰まってます。
右手に長泉寺が見えてきたら左手の階段を降ります。おおっ、だんだん明治時代に時をさかのぼっていく感じ。
階段を下りてすぐ、細い通りに出ます。菊坂と並行して走っている通りです。
樋口一葉旧居跡の近隣は、現在もふつうに民家として使われているので、あまり人が押し寄せないようにということか、目立つ案内板は出ていません。すごくわかりづらいので、初めて来た人はまず行き着けないはずです。
しかし、目印があります。通りを進んでいくと…御覧下さい。
一か所だけ敷石が違う区画があるのです。これが目印です。昔のファミコンゲームの隠し扉かよってくらいですが、この敷石の所から左の路地に入っていきます。来ました。井戸です。
ここで一葉女史も洗濯の水を汲んでいたんですね。明治の名残を残す建物が。ここが樋口一葉旧居です
明治24年(1891年)東京朝日新聞の半井桃水(なからいとうすい)の指導のもと、一葉は小説家として立つ決意を固めます。翌明治25年、雑誌「武蔵野」の創刊号に掲載された「闇桜」により、デビューを飾る事となりました。しかし生活は苦しく、針仕事や洗濯で虎口をしのぐ毎日でした。
一葉ゆかりの伊勢屋質店
ふたたび菊坂に立ち返り坂を下っていくと、右手に、樋口一葉がたびたび通ったという質屋の跡があります。白壁の蔵が印象深いです。
伊勢屋質店
伊勢屋質店
伊勢屋で苦しい家系をやりくりしたさまは、一葉作品の中にたびたび出てきます。明治26年(1893年)一葉一家が下谷竜泉町(現在の台東区竜泉一丁目)に移ってからも、その翌年、終焉の地・本郷区丸山福山町(現在の西片一丁目)へ移ってからも伊勢屋との関係は続きました。
明治29年(1896年)一葉が24歳で亡くなると、伊勢屋が香典を持って弔ったということです。それほど、縁が深かったということですね。一葉忌(十一月二十三日)には内部が一般公開されています。
ところで、壁一面に一定の間隔ごとにカギ状の金具が出ているんですが、あれは何の役割のある部品なんでしょうか?わかる方がいらっしゃれば教えてください。
近くには、宮沢賢治旧居跡、坪内逍遥旧居跡、金田一京介旧居跡など、文人の暮らした跡が多いです。
宮沢賢治旧居跡
坪内逍遥旧居跡
金田一京介旧居跡
裏手の鐙坂は、ぐわっと左右に壁が迫り、これぞ本郷という情緒を味わえます。坂が多くてうねうねと道が曲がりくねり、本郷は秘密要塞っぽいわくわく感があります。
鐙坂
一葉終焉の地
菊坂を下り切り、言問通りを左に白山通りを右に300メートルほど進と、右手に「樋口一葉終焉の地」の碑が見えます。
樋口一葉終焉の地
樋口一葉終焉の地
一葉一家は菊坂に3年を過ごした後、竜泉町に引っ越し駄菓子・荒物屋を始めますが、商売はうまくいかず一年ほどで、破綻します。
明治27年(1894年)一葉一家はここ丸山福山町に引っ越してきます。守喜(もりき)といううなぎ屋の離れで、六畳一間と四畳半、庭には三坪ほどの池がありました。
これから亡くなるまでわずか2年間に「たけくらべ」「にごり絵」「十三夜」「行く雲」などの名作が書かれました。「奇跡の二年」と呼ばれています。
花ははやく咲て散がたはやかりけり
あやにくに雨風のみつゞきたるに
かぢ町の方上都合ならずからくして十五円持参
いよいよ転居の事定まる家は本郷の丸山福山町とて阿部邸の山に
そひてさゝやかなる池の上にたてるが有けり
守喜といひしうなぎやのはなれ座敷成しとて
さのみふるくもあらず家賃は月三円也
たかけれどもこゝとさだむ
店をうりて引移るほどのくだくだ敷おもひ出すも
わづらハしく心うき事多ければ得かゝぬ也五月一日 小雨成しかど
転宅 手伝は伊三郎を呼ぶ
碑は、とてもわかりにくい所にあり、まずぜったい気づきません。「紳士服コナカ」の前。写真の位置です。よくよく注意して、見つけてください。
さて本郷通りに立ち返り、東大の赤門を通りこしてしばらく進むと、浄土宗法真寺の入り口です。
法真寺
この寺の東隣に一葉が4歳から9歳のころ、樋口家がすんでいました。まだ父も兄も健在で、樋口家も豊かな時代でした。後年一葉は小説「ゆく雲」の中で子供時代の一葉家をモデルに「桜木の宿」として描いています。
上杉の隣家(となり)は何宗かの御梵刹(おてら)さまにて、寺内広々と桜桃いろいろ植わたしたれば、此方(こなた)の二階より見おろすに、雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの観音さま 濡れ仏にておわします。御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて…
作品中で「御梵刹」と呼ばれているのが浄土宗法真寺。「此方」というのが、一葉が少女時代を過ごした「桜木の宿」です。「濡れ仏」といわれている観音坐像も健在です。
すずしげな柳の葉がゆれて、印象的です。こじんまりした、雰囲気のある境内。そして本堂内は、寺でありながら窓がステンドグラスになっていて、教会のような雰囲気です。
法真寺
観音像の右手には一葉女史の銅像があります。これは何か本を読んでいる最中に、「ハッ」とアイデアをひらめいた場面でしょうか?
そして明治の娘さんの像。並んで記念写真が撮れます。
寺の受付の事務所でしょうか。これも味わい深い建物でした。
本堂横にはステンドグラスを背にしょって、法然上人の像がありました。
毎年法真寺では一葉忌(十一月二十三日)が行われています。
本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。
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