加藤清正を祀る本妙寺と加藤神社

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本日は、熊本の歴史名所・加藤清正公を祀る本妙寺と加藤神社を訪ねます。

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本妙寺

本妙寺は、天正13年(1585年)、加藤清正が父清忠の菩提寺として建立した日蓮宗の寺院です。はじめは大阪にありましたが、天正16年(1688年)肥後入国の際、熊本城内に移され、さらに慶長18年(1611年)清正逝去の後、遺言により熊本市内の中尾山に墓所が築かれました。

翌慶長19年(1612年)、熊本城内の本妙寺が火事により焼失したので、墓所のある中尾山に移転・再建されることとなり、元和2年(1616年)、落慶しました。

「胸突雁木」と呼ばれる石段の上には清正公を祭った浄池廟(じょうちびょう)、裏山には昭和10年建立の加藤清正像があります。

仁王門~参道

市電「本妙寺入口」駅から、徒歩約3分。見えてきました。大正8年寄進の仁王門です。


あまり見ない形ですね。くぐります。


左右に寺院が立ち並ぶゆるやかな坂道を登っていきます。お正月のにぎわいも静まり、のんびりした空気でした。


写真には煙が立っていますが、護摩をたく煙などではなく、単なる焚き火の煙です。


大本堂

やがて参道右手に見えてくるのが大本堂です。


西南の役で焼失しましたが、明治27年、再建されました。古色蒼然としたたたずまいです。賽銭箱が風呂桶のように大きいのが気になります。


胸突雁木

大本堂から清正公をまつる浄池廟まで、胸突雁木(むなつきがんぎ)と呼ばれる176段の急勾配の石段を登っていきます。


胸突とは胸を突くくらい急勾配であること。雁木は石段のことです。石段中央には石灯籠がずらーーっと立ち並び、独特の雰囲気です。




常夜灯

石段最上部の右手には、二代加藤忠広公建立の常夜灯が再建されています。


慶長16年(1611年)、加藤清正が亡くなると、遺言によりその遺体はここ中尾山中腹の浄池廟に葬られました。後をついだ二代忠広公は、ここに常夜灯を建て、朝な夕なに、はるか熊本城からその灯りをのぞみ、父清正の霊を拝んだ、ということです。忠広公の親孝行ぶりをしめすエピソードです。

寛永10年(1633年)、加藤家が改易となると、いつしか常夜灯も消滅し、石垣を残すのみとなりましたが、昭和49年、熊本市内の志ある方々の寄進により再建され、今に至っています。

浄池廟

そうこうしている内に、浄池廟の前に出ました。


慶長16年(1611年)、清正が亡くなると、遺言により、自身が築いた熊本城の天守閣と同じ高さにあるここ、中尾山に葬られました。

元和2年(1616年)、熊本城内にあった本妙寺も、火事で焼失したのに伴い、ここ中尾山に移されました。


「蛇の目紋」と「桔梗紋」

境内の至るところに加藤家の家紋である「蛇の目紋」と「桔梗紋」が見えます。


「蛇の目紋」は、蛇の目を図案化したもで、単純明快な形です。遠くからもわかりやすかったでしょうね。古くは、武士が腰のところで弓の弦を巻きつけておく輪ッカ=弦巻を図案化したものとも言われます。弦巻が、いつのまにか蛇の目に見立てられて蛇の目紋といわれるようになったようです。

「桔梗紋」については、もっと物語があります。

天正16年(1688年)、豊臣秀吉は当時5500石の侍大将に過ぎなかった加藤清正を、肥後北半国19万5000石の太守として大抜擢します。

とはいえ、いきなり領土が増えたので家臣も、道具も足りません。そこで秀吉は、昨年改易された讃岐の尾藤知定(びとうともさだ)の調度品や武具を加藤清正に与えました。赴任先で苦労しないようにとの、秀吉の親心でしょう。

さらに加藤清正は、肥後入国に際して尾藤家の元家臣300名を家臣として召抱えました。そして以前から使っていた蛇の目紋に加えて、尾藤家の家紋である桔梗紋をも使うことにしました。

はるか離れた赴任先で、しかも、もともとの自分の部下ではない者を使うのは大変なことです。ふつうなら、反発を招きそうな所ですが、尾藤家の家臣たちは加藤清正の深い配慮に感じ入り、存分に働いた、と言われています。

また、加藤清正は蛇の目紋、桔梗紋のほかに「折墨(おれずみ)紋」という紋も使っていたそうですが…これについては参考文献をさがしても、よくわかりませんでした。知っている方がいらしたら、教えてください。


論語猿

境内には、「論語猿」の像があります。


ある時清正公が論語を読み、漢文を訓読するための朱点をつけていました。すると飼っていた猿がキキッ、と駆け出して、ぱっと筆をうばい、ああっと思ううちに、清正公の真似をして論語を朱で塗りつぶしてしまいました。

清正公はこれを御覧になり、お怒りにはならず、

「あっぱれな猿じゃ。昔中国では、猿が坊主の袈裟をうばい、岩の上で坊主のマネをして座禅を組んだ所、他の猿たちも集まって、猿がみんなで座禅したという。その功徳によって、猿たちは成仏したそうだ。この猿も、論語にイタズラをしたが、その形は聖賢の道にかなっている。あっぱれなサルである」

といって褒めたという、「論語猿」の逸話に基づく、猿の像です。

金官の墓

また境内には金官の墓があります。


金官は役職名で、本名は良甫鑑(りょうふかん)。文禄の役(1592-3年)で朝鮮からつれてこれた朝鮮人です。清正から200石を与えられ、近侍として清正のそばに仕えました。清正に深く心酔し、清正没後は、後を追って殉死。清正の墓所である浄池廟の脇に葬られました。

加藤清正像

浄池廟の裏山に登ります。三百段の大階段です。


上がるにつれて、熊本市内が広々と見渡せます。石段を上り詰めた所には、昭和10年建立の加藤清正像が迎えてくれます。



甲冑をよろい、長烏帽子をかぶり、槍を立てた質実剛健な姿です。

昭和19年、大東亜戦争末期の金属供出で撤去されましたが、昭和35年再建され、今に至ります。私は地元だけあって、子供の頃から何度も見にきてますが、今回改めて見上げてみて、やはり勇ましく、気分がスカッとしました。

眼下に熊本の町並みを見ながら、大声で、平家物語の一節などを暗誦してきました。


車に乗って移動すること約10分。熊本城の本丸に、加藤清正を祀った加藤神社があります。


もとは本妙寺といっしょの場所にありましたが、明治4年(1871年)、神仏分離令により本妙寺から別れ、熊本城本丸に移されました。



境内右手には、熊本城がそびえます。


雄大な眺めです。のぼりと、城が、同じ構図に入るのが、いいですね。結婚式の前撮り写真の撮影スポットとしても知られています。

境内には清正公が文禄の役の記念として朝鮮から持ち帰った太鼓橋、


清正公の旗立石、


二代忠広公ゆかりの松などがあり、清正公の影をしのぶことができます。

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