笠置町を歩く
本日は「笠置町(かさぎちょう)」を歩きます。
笠置町は京都府の最南端、木津川沿いに位置し、京都でもっとも小さな町であり、全国で二番目に人口の少ない町です。
郊外の笠置山は古くから巨石信仰で知られた霊場で奈良時代に笠置寺が創建されましたが、元弘元年(1331)後醍醐天皇方と鎌倉幕府方の合戦により、全山が焼けてしまいました。しかしその後、再建され、本尊の摩崖弥勒菩薩像とともに親しまれています。
木津川でのキャンプやカヌー、岩場を使ったボルダリング、笠置山から見える雲海も有名です。
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駅前~笠置山へ
JR関西本線笠置駅下車。
駅舎の前に「太平記」の「笠置合戦」を再現した等身大ジオラマがあります。
元弘元年(1331)、後醍醐天皇は鎌倉幕府討伐を計画しましたが、事前にバレると、御所を脱出し、笠置山にこもりました。
これに対し、鎌倉方六波羅探題、鎌倉から派遣された大仏(北条)貞直(さだなお)、金沢(北条)貞将(かねさわ さだゆき)、足利高氏らの大群が笠置山を取り囲む。しかし、笠置山は山全体が巨石・奇岩で覆われており、攻撃は容易ではない。
幕府方が笠置山一の木戸仁王門まで進んでいくと、天皇方3000人余がひしめきあい、その中に三河国住人足助次郎重範という者が強弓をもって次々と幕府方を射殺していく。
さらに夕刻になると、般若寺の本性坊なる大力の僧兵があらわれ、巨石を投げつけるという『太平記』の、勇ましい場面です。
木津川に流れ込む白砂川にかかった大手橋をわたります。
五月雨は水上まさるいづみ川
かさぎの山も雲かくれつつ
藤原俊成
いづみ川は木津川の古名。
町中を進んでいくと、笠置山への入り口が見えてきます。
笠やん終焉の地
山道を登っていきます。
道すがら、「笠やん終焉の地」の顕彰碑があります。
笠置には「笠やん」の名で親しまれていた一匹の猫がいました。トラ猫風のオスで、笠置寺境内の行場を歩く時、人なつこく案内してくれたということです。
笠やんは平成6年2月に亡くなり、笠置寺境内に埋葬されました。多くの人に愛された笠やんを記念して、ここに顕彰してあります。地元の人たちの優しさが感じられますね!
笠置寺の前まで来ました。
ここから東へ山道を下っていけば、柳生の里に到ります。
笠置寺の創建は古く、2000年も前から、笠置山の巨岩は信仰の対象となっていました。大友皇子創建とも天武天皇創建とも伝えられますが、寺として創建されたのは1300年前の奈良時代です。
1300年前、東大寺の初代別当良弁、その弟子実忠により笠置山の大岩石に仏像が彫刻され、笠置山全体が霊場として栄えました。末法思想が流行った平安時代中期(1052年~)以降、笠置寺の大磨崖仏は天神が彫刻した仏として大いに信仰されました。
鎌倉時代建久2年(1212)、藤原貞慶(後の解脱上人)が笠置山を拠点に宗教改革を行い、笠置寺は49の堂宇を構える一大霊場に発展しました。
しかし元弘元年(1331)8月27日、鎌倉幕府打倒をめざす後醍醐天皇を当山に迎えたため、天皇方と鎌倉方の戦になり、本尊の弥勒摩崖菩薩はじめ全山が焼失。以後、室町時代に少々の復興はあったものの、江戸時代には衰退していきました。
明治9年(1876)丈英和尚が20年かけて復興につとめ、今日の姿となりました。
磨崖仏周辺
毘沙門堂を左に見て進み、入口から入ります。以降は巨石がひしめく行場です。
まず左に巨大な磨崖仏を見ながら進むと、本堂たる正月堂が見えてきます。
正月堂正面に、高さ15.7M、幅12.7Mの弥勒石がぬうっとそびえます。
見上げていると足元がスースーしてきます!かつては岩の表面に日本最大最古の弥勒菩薩像が彫られていましたが、元弘元年(1331)の戦火にあい、現在は仏像の光背の形だけが残っています。
正面の十三重塔は解脱上人貞慶建立の庵のあとに鎌倉時代後期に建てられたものです。
千寿窟
正月堂から北に進んでいくと、金剛界石、胎蔵界石の間に、千手窟(せんじゅくつ)があります。
東大寺の初代別当・良弁僧正がこもって千手の修法をおさめ、その弟子、実忠(じっちゅう)和尚がここから弥勒菩薩の住む世界である兜率天に入り、お水取りの修法を持ち帰ったとされます。
仏の世界への入り口であり、笠置寺でもっとも重要な場所です。
お水取りは修二会(しゅにえ)ともいい、奈良を代表する仏教行事です。東大寺二月堂御本尊の十一面観音に自分の罪を懺悔して、天下泰平・五穀豊穣・人々の幸せなどを祈ります。
現在は毎年3月1日から14まで行われています。
3月12日夜、練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる僧侶が二月堂に上がる道筋を照らす松明の火は、修二会のシンボルとしてよく知られています。そして12日深夜、二月堂下にある閼伽井屋の水が汲み上げられて、ご本尊の十一面観音にお供えされます。水を汲み上げるから「お水取り」です。
今年(2020年)は新型コロナで人は少ないながら、それでも開催されました。
千手窟のそばには高さ12M幅7Mの虚空蔵石がそびえ、表面には奈良時代の線彫りによる摩崖菩薩像が刻まれています。
行場めぐり
胎内くぐり。行場への入り口です。狭いトンネルをくぐることで身を清めます。
太鼓石。くぼみを叩くと不思議な音がする。
ゆるぎ石。
元弘元年(1331)の合戦の時、山の防ぎと伝わります。大きな石ながらゆすると動くということです。
パッと視界が開けて平等石があります。
岩の周囲をまわって行をしたといわれ、江戸時代には月見の名所となりました。ゆったりと流れる木津川が見下ろせます。
いい気分です!10月から12月にかけては雲海が見えるということで、どんなにか素晴らしかろうと思わされます。
ニの丸跡。元弘元年(1331)の合戦の時、城はつくられなかったが、江戸時代以降、この場を「二の丸」とよぶようになりました。
貝吹岩。元弘元年(1331)の合戦の時、この上で法螺貝を吹いたといいます。
長い石段をのぼった先が、玉垣に囲まれた後醍醐天皇行在所です。
鎌倉の鎌倉宮近くにある、大塔宮護良親王の墓と、場所のかんじが似てると思いました。やはり親子だからでしょうか…
大塔宮護良親王の墓
宝蔵坊あと。ひたすら青紅葉を通して、光のシャワーを浴びているようでした!
弘法大師をまつる太子堂(旧正月堂跡)を経て、
鐘楼には東大寺の俊乗房重源が笠置寺解脱上人貞慶に寄進したと伝えられる解脱鐘が下がっています。大晦日にのみ、撞かれます。
木津川からの眺め
ふもとの木津川からの笠置山の眺めも見事です。
川沿いにはキャンプ場やカヌースクール、ボルダリングエリアがあり、親子連れからも親しまれています。
次の旅「北野天満宮 ずいき祭り 2017年」