鹿島神宮を歩く(二)

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本日は昨日に引き続き、「鹿島神宮を歩く(二)」です。

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茨城県の鹿島神宮はタケミカヅチノカミを祀る、神武天皇創建による神社です。常陸国一の宮。旧官幣大社であり、千葉県の香取神宮、茨城県の息栖(いきす)神社と共に、東国三社の一つに数えられます。

鹿島神宮(二)

奥の宮

前回に引き続き、杉並木の中を歩いていきます。


すると、右手に見えてきました。奥宮(おくのみや)です。


慶長10年(1605)徳川家康が本殿として奉納したものを、元和5年(1619)二代秀忠が現在の本宮が造営されるにあたって場所を移し、奥の宮としたものです。さすがに古色蒼然とした風格が漂っています。


芭蕉句碑

その奥宮の正面には売店があり、売店の店先に芭蕉の句があります。



松尾芭蕉は貞享4年(1687)年、深川で知り合った禅僧・仏頂和尚を訪ねて鹿島を訪れ、その際に鹿島神宮にも参詣しています。旅の記録は後日『鹿島紀行』としてまとめられました。

此の松の実生えせし代や神の松

「実生え」とは種から芽が出ること。この松が種から芽を出したはるかな昔も偲ばれる、神前の秋の気色だよ。明和3年(1766)建立と、句碑自体かなり古いものです。

大鯰の碑

ここから道が二手に分かれます。右に進むと要石。左に進むと御手洗池です。


まず右に進みます。奥宮を右手に見ながら、さらに鬱蒼たる杉並木を進んでいきます。



途中、道端に大鯰の碑があります。


鹿島明神(タケミカヅチノカミ)が、地震を引き起こす大鯰を取り押さえている図です。ナマズの目がかわいいです!「まいったか!」「もうしません」そんな感じです。

要石

見えてきました。要石を囲む玉垣が。


玉垣の中央に鎮座している、あれが!地震を抑えているという要石です。



えっ、あれ?あれっすか?という感じですが、地面に出ているのはごく一部で地下には巨大な本体が埋まっており、地震の原因となる大鯰の頭を押さえていると伝えられます。一方、千葉の香取神宮の要石は大鯰の尻尾を押えているということです。鹿島神宮と香取神宮で、大鯰の頭と尻尾をそれぞれ押えていると伝説されています。

徳川光圀がこの石を怪しんで家来に掘らせますが、七日七晩かかっても掘りだせなかったばかりか、光圀公の顔に腫れものができたので、これはいかんと恐れをなして、それ以上掘ることを止めたと伝えられます。

またこんな話もあります。幕末・安政年間。この地に大地震が起こりました。安政の大地震です。要石が鯰を押えているのにどうして地震が起こってしまったのか?実はこの時、神無月で、鹿島明神タケミカヅチノカミは出雲に行っていたんですね。留守をエビスさまが預かっていましたが、エビスさまは酒を飲みすぎて酔っ払っていました。そのため、鯰への押えを怠ったのです。「とんでもないことになった!」鹿島明神はあわてて出雲から帰って来て、エビスさまをしかりつけた上、鯰たちを呼び出して、さんざんに叱りつけたと伝説されます。

要石の横には芭蕉の句碑があります。

枯枝に鴉のとまりけり秋の暮


この句は深川で詠んだもので鹿島とは関係ないんですが、この場の雰囲気にぴったりということで、句碑が立っているのでしょう。

御手洗池

ふたたび分岐点まで引き返し、今度は反対側の道を下っていきます。


見えてきました。御手洗池です。古くから禊の池です。


大人が入っても子供が入っても水嵩が一定で、胸のあたりで止まることが、鹿島七不思議の一つに数えられています。



御手洗池の裏手には、湧き水の源泉があります。チロチロチロチロ…涼しげに湧きだしている横に、句碑がありました。



涼しさや神代のままの水の色 松露庵雪才

いい句ですね!本当に、今のこの、水の色は、神代の昔から変わらないのだなァと、あらためて感動を示してくれます。松露庵雪才が誰なのか私はまったく知りませんが、景色とあいまって、句の情緒がしみわたりました。道すがら、涼しさや神代のままの水の色、涼しさや神代のままの水の色…唱えながら歩いてきました。この句に出会えただけでも、はるばる鹿島まで来たかいがあったと思います。


本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

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