熊本県 菊池を歩く(一)
本日は熊本県・菊池を歩きます。
菊池は肥後最大の豪族・菊池一族の本拠地です。
菊池一族は平安時代から室町時代の後期まで450年間にわたって菊池地方を中心に活躍しました。
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菊池一族。
その始まりを言えば、「中関白(なかのかんぱく)」と言われた藤原道隆(ふじわらの みちたか)の子孫・藤原則隆(ふじわらの のりたか)が菊池に下向し、地名をとって菊池氏と称したのが始まりとされます。
南北朝時代の15代菊池武光の時、菊池氏は全盛期を迎えます。
15代菊池武光は後醍醐天皇の皇子・懐良親王を菊池に迎え、これを「征西将軍」として旗印とします。以後、菊池氏は一貫して南朝を支持し、九州の北朝勢力と戦いました。
正観寺
熊本市内から国道203号線を阿蘇方面に向けて車を走らせます。道すがら、昨晩の雨を生き延びた桜がワアッと咲き、晴れやかな気分でした。
菊池女子高校が見えてきたところで、坂道を左に折れ、すぐに右に折れると、正観寺です。
熊耳山(ゆうじさん)正観寺(しょうかんじ)。菊池一族の菩提寺である、臨済宗の寺院です。
興国5年(1344)年、15代菊池武光が大方元恢(たいほうげんかい)を招いて建立。一時は11の末寺があり、全国十刹の一つに数えられるも、現在は近世になって改築された地蔵堂が、残るのみです。境内には菊池武光はじめ菊池一族の墓数基があります。
境内は…昨夜の雨で散った桜が散り敷いて、いい風情でした。
地蔵堂のまわりには「元の」正観寺の礎石がいくつも残されています。
地蔵堂裏手に樟の大木が。十五代菊池武光公の墓標として植えられた、と伝えられる樟です。すごいパワーです。見事な枝ぶりです。青々と茂ってます。幹は少し赤みがかってます。
菊池武光と懐良親王
建武3年(1336年)
足利尊氏の軍勢が九州から都に迫ると、後醍醐天皇は都を脱出。比叡山に逃れました。
やがて都入りする足利尊氏の軍勢。
比叡山で後醍醐天皇は尊氏への抵抗を試みますが…
いかんせん、尊氏の軍事力の前には、あまりに無力。
「降伏されよ」
「くっ…」
やむなく足利尊氏からの降伏勧告を受け入れる後醍醐天皇。
しかし、
後醍醐天皇は比叡山を離れるにあたって、自分の分身である皇子たちを、日本各地に遣わしました。
いずれ尊氏と戦う時のため。また自分に万一のことがあった場合は、地方から尊氏に抵抗させるために。
鎌倉には成良(なりよし)親王を。奥州には義良(のりよし)親王(=後村上天皇)を。そして九州に送ったのが懐良(かねよし)親王です。
「父上、御無事で」
「うむ。お前こそ、気を付けてな」
懐良親王は途中、瀬戸内の忽那(くつな)諸島や日向・薩摩を経て、12年の歳月を経て、肥後に到着。菊池氏十五代・菊池武光に迎えられます。
「ようこそ菊池へ。
さぞお疲れでしょう」
「うむ…世話になるぞ」
懐良親王は菊池一族の居城である守山城背後の山・内裏尾(だいりお)にご在所を置きました。
以後、懐良親王は内裏尾より九州各地の南朝方勢力に指示を出し、あるいは自ら戦場に立って戦います。
懐良親王は「征西将軍」とよばれ、懐良親王のご在所のあった内裏尾は、征西府(せいせいふ)と呼ばれました。
1365年、菊池一族は大宰府を落城させ、征西府は菊池から大宰府に移ります。当時、大宰府は九州の政治・行政・軍事の中心地でした。
征西府は大宰府から京都侵攻を企てるも、7年目の1372年、大宰府を攻め落とされて菊池に戻り、さらに8年後の1381年、菊池城は落城しました。
菊池武光公 墓碑
庫裏の奥に、菊池武光公の墓碑があります。さきほどの樟を見上げる位置です。
天明2年(1782)建立。亀のような?生き物の像の上にお墓が乗ってます。これは何でしょうか?
亀趺(きふ)という、亀に似た、想像上の生き物です。キリンのような首で、しっぽの形が派手です。その亀趺の上に、墓が乗ってる形です。江戸時代以降の、墓の様式です。身分の高い人の墓に見られます。
伝菊池武政・武澄・武国公の墓
裏手の墓地の一角には、16代菊池武政・武澄・武国の墓と伝えられる宝篋印塔があります。
お墓の横のお稲荷さんが、いい雰囲気でした。木の鳥居も、石段も、何かがいらっしゃる感じの。いい雰囲気です。しっかり手を合わせていきます。
正観寺を後に、菊池市民広場に入ります。とても人が多く、賑わってます。無料の足湯があり、憩いの場になっています。
チキキ、チキキ、チキキ、チキキ…
飛び交う燕。
咲き乱れる桜。
春の風情の中、広場を横切って、その先にあるのが…
菊池氏15代・菊池武光公の像です。
菊池武光とは?
15代菊池武光。
12代菊池武時の息子。13代菊池武重(たけしげ)・14代武士(たけひと)の弟。
1348年、後醍醐天皇の皇子・懐良親王が九州に下ると、菊池武光は懐良親王を菊池の地に迎えました。
以後、九州では西征将軍・懐良親王をかつぐ宮方(みやがた)と、足利尊氏の勢力である武家方の対立が続くこととなります。
菊池氏は一貫して宮方(南朝方)を支持し、武家方(北朝方)と戦いました。
1359年8月、福岡県南西部を流れる筑後川をはさんで、南朝方・菊池武光と、少弐氏はじめ北朝方との間で大規模な合戦が行われます。筑後川の合戦です。結果は南朝方・菊池武光の勝利。
この筑後川の戦いの後、菊池武光が血のりのついた大刀を洗ったことから、大刀洗川(福岡県三井郡大刀洗町)の地名が生まれました。
筑後川の戦いの後、菊池一族は九州の北朝勢力を討伐し、1365年、九州の行政・軍事の中心である大宰府を占拠。以後12年間、大宰府は菊池一族によって統治されました。
……
菊池武光像は、デーンとした台座の上に、そびえています。カッコいいです。
馬が両足をワッと前に投げ出して、軍配団扇を前に掲げて、
「進めー!」
て感じです。ちょっと馬の尾っぽが長すぎやしないかと思いますが、勢いを出すための、表現でしょう。
(制作…日本芸術院会員 中村晋也)
菊池神社
菊池神社に向かいます。
菊池神社は菊池一族の居城「守山城(もりやまじょう)」の跡に、明治三年(1870)に創設された神社です。菊池氏12代菊池武時・13代菊池武重・15代菊池武光を主神とし、菊池一族26柱を祀ります。
ゆるゆかにカーブした坂道を上ると、踊り場状のエリアに出ます。
右手に菊池武時公の像。
左手は菊池の街並みが一望できます。
門をくぐると、広々した境内です。松が視界を斜めに横切り、迎えてくれます。
正面右が、菊池氏十代・菊池武房公をまつった城山神社です。
菊池武房公は文永の役(1274)・弘安の役(1281)二度のモンゴル襲来の際、モンゴル軍と戦いました。有名な『蒙古襲来絵詞』に描かれています。また儒教を取り入れ、肥後の地に文教の気風をもたらしました。
正面左が拝殿です。
拝殿左には歴史資料館。菊池氏関係の資料を展示してあります。特に『蒙古襲来絵詞』の模写と、13代菊池武重の考案による「菊池千本槍」は必見です。
菊池武時・武重父子、袖ヶ浦の別れ
元弘3年(1333)後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げると、それに相呼応して、菊池氏12代・菊池武時は博多の鎮西探題を攻撃しました。
鎮西探題は九州を統括する、鎌倉幕府の機関です。この時、鎮西探題を守っていたのは北条英時(ほうじょう ひでとき)。菊池武時にとっては余裕の戦と思われましたが、背後で味方の少弐貞経・大友貞宗が背きました。
「おのれ!裏切りとは…!かくなる上は、討ち死にせん」
「父上、私もお供いたします」
声を上げたのは嫡男・武重です。しかし父武時は、息子武重に言います。
「お前は菊池に帰れ」
「何をおっしゃいます父上!私は父上とともに、
名誉の討ち死にを遂げとうございます」
「ならぬ!お前は落ち延びて、一族率いて再起せよ」
「うう…父上…」
そこで父・武時は衣の袖を破って、息子武重に、
故郷にこよひばかりの命とも
知らでや人のわれを待つらむ
故郷に、今夜限りの命とも知らないで、愛しい家族が私を待っているだろう。
「袖ヶ浦の別れ」として現在に伝わる場面です。
正面に鎮西探題・北条英時。背後に裏切った少弐・大友。
前後からはさまれて、菊池武時はじめ70名あまりは、全員討ち死にを遂げました。
しかし、菊池武時の鎮西探題攻撃は、九州における倒幕運動のさきがけとなります。
1333年6月、鎌倉幕府滅亡。
すると、菊池武時を裏切った少弐も大友も反北条に転じ、鎮西探題を攻め滅ぼしました。菊池武時は、打倒北条・打倒鎌倉幕府のための礎となったわけですね。
楠木正成は菊池武時のことを「帝に一命を賭した、忠臣第一の人」とたたえています。
明治2年(1869)最後の福岡藩主・黒田長知が、現在の福岡大学のそばに、菊池武時をまつる菊池神社を建立。
翌明治3年(1870)、熊本の菊池に、この菊池神社が建立されました。
菊池武重とは?
13代菊池武重。12代菊池武時の嫡男。14代武士・15代武光の兄にあたります。父武時が鎮西探題探題を攻撃するさい、嫡男の武重と涙ながらに別れた、「袖ヶ浦の別れ」は有名です。
父武時はその九州探題との戦いで壮絶な討ち死にを遂げましたので、その後を継いで嫡男の武重が13代菊池氏当主となりました。
菊池千本槍
また菊池武重公は「菊池千本槍」の創始者としても知られています。
建武2年(1335)、箱根竹の下の戦いで足利直義軍と戦った時、敵は3000。こちらは1000の劣勢でした。この時菊池武重は竹竿の先に短刀をくくりつけて即席の槍として戦い、敵を破りました。
戦から戻った武重公は、刀鍛冶の延寿一族に命じて千本の槍を作らせます。槍の元祖ともいわれる、菊池千本槍です。
また菊池一族の憲法、「寄合衆内談の事」を定めたのも、この菊池武重公です。なんでも話し合って、皆で決めていこう。という内容です。「国務の政道は内談の議を尚すべし」の一文は、明治天皇の「五箇条の御誓文」の手本となりました。
菊池神社では、武重は父武時・弟武光とともに主神として祀られています。
次の旅「菊池を歩く(二)」