アジサイ色づく北鎌倉に 北条氏ゆかりの寺々を訪ねる(一)

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「アジサイ色づく北鎌倉に 北条氏ゆかりの寺々を訪ねる(一)」です。

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北鎌倉は鎌倉市街の入り口にあたり、鎌倉の中心部から山一つ隔てた山あいにあります。建長寺・円覚寺・明月院など、北条氏ゆかりの禅寺が立ち並び、四季折々の花が目を楽しませてくれます。

JR横須賀線 北鎌倉駅下車。


もうそこは円覚寺の境内です。

明治22年(1889)富国強兵を推し進める明治政府は、東京と横須賀軍港を結ぶため、横須賀線を敷設。この時、円覚寺の境内を横切って敷設しました。だから北鎌倉駅下りた所はもともと、円覚寺の境内だったわけです。

光照寺

すぐに円覚寺を歩きたい所ですが、ここで少し鎌倉街道を大船方面へ向かいます。小坂(こさか)郵便局の先を左に折れ、小袋谷川(こぶくろやがわ)にかかった宮の台橋を渡ります。きれいな水が流れてます!


ちょっと坂道を登ると、見えてきました。

光照寺。時宗のお寺です。


弘安5年(1282)、「踊り念仏」で知られる一遍上人は、信者を率いて巨福呂坂から鎌倉入りしようとしました。しかし執権北条時宗の警備の武士に行く手を阻まれ、やむなく、鎌倉の西・片瀬に向かいました。その夜、一遍上人たちが野宿したのがこのあたりと伝えられます。「一遍上人の法難霊場」と言われます。

石段を上った所にある山門の欄干にはキリスト教の十字を思わせる「くるす紋」が掲げられています。そのためこの山門を「くるす門」と呼んでいます。


境内にはシャクナゲ・ユキヤナギ・レンギョウ・萩などが植えられ、四季折々に目を楽しませてくれます。特にシャクナゲが有名で「しゃくなげ寺」と呼ばれています。


屋根を葺き替え工事の最中でした。ネットごしに見える銅葺き屋根は、新しく葺き替えられてキラキラ光ってました。


光照寺を後に鎌倉街道を南下。北鎌倉駅まで引き返し、


少し鎌倉方面に歩くと、


左手に円覚寺の白鷺池(びゃくろち)。ふだんは水が張ってるんですが、日照り続きで水が枯れていました。



この白鷺池の真ん中を通って、横須賀線の線路を横切ると、


正面が円覚寺入口です。


瑞鹿山 円覚寺(ずいろくざん えんがくじ)。

1282年(弘安5年)、八代執権北条時宗が、蒙古襲来による敵・味方の戦死者の霊を供養するため宋より無学租元(むがくそげん)を招いて建立した、臨済宗の寺院です。


文学作品に多く描かれ、川端康成の「千羽鶴」、大佛次郎の「帰郷」、夏目漱石の「門」「夢十夜・第二夜」、島崎藤村の「春」「桜の実の熟する時」などに円覚寺は登場します。

境内には、

源実朝が宋の能仁寺から分骨した仏舎利(シャカの骨)が収められた舎利殿(ふだんは非公開。正月三が日とゴールデンウィーク、文化の日前後三日のみ公開)

北条時宗・貞時・高時をまつった開基廟(かいきびょう)

北条貞時が江の島弁天のお告げにより鋳造したという、洪鐘(おおがね)など

見どころが多いです。

東慶寺

円覚寺とJR横須賀線の線路をはさんで向かい側には、東慶寺があります。



東慶寺は、「縁切り寺」として知らる臨済宗の寺院です。

8代北条時宗の妻覚山尼(かくざんに)が時宗没後の弘安4年(1282)尼寺として開きました。

山門くぐります。境内はとても広いです。


右に本堂。



奥にショウブ園。



その横に建つ白壁の松ヶ岡宝蔵は、寺宝を展示しています。


当時、夫がどんなに酷くても、妻の側から離婚することができませんでした。

そこで覚山尼は、東慶寺に駆け込んで3年修行すれば、妻の側から離婚できるとしました。

救われた女性は多かったことでしょう。

もっとも実際には離婚まで行かず、寺が夫婦の間に立って調停役をしたようですが…。

地名であり山号である「松岡」から、

松ヶ岡男を見れば犬が吠え

松ヶ岡男の意地をつぶす所

…そんな川柳まで詠まれています。男性からは、東慶寺に駈けこまれたら大変だと、恐れられていたようですね。

後醍醐天皇の皇女・用堂尼(ようどうに)が五代住持となってからからは、いよいよ栄え「松岡御所」と呼ばれました。

さらに道を進んでいくと、鎌倉特有の断崖が見られます。


境内最奥には、後醍醐天皇の皇女・用堂尼の墓があります。



ちょうど、用堂尼の墓に手をあわせている時に、ほととぎすが鳴き始めました。いい感じです。

立ち並ぶ杉も苔むして、ドッシリと力強い感じです。


豊臣秀頼の娘(俗名不明)は大阪城落城後、捕らえられますが、家康の孫娘・千姫の養女となっていたために許され、東慶寺に預けられました。後に20代住持・天秀尼となります。

天秀尼によって東慶寺は徳川家ともつながりができ、徳川家の篤い庇護を受けました。

明治6年(1873)に法律で妻の側からも離婚できるようになり、東慶寺は「駆け込み寺」としての機能を失いました。しかしその後も「駆け込み寺」の愛称で親しまれ、今に至ります。

東慶寺を後に、浄智寺に向かいます。



浄智寺は、五代執権北条時頼の三男・北条宗政(むねまさ)の菩提を弔うために創建された、臨済宗の寺院です。

山門前の池には苔むした反橋がかかり、その脇に鎌倉十井(かまくらじっせい)の一つ・「甘露の井」があります。甘い水だったそうですが、現在は残念ながら飲めません。


三門には「寶所在近」の文字。宝は近いところにあるという禅の言葉です。


山門くぐり…


次に見えてきた鐘楼門は、二階が鐘楼になっている、めずらしい形の門です。


左に見事なビャクシンの木を見ながら進んでいくと、


右手に本堂たる「曇華殿(どんげでん)」。


ご本尊の三如来(阿弥陀・釈迦・弥勒)が安置されています。それぞれ過去・現在・未来をあらわしているということです。

境内はとても広く、


鎌倉特有の「やぐら」(中で修行したり地位の高い人のお墓となった)。



七福神の一つ、布袋さまの像も見どころです。洞窟くぐった先にあって、ちょっと楽しい感じです。



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