織田信長の居城 尾張・清洲を歩く

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本日は織田信長の居城として知られる尾張・清洲を歩きます。

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清洲城は織田信長の居城として有名です。信長と家康が同盟した「清洲同盟」、本能寺で信長が討たれた後の後継者を決める「清洲会議」の舞台ともなりました。


徳川家康が都市機能をすべて名古屋に移した「清洲超(きよすごし)」によって清洲城は取り壊されましたが、平成元年(1989)約400年ぶりに清洲城の天守が復元されました。

清洲古城跡公園

JR東海道本線清州駅下車。


案内板に沿って歩いていきます。田園風景の中を歩くこと約15分。見えてきました。

清洲古城跡公園です。

清洲城と五条川を挟んだ対岸に、公園があります。ここが元清洲城があった位置です。ちょっと盛り上がって高台になった所に清洲古城跡公園のお社があり、清洲城の碑があり、右大臣信長公古城址の碑があります。



公園脇には清洲城の石垣が復元されています。


公園脇を流れる五条川の護岸工事の際に発掘された石を使ってを復元したものです。これらの石碑や石垣によって「元の」清洲城の面影を、しのぶことができます。

では五条川にかかった朱塗りの大手橋を渡り、現在の清洲城を訪ねましょう。


平成元年(1989)400年ぶりに復元されたものです。内部は史料館になっており、清洲城の歴史を楽しみながら学ぶことができます。


見上げると、最上階の朱塗りの欄干が目にあざやかです。天守前に広がる枯山水の庭園もいい感じです。最上階にのぼると、はるか西に伊吹山の影がうっすらと見えます。



清洲城の歴史

室町時代応永12年(1405)尾張国守護・斯波義重による創建。

当初は守護所(しゅごしょ)であった下津城(おりづじょう。稲沢市)の別郭として建てたられましたが、文明8年(1476)戦乱で下津城が焼失。翌々年の文明10年、守護所が清洲城に移り、以後、清洲は尾張の中心地として栄えます。清洲下四郡を統治する織田守護代家の城として繁栄しました。

弘治元年(1555)、織田信長の叔父の織田信光が、もとの城主織田信友を殺害して、甥の信長を名古屋城から清洲城に導き入れます。その後、織田信光が死んだので、清洲城は織田信長の居城となりました。以後、信長は10年間を清洲城に過ごします。

その間、永禄3年(1560)に桶狭間の合戦があり、桶狭間の翌永禄4年(1561)には徳川家康との同盟…清洲同盟があり、永禄6年(1563)美濃斎藤氏との戦いに備えるため信長は小牧山城に移っていきますが、その後も清洲城は重要拠点として機能し続けました。

天正10年(1582)本能寺の変で信長が討たれた後の清洲会議も、ここ清洲城で行われました。結果、羽柴秀吉が信長の後継者として躍り出て、信長次男・信雄(のぶかつ)が清洲城の城主となります。

信雄は張り切って清洲城を改築しました。荘厳な天守を作り、城下町の機能を整え、清洲の町は織田信雄のもと、いよいよ栄えていきます。

しかし織田信雄は小田原征伐後の国替えについて秀吉に逆らったため左遷され、清洲城は以後、豊臣秀次、福島正則の居城となりました。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦では城主福島正則のもと、清洲城は東軍の後方基地として機能しました。

関ヶ原後は松平忠吉(家康四男)、徳川義直(家康九男。尾張徳川氏初代)の居城となり、清洲の城下はいよいよ栄えます。人口は六万人を数え、清洲城は「天下の名城」と讃えられました。

しかし。

慶長15年(1610)徳川家康は清洲城廃止と名古屋城築城を宣言。翌慶長16年(1611)から、清洲の建物や城下町の機能すべてを名古屋に移す「清洲超(きよすごし)」が実行されました。名古屋城築城には取り壊した清洲城の資材が使われました。

中にも、名古屋城 御深井丸(おふけまる)西北隅櫓は清洲城の資材が使われ、ために「清洲櫓」と呼ばれます。

慶長18年(1613)、清洲超(きよすごし)が完了し、名古屋城が完成し、清洲城は廃城となりました。

「思いがけない名古屋ができて花の清洲は野となろう」

当時の臼引歌に、こう歌われています。

現在の天守は平成元年(1989)復元されたものです。

ふたたび五条川を渡り、東海道本線の線路下をくぐります。そこにあるのが清洲公園です。一段高くなった盛土の上に織田信長の像が立っています。桶狭間の戦いに望む26歳の時の姿をイメージしています。


桶狭間の合戦には、ここ清洲城から信長は出陣していきました。26歳!実にさっそうとした、若々しい感じです。

そばには妻である濃姫(帰蝶)の像も立ちます。


濃姫は美濃の斎藤道三の娘で、天文17年(1548)信長の正妻となりました。

濃姫は斎藤道三の娘・信長の正妻という以外、ほとんどわからない人物です。今後の研究に期待したいところです。

清洲宿本陣跡

清洲公園から少し清洲の町中に向かって歩いて行くと、清洲宿本陣跡があります。


清洲宿は東海道の宮(みや)宿と中山道の垂井(たるい)宿を結ぶ重要な脇街道でした。

清洲超(きよすごし)によりいったんは廃れますが、元和2年(1616)ふたたび宿が置かれ、勢いを取り戻していきました。

清洲宿は本陣・脇本陣に旅籠屋が軒を連ね、大いに賑わいました。将軍の上洛や参勤交代、朝鮮通信使、琉球通信使、お茶壺道中の休泊所となりました。

明治24年(1891)の濃尾(のうび)地震で旧本陣は焼失し、この正門だけが縮小して再建され、清洲宿の面影を今に伝えています。

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