鎌倉 小町大路を歩く
本日は「鎌倉 小町大路を歩く」です。
鎌倉の小町大路界隈は、北条氏に滅ぼされた比企一族の墓のある妙本寺、若宮大路幕府跡、北条高時腹切りやぐら、北条氏の怨霊を鎮めるために建立された宝戒寺など、北条氏関係の史跡が多いです。また日蓮宗の寺院が集中しており、日蓮の足跡をたどる意味でも、興味深いエリアです。
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前回の
「江の島を歩く(一)」
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「江の島を歩く(二)」とあわせて、お聴きください。
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大巧寺
JR鎌倉駅東口から駅前の道を歩き、若宮大路を横断してすぐ右手に、大巧寺(だいぎょうじ)の入り口があります。鎌倉駅からもっとも近い寺院です。
大巧寺は日蓮宗系単立寺院。五世日棟が、秋山勘解由(あきやまかげゆ)という方の妻が難産で亡くなった時、これを供養したことから安産祈願の寺として知られ、「おんめさま」の愛称で親しまれています。
敷石をしいた細い通路を歩いていくと、
本堂に出ました。
このまま若宮大路と並行して走る小町大路までつっきれます。地元の方は駅への行き来する近道としても利用しているようです。
大巧寺を出て小町大路を右に折れ、しばらく進むと本覚寺の山門です。
本覚寺は鎌倉七福神の一つ夷神をまつる夷堂で有名です。お正月は三が日の「初えびす」と十日の「本えびす」でにぎわいます。「本えびす」では金烏帽子の福娘がお神酒をふるまいます。
文永11年(1274年)配流先の佐渡から帰還した日蓮が、甲斐の身延山に隠棲するまで、この夷堂に暮らしていたと伝えられます。現在の夷堂は昭和56年(1981年)に再建されたものです。
元弘3年(1333年)、新田義貞の鎌倉攻めで焼失しますが、その後、鎌倉公方足利持氏がこの地に寺を建て、初代住職日出(にっしゅつ)に寄進。日蓮宗の寺院となりました。
二世住職・日朝上人は、身延山まで参詣できない信者のために、日蓮の遺骨を分骨してここ本覚寺におさめました。本堂右手にある日蓮上人分骨堂がそれです。
そのため、ここ本覚寺は「東身延」と呼ばれます。
若宮大路に背を向けて建っていますね。これは、若宮大路に向けて出入り口を作ることを禁じられていた時代の名残と言われます。
若宮大路のすぐですので、周囲はとても車の交通量が多いです。車に気を付けて出入りしなければなりません。
妙本寺
本覚寺の総門を出て、まっすぐ進んでいくと、見えてきました。妙本寺の総門です。
この寺一帯の地名を比企谷(ひきがやつ)といい、かつて鎌倉幕府の重臣・比企一族の館があった場所です。
源頼朝没後、嫡男の源頼家が二代将軍となりますが、やがて頼家の母・政子の実家である北条氏と、頼家の妻・若狭局の実家である比企氏との間で、権力争いとなっていきす。
北条氏と比企氏
建仁3年(1203年)、頼家が重い病にかかったのに乗じて、北条時政は比企能員の館を襲撃。これを攻め滅ぼします。
比企一族がかついでいた頼家の嫡子・一幡もこの事件で死にました。かわって、頼家の弟の千幡が北条氏の後ろ盾で将軍後継となり、後に三代将軍実朝となることはよくご存じのとおりです。
生き延びた比企能員の息子・比企能本(ひきよしもと)が後に日蓮上人に帰依し、一族の供養のために建立したのが、ここ、妙本寺です。
総門をくぐり、右手に比企谷幼稚園の格調高いたたずまいに感心しながら進んでいくと、
うっそうとした杉木立になってきます。方丈門を左に見送り、
二天門をくぐると
正面に見えるのが、
租師堂です。大きな屋根です。
建長寺の仏堂とならび、鎌倉最大級の木造建造物です。堂内に安置された日蓮像は、東京池上(いけがみ)の本門寺の日蓮像と、甲斐身延山の久遠寺の日蓮像と、同じ木から掘り出されたものと言われます。
境内左手には、大きな日蓮の銅像が立っています。
おだやかな中にも凛とした強い意志を感じる面立ちです。
境内右手には一幡君の袖塚があります。
比企一族は、幼い一幡君を守り戦いましたが、北条時政の軍勢に囲まれ火を放たれ、一幡君も、命を落としました。その後、焼け跡の中から見つかった一幡君の袖を埋めたと伝えられるのが、この袖塚です。
境内右奥には、比企一族の墓があります。
しかし説明版も何も無いので、まず気づかないです。左右を二本の高い石塔にはさまれた、四基の墓が、それです。
そのほか、頼家の娘で、四代将軍九条頼経にとついだ竹御所(たけのごしょ)こと源媄子(よしこ)の墓、
室町時代に佐竹・上杉の合戦に敗れた佐竹主従がその中で自刃したという佐竹やぐらなど、見所が多いです。
さて、さきほど無視した方丈門の前の道に入り、細い道をずーーっと行って、
石段を登ると、そこにあるのが、蛇苦止堂(じゃくしどう)です。
頼家の妻・若狭局をまつる社で、妙本寺の鎮守社です。蛇苦止堂。名前からして恐ろしげですが、伝わっている伝説も、恐ろしいです。
建仁3年(1203年)の比企の乱で、追い詰められた若狭局は、比企家に伝わる家宝を抱いて、井戸に身を投げます。そして、自らの身を蛇に変えて、家宝を守ったのでした。それから半世紀の後、後の七代執権・北条政村の娘が、異変を起こします。
うぉうぉうぉぉおおう……
わけのわからない、うわ言を言い、舌を蛇のようにのばして唇を舐めては、のたうちまわるのでした。
「困った。どうしたらいいのか」
そこで、鶴岡八幡宮の隆弁に加持祈祷をさせます。
「これは60年前に非業の死を遂げた若狭局の祟りです」
「なんと!」
必死の加持祈祷によって政村の娘はなんとか一命を取り留めました。そして政村はこの地に若狭局を供養するためのお堂を建てました。それが、この蛇苦止堂というわけです。
こんな恐ろしい伝説の伝わる場所ですが、社殿の前にいた猫がとても可愛かったです。
にゃおん、にゃおんとじゃれついてきました。私は動物の鳴きまねは得意なので、にゃおんと言い返すと、にゃおんと阿吽の呼吸で返してきました。これは、よい猫です。
蛇苦止堂右手にある蛇形の井(じゃぎょうのい)は、若狭局が身を投げた井戸といわれ、大町の六方の井(ろっぽうのい)という井戸と、地下でつながっており、蛇に変じた若狭局は、蛇形の井と六方の井の間を自由に行き来したという伝説があります。
小野篁の地獄通いの井戸を彷彿とさせる、ロマンのある話ですね!
蛭子神社
妙本寺を後に、小町大路を北に向けて歩いていきます。
右手を御覧ください。
蛭子神社です。こぢんまりした神社ですね。小町地区の鎮守のお社です。明治2年の神仏分離令により本覚寺の夷堂がここに遷ってきて、もともと祀られていた七面大明神に加え、ややここより北に位置する宝戒寺の山王大権現も合祀して、蛭子神社となったものです。
境内には、ハトが、すごく多いです。
屋根いっぱい、ハト、ハト、ハト。
なんかここには、ハトを引き付けるものが、あるんでしょうか。
社殿裏手には滑川が流れ、ざばざばと水音が心地よいです。
さらに、小町大路を北に歩いていきます。右手を御覧ください。日蓮上人辻説法跡です。
鎌倉時代、このあたりは武士の屋敷と商人の家が混在したエリアでした。市が立って、賑わっていたかもしれませんね。
そして日蓮の庵のあった松葉ヶ谷は、現在の長勝寺や安国論寺のあたり。歩いて15分くらいの距離です。日蓮は毎日、このあたりまで出かけてきて説法していたんでしょう。
「南無妙法蓮華経!法華経を信じよ。火事や飢饉。こうした悪いことは、人々が念仏や禅、真言といった邪法を信じるから起こるのだ。今こそ正法(しょうぼう)である法華経を信じよ。でなければ内乱が起こり、外国の侵略を招くであろう」
「日蓮さま、今日もせいが出ますね。はい、干し柿をどうぞ」
「やや、いつもありがとうございます。それで、法華経を信じる気になりましたかな」
「ごめんなさいね日蓮さま、うちは念仏信徒なんです」
「いけませんな。いや、あなたがではない。まだまだ日蓮の、熱意が足らんということです。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経!」
そんなやり取りも、あったかなあと妄想しつつ通り過ぎると…、左をごらんください。日蓮宗妙隆寺です。
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