大友皇子(弘文天皇)と新羅三郎義光

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こんにちは。左大臣光永です。

お盆も近づいていますが、いかがお過ごしでしょうか?
台風11号が迫っていて油断がならないことですね。
しっかり戸締りをして嵐にそなえましょう。

さて私は先日、滋賀県の大津に行ってきました。

9月に大津で「第十回木曾義仲・巴ら全国連携 大津大会」
というイベントが行われます。

私はこのイベントの中で木曾義仲の話をする予定なのですが、
今回、イベントの主催団体である「義仲と芭蕉の会」の方々が、
大津の名所をあちこち案内してくださったのです。

▼音声が再生されます▼

========================================== 「どこか大津で行きたい場所はありませんか? どこでもご案内しますよ」 「でしたら、弘文天皇陵をお願いします」 ========================================== というわけで行ってまいりました。 大津の弘文天皇陵。

大津の弘文天皇陵

すなわち壬申の乱で敗れた大友皇子の陵です。 以前も行ったことがあるのですが、何度も訪れたい場所です。 季節ごとに情緒がちがいます。 また一人で訪ねるのと数人で行くのとでも違います。 何度訪れても新しい発見があるものです。 弘文天皇こと大友皇子は父が天智天皇、 母を伊賀宅子娘(いがのやかこのいらつめ)といいます。 史上初の太政大臣に立てられ、将来を期待されていましたが、 天智天皇崩御後、叔父である大海人皇子と対立し、 672年壬申の乱が起こります。 結果は大海人皇子の圧勝に終り、 敗れた大友皇子は大津の 長等山あたりまで逃げのびますが、 首をつって自害しました。 大友皇子が正式に天皇として 即位したかどうかは長らく謎でしたが、 明治3年に39代弘文天皇の号を贈られ、 ようやく歴代天皇の列に加えられることとなりました。 大津市役所裏手の昼なお暗い森の中に、 ひっそりと弘文天皇陵は建っています。 拝観できるのは表の部分だけで、その裏の森の中に陵の本体があり、 そこまで入っていくことはできません。 また、弘文天皇陵へ続く道は細い一本道だけで、 とてもわかりにくいです。 表示もほとんど出ていません。 天皇陵というのはお墓であって別に観光地ではないので、 積極的に人を招く必要は無いと思います。 しかし… もうちょっと案内があってもいいと思いました。 通りから外れた森の中ですから、 たまたま通りかかって訪ねるということも、まず無いでしょう。 弘文天皇が壬申の乱で敗れた大友王子だということも、 あらかじめ知っている人にしかわからないです。 せめて一枚、案内板がほしいところです。 (私が見つけられなかっただけかもしれませんが…) 「なんか裏手に国宝があるみたいですよ」 同行してくださった芭蕉と義仲の会の方がそう言うのを見ると、 「国宝 新羅善神堂」と案内が出ています。 矢印の指す方向には鳥居があり、 鳥居をくぐって山道を数100メートル進むと、 開けた場所に出ました。 見るとうら寂しい感じのお堂があります。 門が閉まっていてお堂の中には入れないのですが、 案内板を見ると、新羅三郎義光にゆかりのお堂らしいです。

新羅三郎義光

1051年、源頼義(みなもとのよりよし)は 奥州で起こった前九年の役に出陣するに際し 三井寺で戦勝祈願をします。 また三男の義光を三井寺の新羅明神の御前で元服させます。 このため義光は新羅三郎義光と呼ばれることとなりました。 時は流れ1083年。 ふたたび奥州で戦が起こりました。後三年の役です。 奥州一円を支配する豪族・清原氏の内紛に頼義の息子・ 義家が軍事介入することによって戦いが起こりました。 義家はすぐに勝てる戦いと見ていました。 しかし敵である清原家衡は長期にわたって篭城し、 そこに寒さと飢えが加わり、義家は苦戦を強いられました。 「これではまずい。味方が…誰か強力な味方がほしい」 そこへ駆けつけたのが、三男の新羅三郎義光です。 「兄上の苦戦ときき、官職を投げ打って駆けつけました」 「おお、お前が来てくれればこんなに心強いことはない」 兄弟ガッシと握手し、 敵である清原家衡と戦ったのは有名な話です。 ちなみに頼義には三人の息子があり、 それぞれ違う寺社で元服しました。

義家三兄弟
義家三兄弟

長男の義家は京都の石清水八幡宮で元服したので八幡太郎義家。 次男の義綱は賀茂神社で元服したので加茂次郎義綱。 そして三男の義光が大津の三井寺で元服したので、 三井寺の守護神・新羅明神にちなんで、新羅三郎義光と呼ばれました。 ちなみにこの新羅三郎義光、あの武田信玄の先祖にあたる人物です。 こうした歴史をふまえてお堂を眺めていると、 さまざまな感慨が、こみ上げてきました。 次回も大津の話をお届けします。 本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。 ありがとうございました。

次の旅「瀬田橋を渡る

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