鞍馬・貴船を歩く

こんにちは。左大臣光永です。

本日は鞍馬(くらま)と貴船(きぶね)を歩きます。鞍馬は京都と若狭をむすぶ鞍馬街道沿いにあり、鞍馬寺は平安京の北方鎮護の寺として信仰されました。牛若丸や天狗の伝説が残ります。貴船には水の神様である貴船(きふね)神社があり、古くから雨乞いの社として信仰されました。和泉式部が歌を詠んだことでも知られます。

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鞍馬街道

京都駅から京都バス17系統に乗り約30分。出町柳駅下車。叡山電鉄鞍馬線に乗り約30分。

鞍馬駅下車。

巨大な天狗の顔が迎えてくれます。

駅の前が鞍馬街道です。鞍馬口から花背まで続く約30キロの道です。

京都と若狭をむすぶ唯一の街道です。

鞍馬寺

鞍馬街道沿いに鞍馬寺の朱塗りの仁王門が見えてきました。

門の両側に阿吽の虎。

虎は毘沙門天の使いです。また鞍馬寺開祖・鑑禎(がんちょう)上人の前に毘沙門天があらわれたのが寅の年、寅の日、寅の刻だったということから、寅は鞍馬寺ゆかりです。新年はじめの寅の日には初寅大祭が行われます。

鞍馬寺。

奈良の唐招提寺を開いた鑑真和上の高弟・鑑禎(がんちょう)上人が、宝亀元年(770)、鞍を背負った白馬の導きでこの山にのぼり、毘沙門天を祀ったのが始まりです。平安京遷都後の延暦15年(796)、藤原伊勢人(いせんど)が王城鎮護の道場として伽藍を整えました。

毘沙門天は四天王の一尊としては多聞天(たもんてん)と呼ばれ、北方の守護神です。そのため鞍馬寺は平安京の北方守護として信仰を集めました。

『源氏物語』若紫巻に登場し、遮那王(源義経)が天狗相手に修行したという伝説があり、『枕草子』にも書かれた九十九折(つづらおり)や、遮那王が修行したという木の根道や僧正が谷など、伝説のロマンに満ちています。

宗派ははじめ真言宗、ついで天台宗となり、昭和22年(1947)鞍馬弘教(くらまこうきょう)を立宗して、現在に至ります。

仁王門をくぐって本堂まで、九十九折の参道を登っていきます。途中まではケーブルカーで登ることができますが、今回は、歩きます。

鬼一法眼社・魔王の瀧

すぐ右に見えてくるのが、鬼一法眼を祀る鬼一法眼社。

鬼一法眼は遮那王こと源義経に兵法を授けたといわれる、一条堀河の伝説的な陰陽師です。

近くには「魔王の瀧」がしたたり落ちています。

由岐(ゆき)神社

鞍馬一帯の産土神で、平安時代、王城鎮護の神社として創建されました。

大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなびこなのみこと)を祀ります。天慶3年(940)朱雀天皇の勅命により、御所内にあった由岐大明神を勧請したのが始まりです。

天皇のご病気や災害があった時に、社前に靫(ゆぎ。矢を入れる箱)を奉納したのが由岐(ゆき)神社という名の由来です。

慶長12年(1607)豊臣秀頼再建による拝殿は、中央に通路のある、割拝殿という、めずらしい形です。

毎年10月22日の夜に行われる鞍馬の火祭は、御所から社を勧請するときに篝火をたいて迎えた故事に基づき、氏子さんたちが松明をたいて鞍馬街道から参詣します。京都三大奇祭にかぞえられています。

(京都三大奇祭…今宮神社の「玄武やすらい祭」・広隆寺の「太秦の牛祭」・由岐神社の「鞍馬の火祭」)

川上地蔵尊

道すがら、川上地蔵尊。遮那王こと源義経の守り本尊で、遮那王が修行に行く途中、参拝したといわれます。

源義経供養塔

川上地蔵尊の向かいに源義経供養塔。

源義経は遮那王と名乗った7歳から10歳まで、この地の東光坊(とうこうぼう)という所で起居したといいます。その跡地に、昭和15年に建てられた供養塔です。

中門

中門まで来ました。旧仁王門の横にあった勅使門を移築したものです。

こけら葺きの屋根に銅版を重ねてあります。ようやく中間地点です。体力を温存しつつ、ゆっくり登っていきます。

九十九折(つづらおり)

本殿まで曲がりくねった九十九折の道が1キロほど続きます。体力を温存して、休み休み登っていきます。くれぐれも歩きやすいクツで。

ほととぎすやウグイスが鳴きしきり、山の清浄な空気が満ちています。参道脇にならぶ春日灯籠もよいです。緑の中に朱色が映えて、絵になります。

鞍馬の九十九折は「近うて遠きもの」の例として、清少納言が『枕草子』の中で挙げています。

近うて遠きもの。
宮咩祭(みやのべのまつり)。
思はぬ同胞(はらから)・親族の仲。
鞍馬のつづらをりといふ道。
師走の晦(つごもり)の日・睦月の朔(ついたち)の日の程。

『枕草子』第166段

モリアオガエルやムササビも生息しているということで、見ることができればラッキーです。

貞明(ていめい)皇后御休息所

大正13年(1924)大正天皇皇后・貞明皇后がこの地に行幸した際、九十九折を歩かれた途中にご休憩された場所です。

洗心堂(せんしんどう)

本堂金堂に向かう石段のふもとに、無料休憩所の洗心堂。ここまでの疲れを癒やしていきましょう。

寝殿

本堂金堂に向かう石段左に寝殿があります。

大正13年(1924)木曽の御料林のヒノキ材を下賜され、平安時代の寝殿造に従って再建したものです。毎年8月1日から3日にかけて、ここで如法写経会(にょほうしゃきょうえ)が行われます。声明が鳴り響く中、法華経を書写する行事です。「鞍馬の火祭」や「竹伐(き)り会式(えしき)」とならび、鞍馬に欠かせない行事です。

本殿金堂(ほんでんこんどう)

石段を登り切ると、スコーンと開けた場所に出ました。ここが鞍馬寺の中心地です。

正面に本殿金堂(ほんでんこんどう)、右に閼伽井護法善神社(あかいごほうぜんしんしゃ)、左に光明心殿(こうみょうしんでん)が建ちます。

本殿金堂前の金剛床はパワースポットとして知られ、両手を空にかざしてパワーを受け取っている人が多くあります。堂内の須弥壇の上には中央に毘沙門天像、東に千手観音菩薩像、西に護法魔王尊像が安置されます。これら三尊は三位一体の「尊天」として崇められ、60年に一度、御開帳されます。

與謝野晶子・鉄幹歌碑

本殿金堂左手から、奥の院への石段を登っていきます。

道すがら、與謝野晶子・鉄幹の歌碑。

何となく君にまたるるここちしていでし花野の夕月夜かな(與謝野晶子)

遮那王がせくらべ石を山に見てわが心なほ明日を待つかな 與謝野寛(鉄幹)

與謝野晶子は大阪・堺の生まれ。夫鉄幹の主催する東京新詩社の機関紙『明星』に多数の歌や評論を執筆しました。鞍馬寺の紫香楽香雲初代管長が晶子の直弟子(じきでし)だったことから、晶子と鉄幹とともにたびたび鞍馬山を訪れています。

鞍馬山博物館 霊宝殿

一階は鞍馬の動植物、鉱物などを展示た鞍馬山自然科学博物苑展示室、2階には與謝野晶子の遺品を展示した與謝野記念室(および寺宝展観室)、3階は国宝の毘沙門天像を安置した仏像奉安室があります。

ここの国宝毘沙門天像は、右手に三叉戟(さんさげき)という武器を持ち、左手を額に当てて遠くを望む、独特の姿をしています。鞍馬の地から遠く平安京を守護すると同時に、衆生を遠く思いやっているお姿です。

冬柏亭(とうはくてい)

東京荻窪の與謝野邸の晶子の書斎「冬柏亭」をそっくり移築したものです。

晶子の没後、昭和18年、弟子の岩野喜久代氏によって大磯の家に移され、その後、昭和50年、氏のご好意によって鞍馬に移されました。

牛若丸息つぎの水

牛若丸が東光坊から奥の院へ兵法修行に向かう途中、ここで水を飲んだと伝えられます。今もこんこんと清水が湧き出しています。

義経公背比べ石

源義経が16歳で奥州に旅立つとき、名残を惜しみ背を比べあったと伝説されます。

木の根道

岩盤が固く、木の根が地面からせり出して、独特の景観をなしています。いかにも、牛若丸が木の根から木の根へ、ぴょんぴょん飛びまわって、修行している図が浮かびます。

牛若丸の話がどこまで信憑性があるのかわかりません。多くは後年作られた伝説・創作だとは言われています。しかし長年にわたって日本人の中に生き続けてきた牛若丸のイメージは、大切にしたいものです。

大杉権現社

樹齢1000年近い古木の大杉をご神木とします。

ただし御神木は昭和25年の台風でなかほどから折れてしまいました。折れた御神木のそばにはあらたな若木が植えられています。

瞑想の場所として、パワーの高い所として知られます。この日も瞑想している人がたくさんいました。私も目を閉じると木々のざわめきや鳥の声がよりハッキリ聞こえました。

僧正ガ谷不動堂

僧正ガ谷は謡曲の鞍馬天狗が牛若丸に出会ったところです。

昼なお暗い、深山の雰囲気が漂います。僧正ガ谷不動堂は三間四面の宝形造本瓦葺。小さなお堂ながら凛とした印象を残します。

義経堂

源義経は文治5年(1189)奥州高舘(たかだち)で藤原泰衡(やすひら)らに攻められ、自害しました。義経の首は塩漬けにして鎌倉に送られました。その後、義経の魂は子供時代をすごした懐かしい鞍馬にもどったと信じられ、ここに護法魔王尊の脇侍、遮那王尊として祀られています。

奥の院魔王殿

650万年前に護法魔王尊が金星から降り立ったとされる霊域です。

鞍馬寺開祖の鑑禎(がんちょう)上人はじめ、牛若丸も、修験者たちも、ここから霊験を受けたのです。まさに鞍馬山の奥の奥といえる場所です。

西門~貴船

山を下るにつれて、貴船川(きぶねがわ)のせせらぎが大きくなってきました。やがて西門に行き着きます。

貴船(きぶね)から登るときはこちらがスタート地点になります。貴船に出ると…鞍馬の清澄な、神々しい空気とは打って変わって、ザワザワした感じがします。

貴船の美しい景色を使って金儲けしてやろうという俗っ気が強すぎるんですね。川床のハモ膳18000円とかします…

貴船神社本宮(きふねじんじゃ ほんぐう)

西門から少し北に歩くと貴船神社本宮の入り口です。

(※地名としては「きぶね」だが神社名は「きふねじんじゃ」と清音で読みます。たぶん水の神さまだから濁っていてはいけないということだろうと思いますが、確証はないです)

春日灯籠が立ち並ぶ80段ほどの石段を登ると、

境内です。すごく賑わっていました。

貴船神社は水の神である高龗神(たかおかみのかみ)を祀ります。18代反正(はんぜい)天皇の時、賀茂氏の娘、玉依姫(たまよりひめ)が黄船(きぶね)に乗って、淀川、賀茂川、貴船川をさかのぼり、この地に社を建てたのが始まりと伝えられます。

賀茂川の水源であることから、古くから雨乞いの社として信仰されました。日照りの時は黒馬が、長雨の時は白馬か赤馬が朝廷から奉納され、また時には「板立馬」という、馬に見立てた板に色をつけたものがおさめられました。これが絵馬の始まりとされます。

御神木の桂の木、重森三玲作庭による石庭も、みごとです。

貴船神社結社(きふねじんじゃ ゆいのやしろ)

貴船神社本宮を後にしばらく進むと、

貴船神社結社(きふねじんじゃ ゆいのやしろ)です。

磐長姫命(いわながひめのみこと)を祀ります。磐長姫命は美人で有名な木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の姉で、天孫ニニギノミコトが木花咲耶姫に求婚した時、父大山祇神(おおやまずみのかみ)は姉妹そろって嫁にやろうと思ったが、ニニギノミコトは妹の木花咲耶姫だけを娶りました。そのため、姉の磐長姫命は恥じて、人々に良縁を授けようといってこの地にとどまったといいます。

古くから縁結びの社です。

きふね中宮(なかみや)
恋の宮
男、女を結ぶ神
遠く都の初めより
結社(ゆいのやしろ)と称えけり

古謡

和泉式部が夫と不仲になった時に貴船神社に参詣して仲が戻ったとされます。

物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る

(物思いに沈んでいると沢の蛍もわが身からさまよい出した魂のように見る)

和泉式部がそう詠むと耳の中に貴船明神の声がきこえたと。

おく山にたぎりておつる滝つ瀬の玉ちるばかり物な思ひそ

(奥山にたぎり落ちる滝の瀬の玉のようなしずくが散るほどの、そこまでの物思いはするもんじゃないよ)

(『後拾遺和歌集』)

境内には夫婦仲を円満にするという相生の杉、

貴船の山奥から出土した「天乃磐船(あめのいわふね)」があります。貴船、というだけあって、船と関わりが強いのです。

貴船神社奥宮(きふねじんじゃ おくのみや)

思ひ川にかかった橋をわたり、貴船神社奥宮に向かいます。

貴船神社奥宮は貴船神社創建当時の本宮であった場所です。貴船神社本宮に祀られていると同じ高龗神(たかおかみのかみ)を祀ります。

境内には、玉依姫が黄船に乗ってこの地に来て、社を築いたとき、黄船のまわりに小石を積んで隠したという「船形石(ふながたいわ)」があります。

貴船の「船」、鞍馬の「馬」…鞍馬街道が古くからの交通の要であったことを感じさせる遺物です。

本日は鞍馬と貴船を歩きました。鞍馬山の包み込むような山気と、貴船川の清涼な流れ。すばらしいです。京都に来られる際には足をのばして、鞍馬・貴船をぜひ訪ねてみてください。

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オンライン版 紫式部の生涯
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紫式部。一条天皇中宮彰子に仕えた女房。漢学者である父・藤原為時に育てられ、高い教養を身に着ける。夫の死後に書き始めた『源氏物語』が宮中で高い評価を得て、やがて一条天皇中宮・彰子に仕えることに。宮仕えの悲喜こもごもを『紫式部日記』にあらわす。

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