山崎・水無瀬を歩く~後鳥羽上皇の離宮跡

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本日は山崎・水無瀬を歩きます。京都と大阪の境として古くから交通の要衝であり、また風光明媚の地として知られ多くの歌に詠まれています。

京都側の山崎には嵯峨天皇が、大阪側の水無瀬には後鳥羽上皇、惟喬親王が離宮を置きました。今も西国街道沿いに、古き歴史の面影が漂っています。

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離宮八幡宮

JR東海道本線・山崎駅下車。

東海道本線・山崎駅

すぐ駅チカに離宮八幡宮があります。

離宮八幡宮

離宮八幡宮

離宮八幡宮は嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」の跡地です。

離宮八幡宮

中世には油製造の専売特許で栄えました。

油にゆかりの深い神社だけあって、現在も油業者の参拝が絶えません。神前にはふつう、酒をお供えしてありますが、ここ離宮八幡宮では油をお供えしてあります。

また境内には油搾り器の模型、油祖神の銅像などがあります。

離宮八幡宮 油祖神の銅像

貞観元年(859)清和天皇が国家鎮護のため、平安京近くに八幡神を勧請せよと勅命を下されました。

勅命を受けて僧行教は、九州の宇佐八幡宮に向いました。八幡神の分霊をいただいて戻ってくる途中、山崎の地で夜耀く光が見え、その地を掘ると岩間に清水が湧いたので、ここに社を建て、「石清水八幡宮」としました。

そしてこの場所は嵯峨天皇の離宮「河楊(かや)離宮」の跡地であったので、離宮八幡宮と改名されました。

また淀川の対岸にも分祀され、以後はそちらが「石清水八幡宮」と呼ばれるようになりました。

貞観年間(859-877)神官が神示を受けて油をしぼる装置「長木(ちょうぎ)」を発明し、荏胡麻(えごま)油の製油を開始。神社の灯りに用いたのが始まりです。

油の専売特許を得た離宮八幡宮の神人たちは都に出ては油を売り歩き、山崎の地は大いに栄えました。

宵ごとに 都へ出づる 油売り ふけてのみ見る 山崎の月
『71番職人歌合せ』

毎晩、離宮八幡宮の神官たちは都に出て油を売り歩く。仕事を終えて山崎に帰る頃にはもう夜が更けて月が出ていた。

離宮八幡宮は朝廷や幕府からの崇敬を受け、毎年春に行われる「日使頭祭(ひのとさい)」では油長者が藤の花を頭にかざし、勅使が離宮八幡宮・石清水八幡宮に参詣しました。

京都賀茂神社の賀茂祭(現・葵祭)を「北祭」といったのに対し、離宮八幡宮・石清水八幡宮で行われる「日使頭祭」を「南祭」と言いました。

元治元年(1864)禁門の変の時、ここ離宮八幡宮に長州藩屯所が置かれていたので、攻撃を受けて焼失。明治12年(1879)再建されました。

離宮八幡宮を後に、西国街道を西へ向います。

この細い川が京都と大阪の境目です。これより西は大阪です。

みちすがら芭蕉の句碑。

有がたき すがた拝まむ 杜若(芭蕉書簡)

戦国時代の連歌師・俳諧師、山崎宗鑑が痩せこけていて、杜若の花を取るとき「餓鬼つばた」と呼ばれたという故事を元にします。「餓鬼つばた」と呼ばれた山崎宗鑑のありがたい面影を、杜若の花に見て、拝むとしよう。

山崎宗鑑は戦国時代の連歌師・俳諧師。生没年・出自などは諸説あります。もと足利家家臣。主君の死により、世の無常を感じ、出家。各地を転々とした後、山崎に庵を結び、山崎宗鑑と呼ばれました。

俳諧撰集『犬筑波集(いぬつくばしゅう)』をあらわしました。その奔放な作風は江戸時代の俳諧にも影響を与えています。いわば山崎宗鑑は芭蕉の大先輩です。

街道左に関大明神社。

関大明神社

摂津国と山城国の境にあった、山崎の関の跡地と言われます。平安時代のはじめには関は廃止され、その後は官人たちの宿泊所として使われたようです。

山崎宗鑑の屋敷跡はここ関大明神社の北側あたりとされます。

水無瀬神宮

西国街道を西へ歩き、水無瀬川を渡り、

水無瀬川

案内板に沿って歩いていくと、見えてきました。水無瀬神宮です。

水無瀬神宮

水無瀬神宮は後鳥羽上皇が造営した離宮「水無瀬離宮」の跡地です。

水無瀬は桜・山吹・菊の名所として知られ、後鳥羽上皇はたびたび行幸しては歌合・蹴鞠・狩猟など楽しまれました。

水無瀬神宮

承久三年(1221)後鳥羽上皇は京都南方・城南宮にて「執権北条義時を討て」と西国の武士たちに呼びかけます。こうして始まったのが承久の乱です。

結果は一ヶ月で上皇方の惨敗となり、後鳥羽上皇は隠岐島へ、順徳上皇は佐渡島へ、土御門上皇は阿波、後に讃岐に遷されました。

水無瀬神宮

以後、三上皇は二度と都に戻ることなく配流先でお亡くなりになりました。

後鳥羽上皇は崩御するにあたり、長く水無瀬離宮を守り還御の日をお待ちしていた水無瀬信成・親成父子に御置文を下し、長く菩提を弔うべしと仰せ下されました。

仁治元年(1240年)、水無瀬父子は水無瀬離宮跡地に後鳥羽上皇の霊を祀り、「水無瀬御影堂」を建てました。江戸時代までは後鳥羽上皇のみを仏式で祀っていましたが、明治に入って三上皇を合祀した神社となりました。

後鳥羽院御製

見渡せば 山もと霞む 水無瀬川 夕べは秋と 何思ひけむ(『新古今』36)

見渡せば山のふもとが霞んでいる水無瀬川の素晴らしい景色よ。夕べは秋がいいなんて、私は何を思っていたのだろうか。春の水無瀬川こそ素晴らしいじゃないか。

我こそは 新嶋守よ 隠岐の海の 荒き波風 心して聞け(『増鏡』)

私こそは隠岐島の新しい島守だ。隠岐の海の荒き波風よ。心して聞け。

離宮の水

境内より湧き出す「離宮の水」は全国名水百選の一つに数えられています。大人気でした。

水無瀬神宮 離宮の水

都忘れの菊

後鳥羽上皇は花を好み、ことに白菊を愛されました。皇室の菊の御紋は後鳥羽上皇が起源とも言われています。

水無瀬神宮 都忘れの菊

佐渡に流された順徳上皇は、父後鳥羽上皇の愛した白菊に似た花を「都忘れ」と名付けて父を思い出し、都からはるかに遠ざかったことを嘆きました。

いかにして 契りおきけん 白菊を 都忘れと 名づくるもうし

いかなる因果のめぐり合わせだろうか。父の愛した白菊に似た花を都忘れと名付けるのも、つくづく嘆かれることだ。

水無瀬神宮のそばの住宅街の一角に水瀬離宮跡の碑が立っています。

水瀬離宮跡の碑

ところで水無瀬離宮は後鳥羽上皇より前に平安時代前期、文徳(もんとく)天皇第一皇子・惟喬(これたか)親王の離宮があったようです。『伊勢物語』には、

むかし、惟喬の親王と申すみこおはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふ所に、宮ありけり。年ごとの桜の花ざかりには、その宮へなむおはしましける。

から始まり、在原業平はじめ家来の方々と惟喬親王が酒を飲み歌を詠み、風流の遊びを楽しむさまが描かれます。水無瀬から淀川を下り、交野(現枚方)へ、天の川へ、楽しい時間は続きます。そして夜になって水無瀬離宮に戻ってきた一行。

惟喬親王はもう眠いという感じでしたが、在原業平が、

あかなくに まだきも月の かくるるか 山の端にげて 入れずもあらなむ

まだ見足りないし飲み足りないのに、月は山の端に隠れてしまうのですか。いっそ山の端が逃げていって、月を隠れさせないようにしてほしいです。

紀有常が惟喬親王にかわってこの歌に返します。

おしなべて 峰もたひらに なりななむ 山の端なくは 月も入らじを

峰をならして平らにしてほしいです。山の端がなくなれば月も隠れられないですから。

この楽しい夜がいつまでも続いてほしい。ずっとこんな楽しい夜を過ごしていたいという気持ちが出ています。

本日は山崎・水無瀬を歩きました。古くからの天皇の離宮が置かれた場所だけあって、今も緑豊かで景色が美しいです。西国街道沿いに古き歴史の面影が漂います。嵯峨天皇や後鳥羽上皇、そして山崎の油売りの昔に思いをはせながら、歩いてみるのはいかがでしょうか。

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