三輪山を歩く
本日は奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社に参拝します。大神神社はわが国最古の神社の一つです。本殿はなく拝殿から正面の三輪山を拝む形です。山そのものが神であった、古代の信仰の形を今に伝えています。
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JR桜井線三輪駅下車。
駅前の商店街には、三輪そうめんの店と酒屋が目立ちます。三輪は酒処・そうめん処です。酒では「三室杉」がスッキリして飲みやすいです。
商店街を突っ切って右に折れ、参道を進んでいくと、見えてきました。大神神社ニの鳥居です。
大神神社縁起
大神神社は大和盆地の東南に位置する、わが国最古の神社の一つです。祀られているのは大国主神の国造りに協力した、三輪の大物主神。御神体の三輪山は、古くから神のいます山、神奈備山(かむなぎやま)として信仰されてきました。
大きい神の神社と書いてオオカミジンジャでなくオオミワジンジャと読むのは、古来、三輪の大物主神は神の中の神であり、神といえば直ちに三輪の大物主神を指したためと思われます。
本殿はなく、拝殿から三ツ鳥居を通して、正面の三輪山を拝む形で、わが国最古の神祭りの形を今に伝えています。
参道です。静謐な空気に包まれています。
春日大社とちがって外国人がほとんどいないので、静かでいいです。
拝殿
拝殿につきました。
寛文4年(1664)四代将軍徳川家綱の時造営。通常の神社と違って拝殿の向こうに本殿はなく、三ツ鳥居を通して、正面の三輪山を拝む形です。
三ツ鳥居の先は禁足地で立ち入ることができません。山そのものが神であった古代の信仰の形を今に伝えています。
拝殿東南に巳(み)の神杉(かみすぎ)。大物主の化身である蛇が住むとされます。
大物主神は蛇の神・水の神・雷の神・酒の神と、さまざまな性質を持つ神さまで、『古事記』『日本書紀』のあちこちに登場します。
特に有名なエピソードは、活玉依毘売(イクタマヨリビメ)のもとに夜這いした話です
遠い昔、イクタマヨリビメというたいへんな美人がありました。一方、ここに男がありました。その姿かたち、立ち居振る舞い、まことに立派で、比べるものもありませんでした。
この男が、ある晩イクタマヨリビメの寝床に訪ねてきました。
「きゃっ!」
「しっ、驚かせてしまってすまぬ。
でも、私のような美男子が相手なら、問題はなかろう」
月光の中にうつしだされた相手の顔を見ると、まことにこの世のものとは思えない、つややかで、美しいものだったので、イクタマヨリビメは男を受け入れ、二人は結ばれました。
こうして男は、毎夜、イクタマヨリビメのもとに通っているうちに、イクタマヨリビメはみごもりました。
父と母がイクタマヨリビメに尋ねます。
「お前はどうして身ごもったんだい」
「実は…とても美しい若者があって、名前も知らないんですが、
その若者が毎夜私の寝床に通ってきて、一緒に暮らしているうちに、
身ごもったのです」
「な…!娘よ、そんなことがあったなら、なぜ親に相談せんのか。
いったい相手は!」
「それが…何一つ知らないんです。名前すら」
「そんなお前…。とにかく誰なのか、
確かめてみないといけませんよ」
そこで両親は一計を案じました。
娘に命じて、赤土を床の前に撒き散らせました。そして麻糸を用意させ、糸の先の針を、こっそり男の衣の裾に刺させたのです。
そうすれば、男が帰っていった後、するすると糸がのびていくのを追って、男の行き先がわかるわけです。床の前に撒き散らした赤土が男の足の裏についていることで、その男だと、特定できるという作戦です。
その晩、娘は作戦を実行に移しました。
朝になると、糸はすーーと伸びていて、鍵穴から外に出ていました。糸巻きにはほんの三巻ぶんしか糸が残っていませんでした
つまり、男は鍵穴から外に出て、かなり遠くまで行ったことになります。
娘は糸をたどっていくと、糸は三輪山について、神の社のところで終っていました。
「まあ…あの方は神様だったのだわ!」
糸巻きに三巻の糸が残っていたことから、その地を名付けて三輪というようになりました。
祈祷殿
拝殿の隣の広いエリア正面に、祈祷殿。
その正面に宝物収蔵庫。
大神神社の宝物を展示してあります。やってるのは毎月1日・土日・祝日のみです。
久すり道
祈祷殿左脇の「久すり道」を登っていきます。
この先にある狭井神社は古くから疫病を鎮める神として信仰されてきました。その、狭井神社の参道だから「くすり道」というわけです。
途中、道が分岐します。まっすぐ行くと狭井(さい)神社。左に曲がると久延彦(くえひこ)神社。まずは久延彦神社に向かいます。
途中、展望台があります。大和三山が一望できます。
正面に耳成山。手前に大神神社一の鳥居。
耳成山の左に、畝傍山、天の香久山が並んで見えます。
かつてこの眼下一帯に、持統天皇の築いた藤原京が広がっていたのです!感動がこみあげます。
久延彦神社
久延彦神社に来ました。
クエビコ(久延毘古)は智恵の神様です。案山子のように一本足の神様で、自分で歩くことはできないが、何でも知っている物知りの神様です。
大国主神が出雲の国造りを進めていたところ、海の向こうからやってきた小さな神様がありました。大国主神は不思議に思い、智恵の神・クエビコにきいてみると、それはスクナビコナの神であると言い当てました。
これがきっかけで、スクナビコナは大国主神の国造りに協力する、味方となりました。後にはスクナビコナはいなくなってしまいますが、そこを埋め合わせるように、新たに協力者があらわれました。それが大神神社の本社に祀られている、三輪の大物主神です。
つまり、大国主神の国造りに協力した大物主神が本社に、同じく大国主神の国造りに協力したスクナビコナを言い当てたクエビコが、ここ久延彦神社に祀られ、ともに大国主神ゆかりの神が祀られているわけです。
境内右の遥拝所から大神神社御神体の三輪山が見えます。神々しい限りです。しっかり手をあわせていきましょう。
分岐点まで引き返し、今度は狭井神社に向かいます。
狭井神社一の鳥居くぐってすぐ左に、
市杵島姫(いちきしまひめ)神社。
こんこんと水をたたえた鎮女池。水音に心癒されます。
三島由紀夫「晴明」文学碑
鎮女池のほとりに三島由紀夫「晴明」文学碑が立っています。
昭和41年(1966)6月、三島由紀夫は古神道研究のため、大神神社を訪れました。念願の三輪山山頂登拝を行い、山を下った三島由紀夫は、その印象を「晴明」と書き記しました。
大神神社の神域は、ただ晴明の一語に尽き、神のおん懐ろに抱かれて過ごした日夜は終生忘れえぬ思ひ出であります。
又、お山へ登るお許しも得まして、頂上の太古からの磐座(いわくら)をおろがみ、そのすぐ上は青空でありますから、神の御座の裳裾(もすそ)に触れるような感がありました。東京の日常はあまりに神から遠い生活でありますから、日本の最も古い神のおそばへ近寄ることは、一種の畏れなしには出来ぬと思ってをりましたが、畏れと共に、すがすがしい浄化を与へられましたことは、洵(まこと)にはかり知れぬ神のお恵みであったと思います。
三島由紀夫
「晴明」碑脇の「誌」より抜粋
狭井神社(狭井坐大神荒魂神社・さいにます・おおみわの・あらみたまじんじゃ)
狭井神社は狭井川の南に位置し、古くから疫病を鎮める神として信仰されてきました。「狭井」とは神聖な泉や湧き水を指し境内の薬井の水は万病にきくといわれます。
本社の大神神社が大物主神の和魂(にぎみたま)を祀るのに対し、ここ狭井神社は大物主神の荒魂(あらみたま)を祀ります。
和魂(にぎみたま)と荒魂(あらみたま)
「和魂(にぎみたま)」「荒魂(あらみたま)」とは神道における神の魂のありようを指す言葉です。「和魂(にぎみたま)」は神の優しく、平和な側面のこと。「荒魂(あらみたま)」は神の荒々しく戦闘的な側面のことです。
大物主神は一方で水や命をもたらす恵みの神であり、一方で疫病をもたらす恐ろしい神として描かれています。このように、同じ神の2つの側面を「和魂」「荒魂」という言葉で呼んでいるわけです。
そして「和魂」と「荒魂」は一見矛盾するようで、その実、根っこではつながりあっています。そのことを示す神話が、『古事記』にあります。
荒魂としての大物主神
10代崇神天皇の時代、疫病が流行し、多くの民が死にました。天皇はお心を痛めました。
「心痛いことじゃ。なんとか疫病をやめ、
世の中を平和にするすべが無いものか。
神よ、道をしめしたまえ」
天皇はそうおっしゃって床に入られました。すると、夢の中に、立派な青年の姿の神が現れ、お告げを下します。
「われは三輪山のオオモノヌシノオオカミ(大物主大神)。
疫病はわれの意思なり」
「なんということ!で、どうすれば疫病はやむのですか?」
「わが子孫オオタタネコ(意富多々泥古)をもってわれを祀れ。
そうすれば疫病もやみ、国も平和になるだろう」
……
…
目覚めて後、天皇は早馬の使者を四方に飛ばし、オオタタネコなる人物を探させました。
すると河内の美努村(みののむら。大阪府八尾市上之島周辺)にオオタタネコなる人物がいたので呼び寄せ、天皇は問いただします。
「お前は、誰の子であるか」
「私めは、大物主神がイクタマヨリビメ(活玉依毘売)をめとって生まれた子の三代の子孫で、名をオオタタネコ(意富多々泥古)と申します」
「したり。お前であったか。これで天下は平和になり
民草は栄えよう」
こうして天皇はオオタタネコを神主として、神の山たる三輪山を祀らせました。
また神聖な多くの土器を作らせ、天神地祇(てんじんちぎ。天つ神・国つ神)を神社をつくり祀らせました。これによって疫病はしずまり、国は平和に民は豊かになりました。
…とこのように、『古事記』には大物主神の荒魂としての働きが語られています。話のポイントは、荒魂といっても一方的に疫病や破壊をもたらすだけではないということです。いったん荒魂を祀ると、今度は疫病をしずめ、豊かな恵みをもたらしてくれるようにもなるのです。
つまり、「荒魂」転じて「和魂」となる…「荒魂」と「和魂」は相反するものではなく根っこは一つであることを物語っています。
火や水は、恐ろしい災害をもたらす一方、豊かな恵みももたらしてくれますね。そうしたことを古代の日本人は神話という形で語ったのでしょう。
狭井神社の右脇に、三輪山登拝口があります。
社務所で許可を受けると、ここから三輪山山頂まで登ることができます。入り口脇に登山者のための杖が用意しているのが心遣いです。私が行った時は残念ながらもう時間が遅く、閉まっていました。次回の課題とします。
本日は奈良県桜井市の大神神社を歩きました。山そのものが神であるという、日本人の古くからの信仰の形を、今に伝えています。
神奈備山たる三輪山の青々した姿。はるかに望む大和三山の眺めもすばらしく、大きな存在に包み込まるような、恵まれた気持ちになれる神社です。ぜひ行ってみてください。
次の旅「大和郡山を歩く」