向島を歩く

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本日は、隅田川の東岸・向島を歩きます。「撫で牛」で牛で有名な牛嶋神社、三井家が信仰した三囲神社、長命寺の桜もち、言問団子など、文学歴史趣味においても、お団子の美味しさという点でも、見どころの多いエリアです。

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東京メトロ浅草駅で降ります。EKIMISE7Fで昼食を食べてから出発です。


牛嶋神社

隅田川沿いに江戸通りをやや北上。


言問橋を渡ると、



見えてきました。牛嶋神社です。


貞観年間(859-79)慈覚大師円仁の創設と伝えられます。祀神はスサノオノミコト。治承4年(1180)源頼朝が打倒平家の旗揚げをし、房総半島から鎌倉へ向かう際、隅田川を超えるにあたって配下の武将・千葉常胤がここ牛嶋神社で戦勝祈願したと伝えられます。


本殿前の三輪鳥居(みわとりい)が、真っ先に目に留まります。


真ん中の鳥居の左右に、脇鳥居がついた形です。いかにも鳥居のボスって感じの風格ですね。詳しい由緒は不明です。

社殿右手前にある撫で牛は、撫でると病気が治るとして親しまれています。その他境内には狛犬ならぬ狛牛の姿が多く見られ、牛嶋神社という名前からして牛に強く関係づけられた神社だということがわかります。




もとはここから500メートルほど北の黄檗宗の弘福寺裏手にありましたが、関東大震災後の隅田川の川岸拡張工事によって、現在の位置に移ってきました。

牛嶋神社を後に、北に200メートルほど歩くと、見えてきました。三囲神社です、


隣は小学校で、子供たちが下校しています。生活の中に溶け込んでいる感じがあります。



祀神は宇迦能魂命(うかのみたまのみこと)。お稲荷さんですね。弘法大師が祀った田中稲荷が始まりと言われます。縁起によると文和年間(1352-56)三井寺の僧源慶(げんけい)が、荒廃した社を改築していた時、土の中から白い狐にまたがった老人の像が出てきました。これは霊験あらたかな感じだ…と思っていると、そこに白い狐が現れ、像のまわりを三度回ってすっと消えた、ここから、三囲神社と名付けられました。

その後、田中稲荷として江戸庶民の信仰を集めました。中にも三井家は名前が似ていることから、守護神としてこの三囲神社を篤く信仰しました。

三越のライオン像

境内左手に、三越のライオン像があります。


これはなつかしいものです!三越池袋店は平成21年(2009)5月に閉店しました。現在はヤマダ電機になっています。7Fのしゃぶしゃぶ食べ放題1300円はよく利用します。で、三越池袋店のシンボルだった青銅製のライオン像が、ここ三囲神社に移築されているんですね。

このライオンを前にすると、私は何とも感慨深いですよ。町はどんどん変化していくが、変わらないものがここにある、みたいなね。東口地下の「いけふくろう」と並び池袋の主要な待ち合わせスポットだったライオン君、ここに移ってたんだあ~と、しみじみ懐かしさがこみ上げました。ライオンといっても勇ましさよりも優しさや英知が感じられる表情です。


宝井其角 雨乞いの碑

境内右手には「宝井其角 雨乞いの碑」があります。


元禄6年(1693)。大変な干ばつで、人々は困っていました。ここ三囲神社には村の人たちが集まり、どうすべか。とりあえず祈ろう。それしかなかんべと。鐘や太鼓を打ち鳴らしていました。

そこへ、たまたま参詣に来たのが俳人の宝井其角です。

「思えば古の能員法師も、小野小町も、歌で雨を降らせたという。歌にはそれだけの力があるのだ。よし俺もやるぞ」

そこで宝井其角は「ゆたか」の三文字を詠み込んで、

夕だちや田を三めぐりの神ならば

翌日、ドザーーー。大雨が降ったという、そんな話が伝わっています。

宝井其角(1661-1707)。松尾芭蕉第一の門人で、蕉門十哲の一人に数えられます。日本橋堀江町の医者・竹下東順の子として生まれますが、母方の榎本姓を名乗り、後にみずから宝井と改名しました。酒を好み、派手を好み、しゃれのきいた軽い調子の句を多く詠みました。

老翁老嫗の石像

境内裏手には、たくさんのお稲荷さんの祠に囲まれて、「老翁老嫗(ろうおうろうく)の石像」があります。これも宝井其角に関係した話です。


元禄時代、この三囲神社の白狐を守っていた老夫婦がいました。村人が何か願い事を言うと、よしよし、今お狐さまにうかがいを立てるからと、田んぼのほうに行って呼ぶと、てけてけーと狐が走ってきて、願いを叶えてくれた、ありがとうごぜえます。またよろしく。村人たちは大変感謝したということです。

宝井其角はその老婆の姿を見て、

早稲酒や狐呼び出す姥(うば)が許(もと)

そう詠んだと伝えられます。

三角石鳥居

また、三囲神社ではずせないのが、三角石鳥居(さんかくいしとりい)です。



三柱鳥居(みはしらとりい)とも言います。「三角石鳥居。三井邸より移す。原形は京都・太秦 木島(このしま)神社にある」と書いてあります。由来は不明ですが、何か宇宙のパワーを感じる、ロマンあふれる形です。

長命寺

三囲神社を後に、しばらく北へ進むと、左手に幼稚園があります。



この幼稚園を通った先に、長命寺があるんですけども。ふつうに幼稚園の中をつっきって行くので、いいのか悪いのか、かなり悩みました。保母さんに、あの~お寺に参詣はここでいいんですか。あっ、どうぞどうぞと、快く入れてくれました。


長命寺は天台宗の寺院で、七福神の弁財天を祭ります。三代将軍家光が隅田川の岸で鷹狩をしていた時。アイタタタ…どうしました殿。腹が。それはいけませんな。近くの寺で、一休みしましょう。こうして家光一行は寺に入って休みます。その時家光が境内の井戸水を飲むと、すうーと気分よくなったので、あっぱれじゃ。この水を長命水と名付けよう。寺は長命寺とするがよいぞ。という縁起が伝わっています。

芭蕉雪見の句碑

また長命寺は雪景色の名所としても知られます。

いざさらば雪見にころぶところまで


芭蕉の句碑が立っています。もっともこの句は深川で詠まれたもので場所はちょっと離れますが。そのほか境内には50を超える歌碑や句碑があります。句碑の向こうにスカイツリーがそびえているのも、なかなか、いい感じです。


長命寺の裏手に、長命寺桜もちの店があります。


創業者山本新六が、隅田川の土手の桜の葉を集めて塩漬けにして桜餅なるものを作り、長命寺の門前で売ったのが始まりとされます。三枚の葉を使って、丁寧に包んであります。甘さはひかえめでした。アンコがきめ細かいです。塩漬けの桜の葉と、アンコの甘さがよくあいます。



お店の小冊子に、『江戸名物誌』にある狂詩が載っていました。

幟高長命寺辺家
下戸争買三月頃
此間業平吾妻遊
不吟都鳥吟桜餅

書き下しが無いので、自力で書き下します。

幟は高し長命寺辺の家
下戸は争いて買う三月の頃
此間 業平 吾妻に遊ばば
都鳥と吟じずして桜餅と吟ずべし

もし在原業平が今の隅田川を歩いたら、都鳥とは詠まずに桜餅と詠むだろう、と洒落たものです。

言問団子

その、在原業平にちなんだ「言問団子」も、すぐそばです。


江戸時代、植木屋だった戸山佐吉が隅田川ほとりに団子屋を出したのが始まりとされます。明治に入って、『伊勢物語』の在原業平の歌「名にし負はばいざ言とはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」にちなみ、「言問団子」と名付けてから大人気となりました。

白、黒、黄色の三つの団子が、串を通さないで置かれています。


けっこうボリュームがあります。しかもですね、このお店「言問団子」の素晴らしいところは、「言問団子」と「言問サブレ」二つしか、商品が無いんすよ!それで、二つしか商品がなくて、明治からやっている。そしていつも3時には売り切れる。商売の、理想的な形だと思います。

言問団子の店の前には野口雨情の文学碑があります。

都鳥さへ夜長のころは 水に歌書く夢も見る


「十五夜お月さん」や「シャボン玉」で知られる野口雨情が弟子たちと昭和8年にこのあたりを訪れた際、詠んだものです。今の隅田川岸は近代化されて歌の風情はありませんが、野口雨情の世界のイメージを重ね合わせて歩くと、感慨がこみ上げるかもしれません。

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